第139話 お姫様を迎え撃て! なのだ その三
その日は、まだお店を開けたばかりだというのに、早くもエールを飲みたそうな気配をそこはかとなく醸し出していたおっちゃん。
そんな開店前の仕込みが一段落させて厨房で頷いていたおっちゃんを、それとなくカウンター席の方に導いて、イスへと座らせたわたしである。
実際には、それとなくどころか、あからさまに訝しむおっちゃんの手を引いて、無理矢理に席へと座らせたのだけれど。
おっちゃんだって、そこはかとなくどころかエールの入った樽をガン見しながら、一人頷いていたところだったのだけれど。
まあ、それはともかく。
そこへおしぼりと、お水。
お水は、いつもおっちゃんが沸かしているもの。それにマティアスくん謹製の製氷装置からの氷を入れて冷やしておいたのだ。
向こうの世界じゃお馴染みの、ガラスのコップなんてないからさ。食器棚の角にあった小さめのマグカップにて代用。これが意外に丁度良い大きさだったりして。
おしぼりは、件の貰った謎布を、念のため一度洗って干してから、改めて冷水に晒した後、固く絞ったものだ。ちゃんとおしぼりたたみもしてあるよ。
しかもだね、小さいマグカップが並んでいたとこの更に奥。そこに、どう見てもおしぼり置きにしか見えないような細長い小皿も見つけてしまったのだ。
後で聞いたら、ウル翁から贈られたもののようで、なんとか産のなんちゃらを載せる専用皿らしいんだけど、おっちゃんも用途が良く分かっていなかったらしい。
だもんで、あんまり使う機会もなく、食器棚の奥で埃を被っていたという。なんと、もったいない。わたしがおしぼりの受け皿して、陽の目を見せてあげよう。
竹に良く似た素材で出来た、そのお皿。
うむ、やっぱり、おしぼり置くのにちょうどいい。
本来ならおしぼりは、蒸したりしたいところ。衛生面から見ても、そっちの方が安全だし。
でも元の世界にいた時には、レンジでチンしたお手軽な熱々のおしぼり作ってたりして。
今の季節、雨降りの日が多い。しかも妙に暖かいので、ちょっと身体を動かすと汗ばんでしまう。
日本の梅雨にも似ているけれど、この町の方が湿度が低くて、じめじめしていないのが救いかも。
おっちゃんも、わたしも、汗ダクというほどではないけれど、休憩時間には、顔でも洗ってさっぱりしたい陽気。
それはもう、冷たいお水が、そして冷えたおしぼりが真価を発揮するには打ってつけの朝だったのだよ。
おっちゃんは、わたしに勧められるまま、仕込みで汚れた手や指を拭い、ひっくり返して顔をごしごしとやる。
——ふう。
あからさまに、すっきりとした顔になるおっちゃん。
仕事で額に汗を浮かべてるのも素敵だけど、一段とさっぱりとした男前になったぜ。
すかさず、程よく冷やしたお水のマグカップをことり。
今度は何をか言わずとも、おっちゃんの手は自然にマグカップに伸びる。
——ほう。
お水を一気に飲み干したおっちゃんの顔には、満足毛はぼうぼうと生えているようだ。
実は、お水の冷やし具合には、かなーり気を使ってみたのだ。
この時期、あんまりキンキンに冷やすと、なんだかお腹がごろごろ言っちゃいそうなお年頃。
だからといって、ぬるーいお水じゃ、この場合物足りないだろう。
そう思ったわたしは、井戸から汲みたてくらいの、程よいひんやり感を目指したのだ。
一度沸かしてあるからね。マティアスくんの氷を入れ過ぎないように気を使ったんだぜ。
おかげで、エールにも負けない、おっちゃんも満足の一杯が出来上がったと思う。
ソースはわたしだ。わたしは事前に飲んでみて、丁度いい飲み頃のお水にしておいたのだ。
さあ、どうよ?
わたし渾身の、おしぼりとお水のサービス。
おっちゃんは気に入ってくれただろうか。
言うまでもない。
そして、わざわざ確かめるまでもない
おっちゃんの表情は“採用”の一択である。
しめしめ、ふっふっふ——。
人知れず、ほくそ笑むわたしなのだった。
そして、ついにお品書き、つまるところメニューの登場なのだ。
お品書きも、こっちの世界じゃあんまし見かけない。
飲食店そのものを見かけないから、当たり前と言えば当たり前なんだけど。
『炎の剣亭』も、ご多分に漏れず、従来よりそんなものはなかった。
商売のライバル、と勝手に思っているデリカッテッセン風のお店でさえ、店先にその日のおススメなんかを貼り出しているというのに……だよ。
まあ、『炎の剣亭』の場合、というよりおっちゃんの場合、メニューの類いが必要なかった、とも言えなくもない。
なにしろ、今この店にある食材を、今一番美味しいと思える方法で調理。たらふく食べさせる、というのがおっちゃんの方針なのだから。
とか言えば聞こえは良いが、向こうの世界でいうところのシェフのおススメとかシェフの気まぐれとかっていう、ようするに在庫処分的なものしかなかったのではなかろうか。
いえいえ、本当におススメしたいものを紹介しているところには申し訳ない。けれど、店先でおススメとか書いてあると「ああ、そんなにたくさん仕入れたんだな」などと思ってしまうわたしは素直じゃない。
まあ、気持ちは分からなくはないよ。
わたしが来るしばらく前から『炎の剣亭』は、名店の誉れとは裏腹に客足が遠のいていたみたいだし。
おっちゃんが認めた、せっかくの美味しい食材を大量に仕入れてきても、それが思ったように捌けない。
なので、たまに来てくれる常連さんたちには、たいていは同じ食材が提供されることになる。
結果、常連さんたちの頼むものは、たった一つだけとなる。いわゆる“いつもの”ってやつだ。
馴染みの店に入って一言。
——いつもの。
でもそれはそれで、言ってみたいセリフの一つではあるのだけどね。




