ネット小説の空行多用スタイルから、なんとなく考えてみたこと
最近、久しぶりに長めの長編小説を書き終えまして、軽い気分で書き始めたのですがなんだか随分疲れましたよ。意外にハードだった。それでお気楽にこんなエッセイを書き始めたのですがね。
まぁ、読者にこんな情報はいらないとは思いますが。
さて。
その書き終えた長編小説は、RPG風ファンタジーな世界をパロッた感じのコメディなノリで、経済とか社会学とかに触れた小説なんですが、かなり文体が難しかったです。
コメディなんで、わざと文体をこわしたり変にしたりしたのですが、やり過ぎると逆に寒くなるし、シーンによっては同じ文体じゃ駄目なので普通にしてみたり、でもあまり変え過ぎると統一感がなくなっちゃいそうだし等々、正直言って真面目な小説よりもよっぽど文体に気を遣いました。
上手くいっているかどうかは分かりませんがねー。
そして、そんな風に気を遣った中に、“空行の使い方”もあります。
コメディなので、印象を軽くする為には空行を多用した方が良い気もしますが、便利なだけに安易な手段のような気もして、まぁ、色々と悩みましたよ。
因みに“空行”ってのは……
……こんな感じの、何もない空白行の事ですね(って、わざわざ説明しなくても分かるか)。
この空行には、様々な使い道があります。例えば、文のリズム調整の為に間を取る為とか、シーン展開の為とか、何かを強調したい時に使ったりとか、ストーリーのテンポ調整だとか(文だけじゃなく、大きなストーリーの流れにもリズムがあります)、先に述べたように印象を軽くするのにも使えますし、またはメッセージ性をより際立たせる為に使う場合なんかもあります。
要するに、空行ってのは表現手段の一つなんですよ。だから、空行を挟むかどうかで、その文章の意味は変わってきます(ただ、空行って便利ですが、あまり頼り過ぎると文章が貧弱になっちゃうような気もします。空行を使わなくても表現できるくらいに文章力を磨きたい! 難しいけど……)。
もっとも、そういった“深い意味”はなく、単に読み易くする為に空行を使う場合だってあるでしょう。
ただし、読み易さの為に使うと、前述したような様々な効果が失われてしまいます。“強調の為に使う”というケースが分かり易いかもしれませんが、読み易さの為に多用すると本当に強調したい言葉が出て来た時に、空行が意味を為さなくなるのですね。
他の何でもないシーンで使いまくってしまっているので、空行を使っても“特別”にならないからです。
だから、僕は読み易さを上げる為には空行を使わないようにしています。実は空行の多用を以前に一度試してみた事があったのですが、“うーん 不便だ”と思って直ぐに止めてしまいました。表現手段を減らしてしまうと、書くのがつまらなくなります。
これは僕の個人的な意見ですが、独り善がりとも言い切れません。何故ならば、書店で並んでいるような小説やなんかでは、つまり、プロの作家たちが書いている文章では、読み易さの為に空行を多用するなんて事はほとんど行われていないからです(ラノベ界隈は知らんけど)。
繰り返しますが、読み易さの為に空行を多用すると、表現手段が失われてしまいますし、そうじゃなくても、多用し過ぎると、文章が貧弱になります。
だから、これは当然って言えば当然だと少なくとも僕は思っています。
空行を多用しているケースももちろんありますが、それは特殊な効果を狙った特殊なタイプの作品です(詩とかね)。
ただですね、
ネット小説では、空行を多用している人が実に多いんです。僕はこういった点を分かった上で、それでも“読み易さ”のメリットを重視してその人達はそうしているのだとずっと思っていました。つまり、世間一般的には自分達は“少数派”で“異端”だと分かっている、と。
ところがどっこい、ある時期辺りから、僕の小説に対して「もっと、空行を使った方が良いですよ」っアドバイスをくれる人達が現れるようになったんです。しかも、空行を使うのが“当たり前”だと思っているような節さえある。その中には“読者”として有名なある方までいました(アドバイスをくれるのはありがたいのですが、こーいうのは、ちょっと困っちゃいますよね)。
もしかして、ネット小説しか読んでいなくて、プロの書く普通の小説では空行を多用していないって知らない?!
って、それで僕は疑い始めました(フフフ。空行で強調してみましたよ)。
きちんと効果を考えた上でどう空行を使うのかを決めるのだったなら分かるのですが、単に“慣例に倣っている”のであれば、このネット小説における“空行多用”は、もはや一つの文化になっていると表現してしまっても過言ではないでしょう。
だとするのなら、“読み易さ重視”だけでネット小説での“空行多用”は説明できないはずです。
なんて事を考えていて、ある時に気が付いたのですが、ネット小説では空行の多用だけではなく、“改行後に一マス空けをしない”人もけっこういるのですよね。しかも、そういう人の作品が、それなりに評価を受けていたりして。
これはむしろ文章が読み難くなってしまうように思うので、“読み易さ重視”では説明ができません。
しかも、空行と同じ様に“改行後に一マス空ける事”は、単なる読み易さの効果だけで使われるものではなく、「改行をした」という作者からの明確な意思表示でもあるので、やっぱり表現手段が一つ失われてしまいます。最後尾までマスが埋まっている場合は、改行してあるのかどうか分からなかったりしますからね。
一応断っておくと、“改行後に一マス空けをしない”事を僕は否定はしません。別に絶対に守らなくちゃならないルールではないですし、既存のルールとは異なった試みを行うというラディカルは好きですし、“矩形に並んだ文章”の見た目は新鮮で面白いとも思ったし、それに改行したのかどうか分からない“不安”は魅力に変えられもします。それで、ちょっとシュールな作風の作品を書いたなら、或いは面白い効果を得られるかもしれない。
ただ、ま、僕が読んだ作品は、そういった効果を狙ったものであるようには思えなかったのですがね。では、どうして読み難くなるのに“改行後に一マス空けをしない”のでしょうか?
わざわざ一マス空けをするのが面倒くさかった? ワープロソフトを使っていると、自動的に空白文字なしで一マス空けしてくれたりしますが、それをそのままコピペでネットに投稿すると、空白が消えちゃうのですよね。僕はテキストエディターで正規表現を使って、一気に空白文字を挿入しちゃうので楽ですが、この方法を知らない人は「ま、いいや」でそのまま投稿してしまうかもしれない。
しかし、これを全部のケースに当て嵌めるのは、ちょっと考え難いような気もします。
それで少し考えて僕は“改行後に一マス空けをしない”というのが半ば作法のようになっている文章がある事を思い出しました。
電子メールや電子掲示板では、空行を多用し“改行後に一マス空けをしない”という事が普通に行われています。
電子メールや電子掲示板って(昔は特に)行間が狭くて、少し読み難いから空行を多用した方が親切ですし、空行を多用すれば、改行後に一マス空けなくても充分に読み易いので、用件のみを伝える事に特化したそれら文章には相応しい作法だと言えると思います。
もしかしたら、ネット小説における“空行多用”と“改行後に一マス空けをしない”というスタイルの起源は、これなのじゃないでしょうか?
そう思って思い出してみると、電子メール小説や、電子掲示板小説なんてものが確かあったはずです(僕は未経験なのですが)。そうじゃなくても、電子メールや電子掲示板に日常的に書き込みをしている人にとってみれば、“空行多用”と“改行後に一マス空けをしない”文章が普通に感じられるのかもしれません。そして、そういう人にとっては、改行後の一マス空けはまだしも、空行を多用しない文章を“不親切”と感じてしまっても不思議ではないのかもしれません。
ネットで文章を書くのが基本の人が、ネット小説を書いているってのは、想像に難しくないですしね。
もちろん、仮に本当に、起源が僕の予想通りだとしたって、それだけでネット小説の文体としてそういったものが多く使われている事の全てを説明しはしません。
ここで、もうちょっと別の視点から考えてみましょうか。
僕は小説を書くに当たって、濫読派向けにするか、それとも精読派向けにするかという事をよく意識します。
因みに、濫読派というのは、まぁ、平たく言うとたくさん読む人です。それに対して、精読派というのは、多くは読みませんが、ある文章の意味を深く考えて読む人。
一応断っておくと、これはタイプの違いであって、どちらが優れているという話ではありません。
ただですね。
明らかに、精読派向けに書いている作品を、濫読派の人が分析っぽいことまでして批判してくるのにはちょっと辟易します。
できる限り傷つけないように、“もう少し深く読んでください”ってな事をそれとなく分かるように返すのって難しいんですよ。
分析までするのなら、せめてもう少し深く考えましょう。無意味だと感じても、ちゃんと意味がある場合があります。それを確り分かった上で批判するのであれば、僕は甘んじてそれを受け入れます。
……えっと、ちょっと話が逸れましたが、ネットには非常に多くの文章が溢れています。当然の事ながら、その文章を多く読んでいる人達は濫読派でしょう。いえ、ネットに溢れる文章量は今まで人類が経験した事のない規模にまで膨らんでいますから、“超・濫読派”と言ってしまっても構わないと思います。読む人は、一体、どれくらいの量を読んでいるのでしょうかね?
これは、作品に点数をつけている人のほとんどが、“超・濫読派”だという事でもあります。
そして、先に述べて来た表現手段を犠牲にして読み易さを重視する“空行多用”の文体は、言わずもがなで、“超・濫読派”向けでしょう。
だから、“空行多用”の文体の作品が、上位に昇って来る。上位に昇って来る文体の小説が多く読まれるのも自明ですから、やがてはそれが“当たり前”になり、一つの文化とまで言えるようになる。
恐らくは、ネット小説においては、こんな感じの事が起こっているのではないでしょうか?
一応断っておくと、これは文体のタイプ差の話で、優劣がそれで判断できる訳ではありません。
僕は“空行多用”の文体を採用しませんでしたが、それは別に“空行多用”の文体が劣っていると主張している訳ではないんです。超・濫読派向けの文体としては、間違いなく“空行多用”の方が適しているでしょう。
それに僕はその入り口で、“空行多用”の文体を止めてしまっていますから、掘り下げたり練ったりしていません。ダイナミックにリズムを重視した小説とか、それ以外でも特殊な構成を持った小説で、面白い活用方法があるかもしれない。
今はまだ、世間一般的には“空行多用”の文体の文章は異端ですが、ネット小説が主流になっていけば、或いは、“空行多用”が通常の文体になる日が来るかもしれませんね(単純に量だけの話なら、或いは既に主流なのかもしれませんが)。
低アクセス数だからこそできる、傍観者な視点で書いてみました。
”なろう”で、のし上がろと必死になっている人には、自分のスタイルは貫けないんでしょうね。
あ、それと、文自体を楽しむ。
とか、その辺りの発想は「文章読本」ってのを読んでみるとよく分かるかもしれません。
因みに僕は三島由紀夫のしか読んだ事はないのですが。