第129話 止まらないのはロマンティックだけど、ペシミスティックは止まるのだ その三
窓からの景色が、いつものお馴染み、『炎の剣亭』前の通りだといいのに——。
そう願いながら、わたしは一直線に窓に向かおうとする。
でも踏み出した自分のつま先を見て、ぴたりとその足も止まった。
なんということだろう。
裸足だったのだ。
いや、靴を履いたまま寝る人なんか、そうめったにはいないけどさ。
ここ最近のわたしの場合、気を失った際には、必ず半裸だったり、全裸、とまではいかなくても、それに近い状態だったりするのだ。
ともかく、迂闊にもあられもない姿を衆目に晒してしまうという、心ならずも不覚を取ってしまう事態になってしまうことが多かったのだ。
今だって、上は着ているけれど、下は履いていない気がする。
わたしときたら、こんな大切なことを、今の今まで気付かないなんて。
しかたがないじゃないか。
おっちゃんのお部屋かもしれない。
そう思ったら、舞い上がってしまったのだよ。
はっはっはっはっは。
とか笑っている場合じゃないか。
自分の身体チェックをしなくてはいけない。しかも早急に。
身体チェックったって、そうご大層なものでもない。
自分の身体はいつもの通りだ。どこにも違和感なんか感じられない。
ただ言われてみれば、なんとなく下半身がすーすーするだけなのだ。
わたしは、おそるおそる自分の身体を見下ろしてみる。
…………!
思った通りだった。下には何も履いてない。
あ、いや、下着は付けているよ、ちゃんと。
くれぐれも誤解しないように。
でも上は、しっかり着てたよ。
いやあ、良かった、良かった。
いや、やっぱりあんまり良くないか。
わたしが、ただ今着用しているのは見覚えのないものなのだ。
一見、女性が着るにはオーバーサイズな、大き目なスモックにも見えなくもない。
スモックってーのは、男性にはあんまり愛用者はいないのかな。要するに大きな園児服みたいなものだ。
でも、これはスモックではない。かたちはワイシャツとも似ているけれど、前開きではないし、襟首も丸い。ヘンリーネックて言うのかな。
首元に幾つかボタンが付いてるから、被って着るタイプのシャツかな。お爺ちゃんに着ていたラクダのシャツというのが、カタチとしては一番近いかもしれない。
ラクダのシャツ。つまりはキャメル素材のシャツは、色が似ているからラクダのシャツって呼ばれている訳じゃないらしいよ。
前にとっても寒い冬があって、その時、本気でラクダのシャツをインナーとして購入しようかと思って、いろいろ調べたから、ちょっと詳しいのだ。
昔は本当にラクダの毛を使ってたんだってさ。でもって、あんまりラクダの毛が取れなくなったんで、カシミアとかウールで作られるようになったんだって。
今は、暖かくて丈夫な化繊で作るのが主流みたいなんだけど、高級品として本物のラクダの毛に、カシミヤやウールを混ぜたものが売ってるらしいよ。買ったことはないけどね。
ラクダのシャツといえば、ラクダの股引っていうのもあったな。
あれは、なんだか暖かそうだ。昔、お爺ちゃんも履いてた憶えがあるし。
せっかく貸してくれるんだったら、下もセットで貸してくれたら良かったのに。
自分が全裸であったり、そこまで行かずとも半裸であったりはしなかったことに、ほっと安堵した途端、借り物だというのに着ていた服に文句をつける。
うーん。それにしても、このシャツでかいな。
袖は大幅に余りまくりだし、裾なんかは膝の上くらいまであるぞ。
このシャツの持ち主っていうのは、いったいどんだけ巨漢なんだよ。
あー、でも、今の季節だったら、このくらいのサイズ感がちょうどいいのかな。
ぶかぶかなせいで、風通しも良くって、変な寝汗もかかずに済んだみたいだしね。
カタチだけはラクダのシャツに似ているけれど、もっと薄手で肌触りの良い生地なのもうれしい。
それから身体を動かす度に、着ているシャツが発する洗濯物の匂い。
一昼夜は着っ放しだっただったろうに、自分の匂いが香ってこない。
まるで洗いたての、干したての、畳みたての洗濯物のような匂い。
お陽様の匂いっていうのかな。けっこういい匂いだな、これ。
元いた世界の洗剤や、柔軟剤の香りとは全然違うけど。
うん、こっちの方が好きかもしれない。
思わず余っている袖口に顔をうずめ、くんくんと匂ってしまう。
この服の持ち主の匂いは、殆ど、というか全くしない。
持ち主がおっちゃんであった場合は、少し残念な気もする。
でも、そうでなかった場合は、とても好ましい結果と言えよう。
だってここって、いったいドコなんだか、いまだ分かっていないのだから。
おっちゃんの部屋なのか、そうでないのか。これは非常に重大かつ繊細な問題なのだ。
ルドルフさんや、マティアスくん関係のお部屋だったら、まあ良しとしよう。
気心のしれた彼らの部屋であれば、そこで一晩を過ごしたとしても、なんら問題はない。
そんなことは有り得ないとは思うけれど、もしネーナさんのお部屋だったら超ラッキーだ。
よくぞお泊まりさせてくださいました。わたしは三つ指をついて御礼申し上げてしまうだろう。
さらに有り得ないことだとは思うけれど、ウル翁という可能性もなきにしもあらず。
わたしの発想の遥か上をいく彼のお部屋にだったら、むしろこちらからお泊まりさせてください、と頼んでも良いくらいだ。
しかし、他の方のお部屋だったとしたら、それは大いなる問題だ。
例えその間に、全くなんにも起こらなかったとしても、乙女の矜持ってものに関わるのだ。
ついつい匂ってしまった服の持ち主。それが見も知らぬ殿方だったとしたら、服を匂ってしまったこと自体を後悔し、悶絶するに違いないのだ。
よし。今度こそ、しっかり確かめよう——。
わたしは、ゆっくりと正面に見えている窓に向かう。
しかしその時、聞こえてくるのは、階下から上がってくる何者かの足音なのでした。




