悲しい恋の物語
星子(夢2)
僕らは天国への門を手を携えて登りつつあった。
『カメ太郎さん。天国はまだなの。遠いわ。星子、もう足が疲れたわ』
僕は今にもしゃがみ込みそうにした星子さんを背負って階段を登り始めた。僕の背中に星子さんの柔らかい躰と体温が伝わってきていて僕は幸福だった。
『でも、僕ら早過ぎたのかもしれないね。お父さんやお母さんが悲しんでるよ。天国へ旅立って行った僕らをとても悲しんでいるよ。僕ら、あんまり早過ぎたのじゃないのかな?』
『カメ太郎さん、何処なの、天国の門は何処なの、見えないわ、ずっとずっと階段が続いているだけで天国の門なんて見えないわ』
(僕も星子さんを背負いながらいつまで経っても見えて来ない天国の門に苛立ちと疑いの心を持ち始めていました。僕が今巡っているのは本当に天国への階段なのだろうかという疑問もありました。
……もう僕は何段この階段を登ったことでしょう。もう千段も、少なくとも数百段は登ったようでした。でも僕の目の前の光景はだんだんと薄暗くなりつつありました。
僕は足が疲労しているだけでどうでも良かったけど、星子さんが僕の背中ですすり泣いているようでした。天国だと思った処がどうも天国でないようで星子さんは泣いているようでした。でも僕は歯を食いしばりながら一歩一歩と歩み続けました。
『カメ太郎さん、何処なの。何処が天国なの?』
(僕も星子さんを背負っていて疲労していました。もう星子さんを降ろそうかな、とも思いました。そうして一人で走っていって天国へ辿り付こうかな、とも一瞬思いました。)
遠く星が見えるだろ
あれが天国の門なんだ
遠くて遠くてあまりにも遠いだろ
引き返そうよ、星子さん
もう届きはしないよ
僕らあんな遠い所へは行けないよ
海の中で君の苦しさと僕の苦しさが溶け合って、黒い水の中に僕らは沈んでいっていた。星空がそんな僕の目にぼんやりと映っていた。
何度も海面へ浮かび上がり助けを求めた。僕の意識は喪われてきていた。そしてもう一息もう一息と僕は水を飲んでいたようだった。
誰かが僕の首根っこを掴んだ。とても力の強い人だった。僕はそうして気を喪ったらしかった。
悲しみの夜は更けていっていた。眠れない夜は更けていっていた。家に帰ってきて風呂に入ってもまだ僕の体は寒かった。冷たい黒い海のなかで僕の体は冷えきっていた。そして窓から星子さんの家の灯りを(いつまでもいつまでも今夜はついている灯りを)いつまでもいつまでも眺め続けた。
僕も死のう。朝になったら僕も死のう。僕はそう思ったけれど、下へ降りていって仏壇の前へ座って題目をあげたら元気が出てきてそして僕は
そして僕はもう戻ってこない星子さんとの楽しかった日々の思い出を思い出しながら題目を朝まであげ続けた。ほんのちょっぴりの、本当にほんのちょっぴりの思い出かもしれないけれど。
僕は死んで海のなかから引き上げられた方が良かったのかもしれない。抱き合いながら、僕らは屍となって引き上げられた方がよかったのかもしれない。
ゴロも涙を溜めて見送っていたし僕も僕も涙をいっぱい溜めて見送っていた。黒い星子さんの棺が霊朽車の中に運ばれるとき、星子さんのお母さんは泣きながら棺に駆け寄って泣いた。僕は、星子さんを殺した僕は、ただその光景を悲しく見遣ることしかできなかった。
君はいつも優しかった。本当にいつも苦しんでいた僕も励ましてくれていた。
いつも元気だった君。いつもくよくよしていた僕。そんな君が死んでしまうなんて僕には信じられない。あんなに明るかった君が、とてもとても明るかった君が。
寂しかった、寂しかったからなの。私が死んだのはただ寂しかったからなの。病気が苦しいのでも何でもなかったの。ただ寂しかったからなの。
君も必死だったということを僕は忘れていた。君は寂しさとの戦いに必死だったということを僕は忘れていた。僕は勉強に必死だった。でも君の寂しさとの戦いほど必死ではなかった。
☆☆(1行空き)☆☆
『死ぬなら私も一緒よ』と君は言った。でも僕は死ななかった。そして君がその2ヶ月後に死ぬなんて、冬のあの厳しい日に僕は君はそう言っていた。
僕たち、二人で遠い所へ旅立ったけど、いつまでもつづく階段に僕らもう疲れてしまった。天国があると僕らは聞いていた。でも冷たい階段がいつまでも続いているだけだ。いつまでもいつまでも
遠い遠い星から、僕らを救いにやってくる星が一つあるだろう。僕らを救ってくれて、僕らを天国へ連れていってくれる、遠い遠い一つの星が。
苦しくなると、僕は夜空を見上げて、ああ、あれが星子さんの星だなあ、と、夜の帳が降りたばかりの外に出て、僕はため息をついて思う。あれが星子さんの星だなあ、あれがゴロの星だなあ、と。
僕も苦しんできたのに、僕も苦しいときも何度も何度もあったのに、頑張り屋の星子さんが死ぬなんておかしいな、おかしいな、と、僕はもう死んでしまった冷たい躰に抱きついたまま泣いていました。僕だって、僕だって毎日の学校生活は地獄のようだったのに、それなのに死ななかったのに、僕の方がもっと苦しんできたものとばかり思っていたのに。星子さんの方が僕よりずっと楽なように思えていたのに。
もう眩しい朝日が照りつけているのに、もうこれからの日々は星子さんの居ない今までとちがう日々になるのか、と思って僕は泣けてきていた。
今日の朝日は今までとちがう朝日のようで、僕の胸にポッカリと空洞が空いたようで、僕はとても淋しくてたまらなかった。
僕は君と一緒に死ねてたら、こんなに淋しい朝は迎えなかっただろう。とってもとっても淋しい朝で、僕は君のお通夜に行く前に、再びあの海の中に飛び込んでしまいたい。でも僕は。
(星子の机の中から出てきた手紙)
カメ太郎さん、本当に4年間ありがとうございました。本当に4年間、楽しかったです。本当にありがとうございました。
星子はもう疲れきりました。淋しかったのかもしれません。私には本当の友達はいなかったし(カメ太郎さんだけでしたものね)カメ太郎さんだけが私の親のほかに私のことを本気で思ってくれていました。
カメ太郎さん本当にありがとうございました。いつもいつも長い丁寧な手紙ありがとうございました。カメ太郎さんの手紙とっても真心がこもっていて私一番始めの手紙からちゃんと全部大切にとっています。
カメ太郎さん、ありがとう。私のような体の女の子のことを相手にしてくれてありがとう。カメ太郎さん、本当にありがとう。私、14年生きてきて本当に満足です。ありがとう。
君には自分さえ良ければいい、といった考えがあった。君をここまで育てあげてきた君の両親のことを思うと君は死んではいけなかった。それなのに君は生きることを嫌った。明るく生きてゆくことも辛いと思うようになっていた。
明るく楽しく生きてゆくように努力することも君は辛いと言っていた。明るく振る舞うことも君は辛いと言うようになっていた。君よりもっと辛い絶望的な境遇にある人だってたくさん居るのに君は贅沢にも死を選んだ。それが一番楽な方法だと思って。
疲れ果てていた。星子さんのお通夜に行くのが辛かった。僕は夕暮れの中で横たわり続けた。もう行くまいと思っていた。星子さんの両親に合わせる顔がなかった。電話が鳴っていた。たぶん星子さんの両親からの電話だろうと僕は思っていた。
二度目の電話が鳴っていた。でも僕は起き上がる気がしなかった。このまま闇の中にずっと心ゆくまで横たわり続けたい、と僕は何度も思った。
苦しんで生きてゆくよりも死ぬ方を選んだ星子さん。僕もその方が正しいような気もしていた。本当に僕はこのまま横たわり続けたかった。
二度目の電話のベルは八回ほどで切れた。あとには静かな静寂だけが残っていた。僕の親から僕に星子さんのお通夜に出るように電話したのかなあとも思えてきていた。
海を見つめていると、哀しい星子さんの歌声が聞こえてくるようだ。一月前亡くなった星子さんの哀しい歌声が、潮風とともに聞こえてくるようだ。
辛い毎日に、僕も挫けそうになるけれど、僕はひたすらただ題目を唱えて耐えている。僕はひたすら題目を唱えて、勉強したりしている。
僕は生きることの意味が解らなくなりかけていた。僕は医者になって僕と同じような病気で苦しんでいる人たちを救っていくのだとは思いながらも、真実というものが何か? 真理は何か? そうして創価学会の信心に疑問を持ち始めてきていた。また『人のために生きよう』という僕の決意も“死んだ方が楽だ”という悪魔のささやきに負けつつあった。
僕が星子さんに手紙を書かなくなったのは自分から“情熱”といったものが無くなりかけていたからかもしれない。僕は毎日の図書館での勉強にも疲れを覚えるようになってきていて、それまでは必ず終館まで居たのにもう6時ぐらいになると勉強に集中できなくなり家に帰って来るようになっていた。勤行を惰性でしていた。心ばかりが焦り、星子さんの手紙を書く暇が十分ありながらも“勉強しなければ”という観念とともに僕は11時ぐらいになるともう床に就いていた。ノドの病気を治したかったし、またそのためには十分睡眠を取ることが大事だと思って一日八時間眠っていた。
毎日の学校はとても辛かったし、僕は落ち込み果てていて自殺まで考えてきていた。勤行も怠りがちになっていたし、2日程『フッ』と勤行をやめていた時もあった。
星子さんが死んだのはその罰だったのかもしれない。
僕の正義感が足りなかったのかもしれない。あのとき、海の中に沈みつつあったとき、僕は楽しい美しい楽園の光景を見ていた。もう意識がなくなりかけていたとき、僕は星子さんを救うことを忘れ、あまりの苦しさに自分は星子さんを抱いたまま暗い海の底へと沈んでいっていた。
本当に美しい光景だった。花が咲き乱れていた。
いつか僕も負けかけたことがあった。でも僕は負けなかったし、その悔しさをバネにして僕は今生きている。一生懸命生きている。
(星子さんの星)
ここにはまだ清純だった魂が白い天国へと舞い上がっていった。『なぜ死んだんだい。星子さん。なぜ死んだんだい』
星子さんはあまりにも純粋だった故に、心は傷つき果てて死んだ。星子さんはあまりにも純粋だった故に、心は傷つき果てて死んだ。星子さんはあまりに純粋だった故に、この世に居るのが辛くてたまらなくなって、星子さんはあまりに純粋だったが故に。
あまりにも純粋だった星子さん。星子さんきっと星になったのだろう。今、夏の夜空にきっと輝いているよね。どの星かなあ、星子さんの星は。星子さんが死んで一つ星の数が増えたはずだけどどれかなあ?
星子さんの星ってどれかなあ? 星子さんみたいな星ってどれかなあ。僕今までも
この丘から星子さんの死ぬ前からゴロを連れて星空を見上げていたけど、どれなのかなあ。無数にある星だからどれだか解んないや。
するとピカッと光った。まるで星子さんの黒い大きな瞳みたいにその星が揺れた。あっ!あれなんだなあ!って僕、解ったよ。あっ、あれなんだなあって。
星子さん、明るい大きな星になったね。星子さん、とっても大きな星になったね。ゴロ、あれが星子さんの星だよ。あの美しい星が。
僕は傍らに寝ていた黄土色のゴロのわき腹をつついた。ゴロ、あれが生前、僕が愛していた女のコの星だ。ほら、あの車椅子の。でもとっても綺麗だった。僕が文通していた星子さんの星だよ。
(ペロポネソスの丘にて ゴロと)
夜、キラリッと星が光って流れ星となって消えていった。あれは星子さんの星のようだった。ゴロも星子さんのいなくなった海辺を歩きながら悲しげにその星を見遣っていた。
海辺は、もう星子さんの居なくなった海辺は、久しぶりに来た僕とゴロを悲しげにいつもの波の音や浜辺の香りとともに迎えていた。図書館で勉強してからの散歩なので辺りはもうまっ暗だけど、哀愁というか、星子さんが霊になってこの浜辺にとけ込んでいるような気がしていた。
月の光だけに照らされたこの浜辺は、浜辺じゅうにいっぱい星子さんの霊が満ち溢れているようだった。そして浜辺全体が螢のように輝いているような気もしていた。
その日の帰り、僕は桟橋に立ち寄る気なんて少しもなかったのだけど、桟橋の横を素通りしようと走っていたらゴロが突然、桟橋の方へと必死になって行きたがった。星子さんが死んで始めての散歩だったからゴロは僕らの四日前の出来事を見たかったのだろうか。僕らの恋の名残りがまだその桟橋に残っていたのだろうか。ゴロは狂ったように爪を立てて僕を桟橋の方へと、僕はあまり行きたくなかったのだけど、引いていった。
桟橋に立つと四日前の出来事がありありと思い出されるようで僕は頭を抱え込みそうになった。ちょうどこの時刻だった。今は僕と星子さんが助け出されて人工呼吸を受けていたのと全く同じ時刻だった。
ゴロは桟橋から対岸に見える星子さんの家の方に向かってとても悲しげに聞こえる遠吠えを何回も繰り返した。僕は自然に涙が溢れてきた。星子さんの死ぬときの悲しみがとても痛々しく僕に伝わってきたようで。
あのときの苦しさや冷たさが思い出されて。そして星子さんはもっと苦しく冷たくそして死んでいったことを思って。僕の何倍も何倍も苦しく冷たかったのだろうと思って。
それからちょうど一週間後、星子さんが死ぬなんて。僕はとても予想もしていなかった。あの分厚い別れの手紙を読んでから僕は一週間、失恋と罪悪感とがごちゃまぜになった複雑な気分のまま茫然と過ごした。
今も助けられずに星子さんと一緒に死んでいた方が良かったような気がする。でも僕は星子さんや親の期待に添うように立派な医者になって僕と同じような病気で苦しんでいる人たちを救ってゆくんだ、という気持ちで必死に勉強している。きっと医学部へ入らなければ、と僕は必死になって勉強している。
まるでこの雨は星子さんの涙のようだった。8日前、死んでいった星子さんの涙のようだった。
星子さんが天国から白い雲に乗って下界の僕を見つめて激しく泣いているようだった。
『星子さん』
……僕はそう空に向かって心のなかで呟いた。
『星子さん、僕死ななくってごめんね。通りがかりの人が黒い港の水のなかに沈んでゆく僕と星子さんを本当によく見つけてくれたから、本当によく気付いたと思うけど、僕はまだこうやって生きている。
でも学校がきついな、毎日の生活がきついな、という気持ちは今も変わらない』
(僕)
僕は罪悪感に打ちひしがれ、部屋のなかで頭を抱え込み続け、そして唸ろうにも唸れず、石のように固くなって横たわり続ける。体を丸くしながら。
そして僕も星子さんの後を追って死のうかなあ、と思った。あのとき、星子さんが網場の桟橋から見投げをして死んだとき、あのとき僕も死んでいたら良かった。死んでいたらこんなに罪悪感に沈まなくて良かった、と思えて僕を助けてくれた会社帰りの○○さんにかえって恨みがましい思いを抱いていた。
あの日、ずぶ濡れになって家に走って帰ってきたあの日、僕は風呂のなかで泣いた。僕は、警察や消防署の人から『帰ってもいい』と言われて僕は濡れた体のまま来たとおりの道を通って寒さに震えながら来たときの速さぐらいの速度で家へと帰った。
父や母や姉ももう帰ってきていてもう風呂が湧いていた。僕は家に入るとすぐに風呂場に駆け込んだ。父や母や姉もまだ今日の出来事を知らないであろう。僕が殺した。僕が殺した。という自責の念が強い罪悪感となって僕について廻っていた。
君がスフィンクスのようにペロポネソスの浜辺に立っていた。車椅子に乗ってスフィンクスのように立っていた。もう君は死んだはずなのに、だから君の霊かもしれないけどそっくりそのままに、君が浜辺に車椅子のまま出ていた。
君は赤い太陽に向かって飛んでいた。お星さまでなくて、赤い太陽に向かって、何故か君は飛んでいっていた。
君は僕が助けに来てくれることを知っていたのだろ。でも僕は胸への痛さに耐えかねて何度も倒れた。血も吐いた。僕は自分の喉や胸がこんなに悪くなっていることは知らなかった。君は僕が来るのが遅くて、失望して、そうして死んでいったのだと思う。僕は必死に走ってきたのに。這いながらも進んできたのに。
※(星子の死んだ翌日、僕の家のポストに入っていた星子の手紙)
(カメ太郎さんは強いかたです)
カメ太郎さんは強いかたです。二月のあのピンチをくぐり抜けられてきたカメ太郎さん。私だったらとっくに死んでいたと思うのにカメ太郎さんは堪えてこられて、今明るく生きていらっしゃるようです。本当にカメ太郎さんは強い方だと思います。
それなのに星子は弱い女です。星子の苦しみは二月のカメ太郎さんの苦しさに比べたら何分の一にしかならないと思います。それなのに星子は苦しくて明日カメ太郎さんに電話してから死のうと思っています。
カメ太郎さんは本当に強い方です。カメ太郎さん、小さい頃から苦しんできたから、だから強いのでしょうか。私は小さい頃、パパやママにとても甘やかされて育ってきたから弱いのでしょうか。
僕の顔は砂だらけになって泣いていた。傍にゴロが居た。僕が殺したという罪悪感でいたたまれなくて僕は泣いていた。でもいくら泣いても僕の罪は消えそうになかった。傍でゴロがじっと僕を見つめていた。
波の音。
(夢の中で)
あれが北斗七星。あれがカシオペア座。そしてあれが北極星。見えるだろ。僕の指先をずっと見ていくとその星が見えるだろ。
『南十字星は。星子の好きな南十字星は』
『南十字星は僕もどこにあるのか知らないんだ。たぶん、日本からは見えないんだ。インドや南極近くの国に行かなければ見えないんだと僕は思うよ』
『私、南十字星が見たいわ。私、南十字星が見たいわ』
※(星子さんの死の前の日のことである)
星子さん。そんなに謝らなくっていいんだよ。僕が悪かったのだから。二ヶ月近くも手紙を書かなかった僕に星子さんが怒って当然だ。(小鳥になって星子さん、僕の部屋の前の桜の気の枝に止まって鳴いているけど)僕が悪かったのだから、だからこんなことしなくってよかったのに。僕が悪かったのに。
……星子さんの小鳥は鳴いていた。悲しげにとても悲しげに星子さんの小鳥は鳴き続けていた。
波しぶきの向こうに、たくさんたくさん小魚たちが居て、僕らを迎えてくれるようにも思ったのだけど。僕らを幸せに導いてくれる小魚たちが、僕らを待っているような気がしたのだけど。僕は桟橋まで懸命に走りながらそう思ったのだけど。
岬の向こうに美しい世界があって、僕らは将来そこで一緒に暮らすんだ、と言っていた。でも僕は岬の向こうにも石垣だらけのここと同じような処であることを知っていた。でも僕は星子さんには黙っていた。僕は星子さんの夢を壊したくなかった。
僕がよく魚釣りに行って釣って来た縞模様のあるちっちゃな美しい魚はあの岬の先端には居ないんだって。僕はそのことを君に告げていなかったと思う。あの岬の先端には大きなクロぐらいしか居なくて、綺麗な縞模様をしたちっちゃな魚は居ないんだって。
(君が死んでいった桟橋の脇に腰かけて)
君が死んでいった海を眺める僕の目は、もう涙は出ない。ゴロもいつもここへ来るとしょんぼりして海を見つめている。僕らは最期のときに始めて抱き合い、そしてそのとき君はまだ生きていたような(そして僕に君から抱きついたような気がしてならない。
君はあのときまだ生きていて、僕がその冷たい暗い夜の海に飛び込んでくるのを待っていた。薄れゆく意識のなか、海の中で僕は君が僕に抱きつくのを覚えた。たしか君はあのときまだ生きていて、もしかするともう死んでいて君の最後の怨念が君を動かし疲れ果てて泳いできた僕に抱きつかせたのかもしれない。僕にはそうとしか思えない。
そして僕は君を連れて陸地へと泳ぎ始めた。薄れゆく意識のなか、僕は途中で沈みかけ、また浮かび出て、そうしてまた泳ぎ始めた。そういうことを何回となく繰り返しているうちに僕は本当にあのとき意識を喪って海の中へ沈んでいき始めたと思う。そして僕がそのとき必死で叫んだ声を聞きつけた田中さんという人が僕らを助けてくれた。でも君は死んでしまった。
僕らの苦しみはもう終わった。
……僕は星子さんと抱き合いながら黒い水の中を沈んでいきながらそう思っていた。僕はそう思って安心していた。今までの苦しかった毎日の学校での生活がもうなくなることを思ってとても幸せな気持ちに陥っていた。
……僕ら、生きているとき、とても苦しんできたけど、僕ら今ようやく苦しみから解放される。本当に苦しかったね。星子さんよりも僕の方が何倍も何倍も苦しかったかもしれない。星子さんはみんな理解してくれてたけど僕は理解されてなかった。だから授業中なんかとても苦しかった。
……僕らの生涯は本当にほかの人に比べて炎のような生涯だったかもしれない。毎日、炎のように辛い日々だった。
僕は走りながら何度も倒れて、もう星子さんを救いに行くのはよそう、もう間に合わない、と何度も何度も思った。僕はそのまま倒れていたら良かったのかもしれない。それとも傷ついた膝や肘を抱えて家へと帰っていたら良かったのかもしれない。
そうしたら僕は少なくとも父や母や姉を悲しませずに済んだのかもしれない。でも…でもそうしてたら僕の苦しい毎日の学校生活は少しも変わっていなかったと思う。
恵まれた者どうしは恵まれた者どうしで幸福な愛をしていたらいい。でも僕と星子さんは、誰よりも幸せな恋をして、そうして星子さんは死んでいった。でも僕らはとても幸福だった。
君は岬に向こうに幸せな世界があると言っていたけど、僕は岬の向こうにもこの浜辺と変わらないような世界が広がっていることを知っていたけど、
黙っていた。
君の夢を壊したくなかったし、
君を落胆させたくなかった。
岬の先には美しい魚がたくさん居て、
僕らを迎えてくれると君は言っていただろ。
でも本当は岬の先には30cmや40cmぐらいの大きなクロばかりいて
君の想像しているような処ではないことを
僕はずっと前に知っていたけど
たしか中二の頃ぐらいから知っていたけど。
浜辺に耳を当てると、もう死んでしまったはずの星子さんとゴロが、楽しそうに遊んでいる音が聞こえてくる。本当に楽しそうで、僕はやっぱり行かない方がいいみたいな気がする。
毎日の生活に疲れ果て、苦しみに疲れ果て、何も信じられなくなった僕は、高校時代や中学時代の頃に戻りたいと、懸命だ。
君は寒い日に死んでいった。春だったけどとても寒い晩に、僕に「さよなら」の言葉を残して、静かに死んでいった。
海の中に消えていった。眠るように楽に、僕らの幸せのため、自ら自分の仕事を去っていった。
『君、寒いだろ。とても寒いだろう』
『ええ、とても寒い。冬の海のようにとても寒い』
……僕はそうして星子さんと二人で寒さに耐えた。
君は来ちゃダメだと言っていた。でも僕は来た。寒い夜の闇の中を、僕は突っ切ってやって来た。
カメ太郎さん。今までの日々は何だったの。今までの私たちの毎日は何だったの。
(星子さんは悲しげにそう尋ねていた。でも僕には解らなかった。星子さんに何て答えていいか僕には解らなかった)
僕らは、僕らは本当に今まで苦しんできたけれど、そうして苦しみ抜いたまま死んでゆくのかもしれないけれど、でも僕らにも楽しい時もあったし、それに
苦しかったからなの。苦しかったからなのよ、カメ太郎さん。私、苦しすぎたの。
……海の中に沈んでゆきながら目を潰った星子さんからそう言われたようだった。(苦しかったからなの。苦しかったからなのよ、カメ太郎さん)でもそれは僕も同じだった。君よりも僕の方がずっと苦しかったのだと以前も思ってきたし、僕は君が死んでいこうとしている今もそう思っている。
夜の闇に包まれて君の家を見ていると、とても君がもう死んだなんて思えない。でも君の部屋には灯りがなくて、君がもう死んでしまったことを教えてくれる。
ゴロも寂しそうな目をしている。君の居なくなった浜辺は、誰も居なくて、とても寂しい。
苦しみに満ちた年月だったかもしれない。でもそれは僕らにとって、僕らにとって罪を償うためのものだったんだ。それを君は放棄した。いや、僕も放棄しかけた。あの黒い海に自分一人で、そして最後は君と二人で沈んでゆくとき僕の心のなかは安堵感に包まれていた。明日から学校へ行かないでいいという安堵感に包まれていた。
このまま海の中へ沈んでゆくことは本当に楽な気がした。もし僕が根性を出して君を岸辺まで連れていってたなら君にまた苦しい毎日を送らせることになったのかもしれない。でも僕はあのときもう根性を出し尽くしていた。今までこれほどまで根性を出したことがなかったぐらいだった。
(夜の浜辺にて)
『カメ太郎さん。真実の星は何処にあるの?』
『真実の星は、見えない。真実の星は僕にも解らない』
カメ太郎さん。生きるの辛いの?
ああ、でも生きなくっちゃ。辛くても生きなくっちゃ。
浜辺に君が居た。もう死んでしまったはずの君が、僕がゴロと夕方、雨に濡れながら浜辺まで走って来たとき、君が居た。大きな瞳で君は僕らを見つめ、僕とゴロは石になった。雨のなかで、僕とゴロは、石になった。
石になった僕らはそして雨のなかで20分か30分ぐらい過ごした。僕らは雨に打たれながら、微笑む君の姿をとても眩しく見つめ続けた。
夜、僕は考えた。君は雨の日にはペロポネソスの浜辺に出ているんじゃないのかと。雨の日に君は雨水となって天国から降りてきて、思い出のペロポネソスの浜辺で結晶して生まれ変わるんじゃないのかと。たった一時間や30分ぐらいなのだろうけど、雨の日には夕方、君はあの浜辺で結晶して人になっているのではないのかと、僕は思っている。
浜辺に君の涙が溶けていって、君は今この浜辺に居るのだろう。僕にはちゃんと解る。この砂浜の中に、君がちゃんと居るって、僕にはちゃんと解る。僕が立っているこの浜辺の中に、君が溶けていることを、僕はちゃんと知っている。
今見えるこの海はもう星子さんの絶望に満ちた悲痛な電話での叫びを幻のように思わせてくれる眩しい夏になりかけた海です。ひと月経って僕の心もやっと落ち着きを取り戻しつつあります。ただひたすら勉強に明け暮れる日々を僕は送り始めました。
始めて抱いた星子さんの躰はちいさくて、とてもちいさくて、僕は本当にこれが僕が文通してきた、いつもいつも綺麗な字で僕を励ましてくれるために長い手紙を書いていてくれた星子さんなのかな?とちょっと不思議に思いました。
不安が僕を襲うとき、僕は窓を開けて海を見るけど、君はもう居ない。僕は淋しさに疲れ果て、毎日の学校生活が辛くて、僕は一人ぼっちでいじけて、僕は喋れなくて、僕は大きな声が出なくって。
君の居なくなったこの浜辺を僕はゴロと一緒に寂しく歩いている。もう梅雨になってずっと雨や曇りの日々が続いています。明日から期末試験だけど日曜日だし、ゴロの散歩もしなくてはいけないので一週間ぶりだと思いますけどこの浜辺へやって来ました。今日も県立図書館で5時まで勉強していました。そしてさっきバスに乗って帰って来てすぐゴロとこの浜辺へ来た訳です。
雨で濡れていて滑りやすいけれど、ゴロは平気で僕を引っ張りながら進んでいきます。僕は朝9時から5時まで途中で30分ぐらい昼ごはんのとき休みを取っただけでずと勉強していました。もちろんバスの中でも勉強していましたし、家からバス停までの道でも勉強のことを思い出したりしていました。
夕暮れの海の上を君は幽霊のように漂う。僕に微笑みかけながら、君は東望の方へと風に吹かれるように行っていた。青い海の上を、夕暮れで暗くなりかけた海の上を……
僕もゴロも夕暮れの海の上を東望の方に揺れながら動いてゆく君の姿を見つめていた。ゴロも無言だった。僕らはそうしてずっと君の姿を見送り続けた。缶詰工場の裏の防波堤に僕らは立って、風に吹かれるようにして動いてゆく君の姿を見えなくなるまで見送っていた。
君はあの日寂しく死んで行った。もしもう少し君の飛び込むのが遅かったなら、そして僕が気管支の病気を持っていなかったなら、もしかしたら君は助かっていたのかもしれない。そのことを思って僕は今日、ゴロとペロポネソスの浜辺で悲しみにうち沈んだ。君が生きていたなら、せめてあと一年ぐらい生きていたなら、僕は恥ずかしさをかなぐり捨てて、君のところへ走っていって、君と喋ったと思う。何もかも、僕のそのままをさらけ出して、君と喋っていたと思う。
君の涙が溶けているようだ。このペロポネソスの浜辺には、こんな僕を愛してくれた、君の涙が溶けているようだ。こんな、こんなつまんない僕を、一生懸命愛してくれた君の涙が、この海の中に、溶けているようだ。
淋しくてたまらなくなったとき、僕は桜の木に繋がれているゴロのところへいって、そうしてひもをほどいてやって、僕は星子さんと出会った浜辺へ行くけど、星子さんはいつもいない。僕はひとりきりで、ゴロを抱きしめながら海を見つめる。ずっとずっと海を見つめる。
輝いて見える。君を奪った海なのに、輝いて見える。僕はゴロと岸壁に腰かけて、君の美しかった笑顔を思い出している。
僕は、いつも君と一緒に歩いてきたつもりだった。僕が中一の夏からずっと、四年間も。でも君は逝ってしまった。僕を誤解し、僕に悲しい手紙をくれて、君は逝ってしまった。悲しい、悲しい誤解だったのに。
でも僕らは今もゴロと一緒に歩いている。僕らが出会った思い出のペロポネソスの浜辺を。ゴロはとても元気で、星子さんが死んだことを知らないみたいだ。ゴロは元気に浜辺を走り回っている。君が亡くなる前と同じように、元気いっぱいに走り回っている。
ゴロ。夜空のてっぺんに、星子さんの笑顔が見えるだろ。僕らを見降ろしている、大きな大きな星子さんの笑顔が見えるだろ。
僕は君の幻を見ながらこの浜辺に立っている。春、五月の始めの日に死んでいった君。僕は駆けたのに。一人で出てゆく僕をものすごくゴロは泣き叫んでいたのに。
もうあれから3ヶ月が経って、僕の心も、やっと落ち着きを取り戻してきている。辛かったあの夜。寒かったあの夜。眠れなかったあの夜。
僕とゴロは魚になって、岩や藻のあいだをかき分けながら星子さんを捜すだろう。
……『星子さん、何処だい。出ておいで』……
でも僕のその声も星子さんには伝わらないだろう。伝わっても星子さんは海の水の冷たさにぶるぶると震えていて、僕の返事にも答えきれないだろう。
僕とゴロはやっと星子さんを見つけた。星子さんは藻の間に隠れて必死に体を暖めていた。僕とゴロはそのとても寒そうな姿に何と言っていいか解らなかった。
星子さん寒そうだった。とても寒そうだった。僕とゴロは何と言っていいか解らずに息がつづかずに星子さんの前から海面へと浮かび上がった。
僕は星子さんに背を向けて泳いでゆきながら、なぜ僕がこんなノドの病気になったんだろうと思った。そうしてたぶん、このごろ思ってきたように中一の冬、市の中等部の部員会で司会をするようになって今まであまり熱心にやってなかった勤行・唱題を一生懸命やるようになったからだろうかと思った。僕はそうして僕を信心に立ち上がらせた石川さんを憎んでしまった。
寒そうだった星子さん。僕は家に帰って毛布でも持って来てやりたいな、と思ったけれど、海の中なので毛布も濡れてしまって役にたたないと思ってそうして僕はゴロと泣きべそをかきながら家まで帰った。まっ赤な夕陽が僕たちを照らしていて、そしてさっき見た星子さんの可哀そうな姿のことを思ってどうしようもなく悲しかった。
家に帰って僕は思いっきり星子さんの幸せを勤行しながら祈って、ゴロは遠吠えをしながら星子さんの幸せを祈っていた。僕も夜ごはんまで懸命に祈ったし、ゴロも夜食までずっと遠吠えを続けた。僕はそして夜ごはんを食べ終わってからも再び仏壇の前に行って一時間近く星子さんの幸せを祈った。ときどきゴロの遠吠えもそのとき聞こえていた。
君の可哀そうな姿はその夜、僕を3時近くまで眠らせなかった。ゴロもときどき起きて悲しげな遠吠えをしていた。
君が死んだとき、僕も死のうと思った。あの君の葬式があっていたとき、僕は体を震わせながら。
僕は君と、この浜辺を君の車椅子を押して、行きたかった。ゴロも一緒に連れて、この誰もいない浜辺を、僕は君と行きたかった。
海の底に沈んでいてとても寒そうにしていた。星子さんのために僕は題目を唱えていたけれど。次の日も次の日も学校から帰って来ると星子さんのために2時間あまりも題目を唱えていたけれど。
海の中は冷たくって僕は40秒ぐらい潜っていてすぐに出てきた。星子さん、もう喋ることもできないようだった。このまえは僕やゴロの方を向いたのにもう今日は星子さんはうつろな目で僕を見つめることしかできないでいた。
海から帰るとき、紅い夕焼けの中にお月さまが出ていた。学校帰りでもう遅かったから昨日見た星子さんの可哀そうな姿が忘れられなくて、バスを降りてからそのまま海へ来たから、いつもの水族館前でなくて網場のバス停で降りて、僕は海へ行ったから。
君と一緒にゴロを連れてあの浜辺を歩いている光景が見えてくる。君は綺麗な足を持っていて全然普通の人と変わらなくて、とっても綺麗な足がスカートから見えている。
僕も全然吃らなくて、それに声もちゃんと出せて普通の人と全く同じように喋れている。君の足はテニスをしている女の子のように綺麗な足で、僕が好きな○○ちゃんのような足のように綺麗で。
ごめんね、ゴロ。今日はもうゴロを散歩に連れていく元気がなくって。とても疲れてしまって散歩に連れていく元気がなくって。
君を死なせたのは僕の真心が足りなかったからだと、忙しいからといって手紙を書かなかった僕の考えが甘すぎたのだと、そして自分がエゴイストだったんだと、自分のことの方が大事だったんだと、自分の方が大切だったんだと、可愛いかったんだと、
『カメ太郎さん、また来たの。カメ太郎さん、また来たの』
『ああ、寂しかったから。勉強しなければいけないと思ったけどまた来てしまった』
(もう夕陽は山裾に隠れつつあった。補習が終わってから僕はバス停から学生服のままでこの浜辺まで来ていた。僕の靴は少し海水に濡れかけていた)
桟橋の向こうに星子さんの家があるけれど、もう星子さんの部屋は夜になっても灯ってない。もう何ヵ月になるだろう。君が電話で悲しい声をたてて死んでから、もう何ヵ月が経つだろう。
『この浜辺は思い出の浜辺だ』と昔誰かが言った。でも今のこの浜辺は僕の少年の頃の思い出が詰まっている大事な大事な浜辺だ。俯いて砂を取ると僕の掌に星子さんやゴロが楽しそうに走っている夢を見る。この浜辺は思い出の浜辺だ。
星子さん、そんなに寂しがらなくてもいいんだよ。ここは僕らの出会った思い出の浜辺だよ。耳を済ましてごらん。生きてきたときとそのままに波の音、風の音、そして沖を飛ぶカモメの声が聞こえるだろ。星子さんが死んでからもこの浜辺は全然変わらないよ。星子さん、少しも哀しまなくっていいんだよ。
(浜辺にて。寂しい寂しい浜辺にて)
『僕らの青春は何だったのだろう』
『私たちの青春は苦しんで苦しみ抜くだけ。みんなの冷たい視線や同情を受け続けるだけ』
『でも僕らには希望が、希望がないのだろうか』
『カメ太郎さんにはあるかもしれないですけど、私にはあまりないわ。ただ、カメ太郎さんと結婚できることが私の夢なの。たぶん駄目だと思うけど、それが私の夢なの』
……僕は無言になってしまった。
夜の闇の中を歩いてゆく君は、現実の君とは違う君だ。夜の闇の中を歩いてゆく君は、現実の君とは違う君だ。夜の闇の中を歩いてゆく君は、現実の君とは違う君だ。
夏の海の上に君の姿が見える。まるでかげろうのように、君の姿が浮かんで見える。
僕の一時の心の迷いは、一人の少女をこの世から去らせ、僕はゴロと、誰もいない夏の浜辺を、いつまでもいつまでも駆け廻る。もう僕らの背中には夕陽が照っている。
僕が見つめる海は、燃え立つような真夏の海だ。陽炎のように星子さんの素顔が現れてきて、僕にソッと微笑みかけているような気がする。淋しさに打ち沈んでいる僕に微笑んでくれているような気がする。
(一人ぼっちの浜辺)
高校二年八月 ゴロと
ペロポネソスの浜辺にて
僕は君の幸せを小さい頃から(たぶん小学5年の頃からだったと思うけど)祈ってきた。でも僕の祈りが足りなくなったとき(僕が勉強に熱中して君のことをあまり祈らなくなったときから)君の心は僕を疑い始めてきていた。
僕の真心が君に伝わらなくなったとき、君は僕に恋人ができたのだと誤解して僕はただ勉強が忙しかっただけだったのに、それに僕は形だけでも手紙を出していれば良かった。いつもいつも3時間も4時間もかけて(もっともっと夜の3時ぐらいまでもかかって君に手紙を書いていたこともあったけど)何枚も手紙を書いていたのでたった一枚で出すのが良くない気がしていたし。
僕のノドの病気や吃りが治ったときいつか君とこの浜辺で語り合おうと思っていたのにもう君は死んでしまってただ朝晩の勤行のとき君の冥福を祈れるだけになってしまった。
君は早く旅立ちすぎて、僕は一人だけになってしまった。僕たちが始めて喋って始めて抱き合ったあの夜、あの夜からもう3ヶ月の月日が過ぎてしまった。もう動かなくなっていたけど暖かかった君の躰。冷たい夜の海の中でもう息途絶えた君を僕は始めて抱いた。僕はあの夜のことをまだ昨日のことのように思い出すことができる。でも僕は君と出会ったこの浜辺にはもう当分来ないと思う。今も僕は英語の本を持ってこの浜辺にやって来た。君を苦しめた病気や今も僕を苦しめているノドの病気や言語障害と戦うために僕は一生懸命勉強しなければならないしこの夏休みも毎日毎日県立図書館で閉館になるまで勉強している。
※(カメ太郎の机の中から出てきたメモなのだろうか? 小さな紙に走り書きめいて書かれてある。)
僕は物心がついた頃から自分の喋り方が他の人とちがうことに気付いていました。僕は喋り方がおかしいので電話だけはどうかかけないでください。
僕は罪悪感に打ちひしがれて、今日も桟橋に佇む。近いうちに取りはずされると風の便りに聞いたこの桟橋はでも、僕を海に飛び込ませた思い出のある桟橋で、あのとき始めて抱いた星子さんの体の温もりが、今も僕のこの手に残っているようだ。悲しい2ヶ月半前のその思い出が、学校生活の苦しさや淋しさに暗くなりがちな僕の心をかろうじて支えているようだ。
2ヶ月半前のあの悲しい夜、まだ冷たい5月の海の中に僕は星子さんが背中を見せて浮かんでいるのを見た。もう身動き一つしていなかった。
月の光は隠れていて、僕は真暗な夜道を駆けてきて、桟橋から星子さんの名を呼んだ。傍には星子さんの乗っていた車椅子が置いてあって、車椅子には何も座ってなかった。打ち棄てられたようにして残されていた車椅子と、かすかな波の音しか聞こえない静寂が周りを覆っていた。
怖しい孤独感が僕の胸をかすめよぎっていっていた。誰もいない夜の桟橋の上で僕は、これからは一人で生きてゆかなければならないのだろうか、と一瞬思った。やがて雲が晴れて月の光が差してきた。そして僕はかすかに揺れ動いている星子さんの背中を発見した。港の小さな波にかすかに揺れていた。でも身動き一つしていないようだった。
君が砂の中でうごめいている。僕らの駆けるペロポネソスの浜辺の下で、君は現れようとうごめいている。小さな君の力で、一生懸命に砂を掻け分けているけれど、僕らはその上を駆け回っているし、君のか細い腕ではとても砂を掻き分けることができないでいるようだ。君は必死にまっ暗い砂の中から僕らの駆けているペロポネソスの浜辺へと現れ出ようとしているけれど、僕もゴロもずっとずっと駆け続けていて、君が砂の下に居ることを忘れてしまっている。君は一人ぼっちで砂の下に居るのに、もう一年近くもそのその砂の下に居るのに、君はまだ出ることができないで、ときどき走って来る僕やゴロの足音を聞きながら泣いているんだろ。僕にはちゃんと解るんだ。君は泣いているんだろ。悲しくて悲しくて泣いているんだろ。
君が輝いて見える。海辺に映えて輝いて見える。車椅子の君だけど、でもとっても輝いて見える。
君は砂の中から僕を呼んだって聞こえない。砂浜を駆け回る僕とゴロの耳には、砂浜からの君の声は聞こえない。僕とゴロは砂浜を元気一杯に駆け回るだけだ。
砂が盛り上ってきて、君が現れてきて、僕に『こんにちは』という。
砂の中に埋もれて君は白骨化しながら僕の名を呼んでいる。ペロポネソスの浜辺から君は僕を呼んでいる。ペロポネソスの浜辺の砂の中から、君はまっ暗な中から必死に僕を呼んでいる。でも僕はゴロと何の気もなしにペロポネソスの浜辺を駆け回っている。でも僕はゴロと何の気もなしにペロポネソスの浜辺を駆け回っている。もう星子さんのことを忘れたように。
砂の下から君は僕を呼んでいる。僕やゴロが踏みつけて痛いのだろうけど、君は耐えて、僕の名を呼んでいる。僕らが日が暮れて去ってからも、じめじめとした砂の中から寒いのに、僕の名を呼んでいる。月夜なのに僕の名を呼んでいる。
浜辺に君が待っているけど、僕はもう駆けてゆかない。僕の心は、もう変わってしまって、昔のままの僕の心じゃない。僕の心は変わってしまって、あの純粋だった小学校や中学校の頃のあの純粋でひたむきだった僕の心ではない。僕の心は汚れて、打算に満ちて、僕の心はもう以前の美しい僕の心ではない。
君と僕の約束があったと思う。海のせせらぎのように、僕と君だけの約束があったと思うのに、僕は思い出せない。君はもう死んでしまった。僕は思い出せない。
(ペロポネソスの浜辺にて)
ゴロ。砂の中に耳を当ててごらん。星子さんの息づかいや心臓の音が聞こえてくるだろう。そして、星子さんの哀しい歌声も聞こえてくるだろう。泣いているのか歌っているのか解らない星子さんの哀しい歌声がかすかに聞こえて来るだろう。
君は青い海に浮かんで楽しそうだ。真夏の海の上に浮かんでとても楽しそうだ。僕は苦しんでいるのに。毎日、学校でノドの病気やドモりのためにとても辛い思いをしているのに。
僕も青い海の中に溶けてゆきたい。僕の傍にいるゴロと、砂浜を駆けて、君の元へと僕は走り始めた。真夏の眩しい陽の光が、走る僕とゴロを覆っていた。
生きているとき、ただ夜の闇の中に君の部屋の橙色の光を見て、懐かしさや会いたさに涙ぐむだけだったけど、僕らはやっと会えた。
白い砂浜がずっとずっと続いている。永遠に永遠にずっとずっと続いているようだ。君の頬のような白い浜辺が続いている。僕はでもこの浜辺をゴロと二人で(君なしに)歩いている。ずっとずっと続くこの浜辺を、僕とゴロは哀しみに沈みながら、君の死をまだ信じきれないで、歩いている。僕とゴロはずっと歩いている。
なぜかこの頃家を出るとき『もうこの家には帰ってこないんだ』という気がしていた。
(ゴロと話しながら)
ずーっと前、何かがここにあった。貝殻みたいだったけど、大きな大きな貝殻みたいだったけど、
僕の大きな貝殻は、もう海の中に沈んでしまって、もうこの世に居なくなってしまった。今、たぶん、どこかで僕を見ていると思うけれど。
ゴロ。聞こえるかい。誰かが歌っているだろう。誰もいないけれど。いつもの静かな浜辺だけれど。
もう夏も終わろうとしているけれど、星子さんが死んでから始めての夏も終わろうとしているけれど、僕はゴロと星子さんが天国へと旅立った桟橋に立ちつくしているけど、夕陽が僕とゴロを照らしているけれど、
いつの日か僕はこの浜辺を君と手を繋いで歩ける日々を夢見てきた。でももう君は居ない。君はもう天国へ旅立って、僕をそっと微笑みながら見降ろしているだけだ。そっと、僕にも解らないくらいに。
(ペロポネソスの浜辺にて 夏)
ゴロ。ずっと前、ここにカシオペアの星があったと思うけど、この頃見えないね。あの星はどこに行ってしまったのだろう。
星子さんが亡くなったら一緒にカシオペアの星も消えていったのかもしれない。星子さんはいつもカシオペアの星を見て綺麗だと言っていた。とても美しい星だと言っていたけど、星子さんが死んだからもう見えなくなったのかもしれない。
君は夜になるとこの浜辺に出て泣いている。波打ち際で君は泣いている。僕のことやゴロのことを思って、寂しくて泣いている。
浜辺には僕の泣き声と星子さんの泣き声とゴロの泣き声でいっぱいだった。ペロポネソスの夕暮れの浜辺には泣き声だけが覆っていた。哀しい哀しい泣き声だけが覆っていた。
ゴロはまるでハイセイコウみたいだと星子さんは言っていたけど、星子さんの居なくなった浜辺で綱をほどいてやって走らせてみると、本当にハイセイコウみたいに走りました。
(※ハイセイコウ……その頃の競馬の名馬)
幸せの雲があそこにもほらあそこにも見えるだろ。ぽかぽかと入道雲が天草辺りから立ち上っているだろ。眩しい太陽が照りつけていて、とても暑いのに、君はもう死んでしまった。この夏を待たずに死んでしまった。
海の中に沈んでゆくとき『君の少女時代と僕の少年時代が重なりあって』走馬燈のように駆け巡った。君の方がやっぱり僕より幸せだった。そしてだから君が苦しみに耐える力が僕より強かったのだと思う。
暗いブクブクとした海の中で君の方がお父さんやお母さんの愛に包まれて幸せだった。僕もお父さんやお母さんの愛に包まれていた。でも僕のお父さんやお母さんは店の仕事で忙しくて僕のことにあまり構ってくれなかった。
君は以前、とても幸福そうにこの浜辺を見つめていたろう。あの頃の君は何処に行ったのだろう。灰色の空のなかの何処かに、君は消えていったのだと思う。
高二の夏には、僕らはもう口をきいて、一緒にこの浜辺に来ていたと思うのに、僕の傍にはゴロしかいない。僕の傍にはゴロしかいない。
(高二・8月30日 ゴロと)
何故だろう。君の顔が潮風に吹かれて見えてくる。夏の暑い潮風と一緒に、もう居なくなったはずの君の顔が見えてくる。
ゴロ。あのお月さまの裏側を星子さんは今歩いているのかもしれない。自殺したからいつまでもいつまでも一人で歩かなければならないのかもしれない。でもそこはまっ白い砂浜がずっとずっと続いていて、星子さん、一人で淋しいと思うけど、きっと泣いていると思うけど……
もしも僕もその星の裏側に巡り着けたら。もしも僕も行けたなら。
(学校はやっぱり今も辛いから。とってもとっても辛いから。)
浜辺に夜が来ると僕も悲しくなる。君の思い出をいっぱい残しているこの浜辺も暗くなると、僕とゴロは一生懸命、夕闇の中を家の方へ向かって駆け始める。僕らの思い出のいっぱい残った浜辺をそうして僕らは後にしている。君の車椅子姿の残った哀しい浜辺を。
僕が死を夢見ていた2月頃、その頃とても寒くてゴロを抱いて寒さに耐えながらペロポネソスの浜辺で立ちすくんでいたときもあった。そして僕が信仰を心の支えにしてその苦しみを乗り越えたとき、君が今度は死を夢見始めた。もう春になってポカポカと暖かくなってきたとき、今度は君が死を夢見始めた。とても淋しくて僕が行えなかったことを、君はしてしまった。
僕は親のためにできなかった。本当に楽になれるようだったけれど、僕は親の悲しみを思うとできなかった。それを君はやってしまった。あの寒い北風の吹いていた夜に、君はやってしまった。
僕は君がそんな絶望的な状況にあったなんて、そんなに孤独に陥っていたなんて、僕は心の隅に君への罪悪感を(忙しくて構ってやれない罪悪感を)僕はいつも抱いていたけれども。
立岩の神棚の付近をトンビになって飛び回っている君。静かに魚釣りしている僕。僕は月曜から土曜日までとても苦しいけれど、日曜日はいつもこうして父と小船に乗って魚釣りに来ている。神棚の付近を僕に気づかずに餌を求めてうろついている君。
美しかった君は、今は一羽の黒い鳥と落ちぶれ果てて、釣り人の残すオキアミなどを仲間と競って食べる鳥と落ちぶれ果てて、美しかった君は
中等部のとき魔が競い起こった。市の中等部の司会役に選ばれた僕の喉に魔が住み着き、僕は大きな声が出なくなった。小さな声しか出なくなった。
それから何年になるだろう。その喉の病気の故に高三のとき頭の病気にもなったし、今、信心をやめて八年以上経っている。僕は大学に入って信心をやめた。それまで炎のようにしていた信心をやめた。
魔に負けてはいけなかった。
君は寂しく突ついている。僕と父が残したオキアミの残りを、夕陽に照らされながら、寂しげに、寂しく突ついている。夕暮れの中で君は泣いている。ますます暗くなってゆく僕と父が居なくなった立岩の上で泣いている。そして泣きながら僕たちが残していったオキアミをつついている。哀しく食べている。
君は寂しく残りのオキアミを食べながら、船外機付きのボートでゆっくりと去ってゆく僕と僕の父の後ろ姿を見送っているだろう。仲間に負けないようにたくさん食べるようにしながら、ときどき東望の方へ帰ってゆく僕と僕の父の船を見送っているだろう。
僕と父が残したオキアミを、君が夕方、黒いトンビになって拾いに来るのを思うと、僕は東望へと父と船外機付きのボートでゆっくりと向かいながら悲しみに暮れてしまう。君が黒いトンビになって、僕と父が残したオキアミを食べていると思うと、夕暮れと一緒に、そして明日からの一週間の苦しい学校生活と一緒に、僕の心は憂欝になってしまう。
コトッコトッと僕のエンジンの音が鳴る。トンビになった星子さんたちは必死になって僕たちが残していったオキアミをついばむ。心配になって振り返ると君は仲間と一緒に必死になって僕らの残していったオキアミをついばんでいた。
…………夕暮れが僕や父や僕の家のボートや立山などを包んでいた。…………
(星子さん 天国より)
カメ太郎さん、頑張っていますか。星子さん、今、海の中に居ます。勉強頑張って下さい。そうしてきっときっと医学部に入って下さい。そうしてたくさんたくさん、カメ太郎さんや星子さんのように病気で苦しんでいる人たちを救っていって下さい。カメ太郎さんならきっとすばらしいお医者さんになると思います。とっても思いやりがあって優しいカメ太郎さんだからきっときっとたくさんの人たちを救っていってくださると思います。
星子さん、もう手紙でカメ太郎さんを励ましてやることもできなくなりました。でもカメ太郎さんはきっと大丈夫でしょ。カメ太郎さん、本当に頑張ってね。勉強に本当に頑張ってね。
寂しく死んでいった君。負けて死んでいった君。必死に生きている僕。宗教を心の支えにして必死に生きている僕。苦しいけれど僕は生きている。君のためにも僕は生きている。
夢の中で僕はゴロと駆け巡る。星子さんの居なくなった浜辺を駆け巡る。僕らがペロポネソスの浜辺と名づけた浜辺を、もう木枯らしが吹いて寒くなってきた浜辺を。
君は知らなかった。死後の世界が炎に包まれたものであることを君は知らなかった。僕もあまり知らなかった。
君は地獄へ落ちていった。自殺者が行くように君も地獄界へと落ちて行った。でも君の心は清らかで、次第に天国へと登りつつあった。また僕も毎日二時間ぐらいも君のためにお祈りをし続けていた。
君は救われた。君の心が清らかだったし、僕の祈りが強かったからだろうと思う。君は今は天国へ行って幸せに暮らしているようだ。現界で苦しむ僕を哀しく見つめながら。
僕に掴まるのはやめてくれ。君は地獄で苦しまなくてはならないんだよ。僕に掴まるのはやめてくれ。
君は駆けてゆく。倒れ伏した僕を置いて、浜辺を駆けてゆく。
僕は夕暮れの中をゴロと一緒に君の墓へと走り抜く。夕陽を浴びながら汗いっぱいになりながら君の墓へと駆け向かう。
君は暗い墓の中に居るのかもしれない。
僕とゴロは君の墓の前で立ち尽くしていた。家から走ってきて息がとても切れていた。
森の中の、岡の中の、墓の前で、僕は泣いていた。僕が殺したような君の墓の前で僕は泣いていた。
君は墓の中から祈っている。寂しくって、寒くって、祈っている。
(地獄の中でもがく星子さん)
……星子さん、ダメだよ。地獄の中でもがいたって駄目だよ。耐えなきゃ。耐えなきゃならないんだよ。地獄の中ってどんなにもがいたって駄目なんだよ。出て来られないんだよ。
(僕は悲しく星子さんにそう言い放った)
君は悲しみの中で白い鳩になって旅立っていった。僕にさよならを言いながら、僕らの思い出のペロポネソスの浜辺から、白い鳩になって悲しく悲しく旅立っていった。
君の墓に、来るときに道端で取ってきた白い野菊を一輪植え付けた。その花は君のように白くて、とても美しかった。少しも汚れてなくて純粋な君の心のようだった。君の心のように汚れのない白い白い花だった。
寒い丘の上に少女が身を震わせながら立っていた。星子さんだった。八月頃、いつも海の中の岩肌に隠れていた星子さんだった。
『星子さん。寒いのに…寒いのに何故そんなところにいるんだい?』
僕は夏に見た星子さんのあの哀しげな姿しか見てなかったので僕は久しぶりに星子さんを見た。
寒い丘の上に星子さんは十字架にくくりつけられて風に吹かれて寒さに震えていた。
『自殺したからなの。自殺したからこうなの』
星子さんの言葉はあきらめにも悲しみにも似ていた。
僕は泣き声一つたてないで、苦しみに耐えている星子さんのことを思って涙ぐんだ。可哀そうな星子さん。苦しくて辛くて寂しくてたまらないのだろうに泣き声一つたてずに堪えている星子さん。
遠い海の向こうに消えてしまった僕らの思い出は、雲仙岳を望む遠い景色とともに(僕は雲仙の麓のあの海水浴場で有名な加津佐町で生まれそこで3歳まで育ったから、もう消えゆこうとしているような気がする。冬の訪れとともに僕らの思い出も消えてゆこうとしているような気がする。そして僕はこれから大学入試へ向けて一生懸命に勉強に頑張らなければいけないような気がする。浜辺に打ち寄せる波も、以前と全然違わないけど、
僕らが文通を始めた中一の夏、そして中二、中三、高一、と続いた僕らの文通。あの頃は楽しかった。苦しいこともたくさんたくさんあって僕はだから一生懸命お題目をあげてきたけれど、あの頃は楽しかった。君も死ぬまで僕は君のためを思って毎日祈ってきた。一日、三十分ぐらい、君のためだけを思って。もっともっと祈ってきたようにも思う。
僕らは誰からも愛されなくなったとき死ぬのだと思う。でも君はたくさんの人から愛されてきたじゃないか。みんなから大切にされて大事にされてきたじゃないか。
(海の底に沈んでいる星子さんへ)
海の底は寒いかい。海の底は冷たいかい。
僕の生きている外は、とても寒くて、風がビュンビュンッと吹いてきて、とても寒くて、それにとても辛い。
燈台の向こうに君が見える。大きな大きな顔をした君が見える。君は微笑んでいる。苦しみに打ちひしがれた僕やゴロに微笑みかけている。
ゴロ。星子さんはカシオペアの星と一緒に遠くのあの世に行ってしまった。僕らに手を振りながら遠くのあの世へもう行ってしまった。
もう見えない。カシオペアも何も見えない。冷たい冬の闇と、星一つない空が、暗く僕の心を覆っている。
白い雪が、星子さんの涙のように降ってきて、忘れよう忘れようとしていた僕の上に降ってきて、そしてますます僕を悲しませる。悲しく悲しく降ってきて、涙のように降ってきて……
君には厳しかった14年の生涯だったかもしれない。でも僕にも厳しかった16年の生涯だった。僕は君よりも苦しんできたと思ってきた。そしてその考えは今も変わらない。君は弱かったんだ。贅沢だったんだ、と僕は今でも思っている。君は弱かったんだ。贅沢だったんだ。
(ゴロと。ペロポネソスの浜辺にて)
君の苦しさは、僕には解らなかった。君も僕の苦しさがあまりよく解らないとよく手紙に書いてきていた。僕らはお互いに苦しみがよく解らないでいた。でも僕は君が死ぬとはとても思っていなかった。君よりも僕の方がずっと苦しんでいるものとばかり思っていた。
君は僕に4年間も希望と喜びを与えてきてくれた。僕も必死になって君に希望と喜びを与えてきたつもりだった。でも僕の心の緊張が緩んだ頃、君の心も悪魔に支配されて
きていた。馬鹿な僕は勉強に没頭し、君に手紙を書くのもやめていた。
とても強いカメ太郎さんでした。でも星子さんはこうして宿命に負けて死んでゆきます。星子さんにもカメ太郎さんのような芯の強さがあればいいのですけど、私にはそんなカメ太郎さんのような強さがありませんでした。
ごめんなさい、カメ太郎さん。カメ太郎さんを裏切るように死んでゆくことお許し下さい。私、もう耐えきれませんでした。私、カメ太郎さんのような芯の強さがなかったのです。
僕は決して星子さんの言うように強くはなかった。でも僕には御本尊様があった。僕はだからどのような苦しみにも耐えきれたのだと思う。信仰が僕の心の支えになっていた。
星子さんは逝ったけど
僕はいつまでもいつまでもこの地上に留まり続けるだろう。
きっとあと何十年も
僕は使命を果たすまで
星子さんに誓った使命を果たし終わるまで
僕らを覆っていた魔の勢力は強くて、僕も挫けがちになったことが幾度もあった。でも僕は信仰の力でその危機を幾度も乗り越えてきた。夜の1時2時まで祈っていた時が何度あっただろう。僕はそのためにノドの病気になったのかもしれない。でも僕は少しも後悔していない。こうなったのは僕の宿業の故だと思うし、このノドの病気になったために君との純粋な恋を続けてこられたのだし少しも後悔していない。
僕は中学の頃は君の幸せを毎日一生懸命御本尊様に祈ってきた。でも僕は高校に入ってからはクラブも勉強も忙しくて君のことをあまり祈らないようになってきた。そして高一の12月頃から『僕のような病気で苦しんでいる人たちのために医者になるんだ』と思ってそれからひたすらに勉強するようになっていた。君との文通が煩わしく思えていたほどだった。
僕は君のことを御本尊様の前であまり祈らないように変わっていった。僕は君のことよりも自分の成績が上昇することばかりを祈るようになっていった。
その頃僕はクラブもやめたし2年生になって一年の頃とても僕を苦しめた現国の先生から習わないようになったし理系の大人しい静かなクラスになって僕にひとときの幸福な季節が訪れたように思っていた矢先だった、君が死んだのは。
僕が高校一年の終わり頃の厳しい日々を乗り越えてホッと一息ついていたとき突然君は死んだ。僕に一生のうちで一番気楽な日々が訪れた矢先だった。
大きな声を出さなければいけないクラブからも解放され、吃りのためあれだけ苦しめられてきた現国の一文読みの先生からも解放され、僕はそのころ幸せだった。勉強に励んでいたけど勉強はかえって僕には幸せだった。
僕には御本尊様があったけど、君にはなかった。僕は毎日の学校生活が辛くてもう学校に行きたくなくなっていたときも僕は学校から帰ると一時間二時間と題目をあげて挫けそうになる自分を励ましていた。
どんなに辛くても自殺だけは考えなかった。
君には信仰がなかった。前世や来世の話をしても君はあまり本気にはしていなかった。
僕の苦しさを君が解らなかったように君の苦しさを僕も解らなかった。君がそんなに苦しんでいるなんて僕は思ってなかったし、それに僕にはそんな余裕がなかった。僕はエゴイストだったのかもしれない。君のことをもっと思ってやるべきだったのかもしれない。
君のことを思ってやる余裕がたしかに僕にはなかった。僕は勉強で精一杯だった。君に書く手紙が僕には煩わしかった。
青い海の底に、コバルトブルーの海の底に、綺麗な楽園があって、きっとゴロと星子さんはそこで遊んでいるんだろう。でも僕は生きていてまだ苦しんでいる。この高二から高三になる春休み、僕は毎日図書館に勉強に通いながら僕は思っている。楽しい世界は、一年後に僕の前に開かれるのだろうか。幸せって何だろう。自由って何だろう。
僕は県立図書館へ向かう緩やかな坂道を登りながら自分の生きている存在感や価値、そうしてもう春になろうとしているのに寒い日々。恵まれている者は恵まれているままで、そうして不幸な人たちは不幸なままで、その矛盾に僕は憤りを覚えながらも人の運命というもの、宿命というものを深く深く帰りのバスの中で考えた。
人間って何のために生きているのだろう。それにゴロなんかの動物や昆虫など。生きるって何なのだろう。そうして苦しむことって。僕らが努力したり苦労したりすることがいったい何になるのだろうかって、僕は悩みました。
僕も早く青い海底へ行きたい。そうして早く僕も幸せになりたい。でも僕には使命がある。僕と同じ病気で苦しんでいる人たちを救わなければならないし、僕もこの世で幸せな家庭を築きたい。僕はもっと生きて、少なくとも50歳までは生きて、幸せになりたい、小さい頃の不幸せを埋めていきたい。長く生きて、幸せを僕は取り戻したい。
海の底の綺麗な魚たちや、ゴロや星子さんが僕を呼んでいるけど、僕はこの世で限界まで長く生きて、そうしてこの世の勝利者になりたい。この世の勝利者になって、幸せになって、大きな家や幸せな家庭を築きあげるまで、僕は死なない。僕が死ぬときは、あと35年はかかるだろう。でも僕はきっと幸せになって、ゴロや星子さんの分も生きてそして幸せになって、ゴロや星子さんの待っている竜宮城へ行こう。あと何十年先になるか、僕には少しも解らないけど。
今日は学校でもないのに朝早くから小学校まで来ました。ブランコが早朝の小雨に濡れて光ってかすかに揺れていました。スズメはもう元気に起き出して餌をついばんでいました。
もう星子さんが死んでから一年近く経つのですね。僕ももう高校3年生になっていよいよ大学受験も間近に迫りました。
今朝は眠れなくて3時間半ぐらいしか眠っていません。春休みで生活の時間帯がずっと遅れがちになってしまったし、あさってから補習だから早起きに慣れようと思って、いつもなら(昨日までなら)昼近くまで寝ていたのに今日は思い切って飛び起きてきました。
今、ブランコの上でこれを書いています。家を出るときはかすかに降っていた雨も今はやんでいます。今朝は悪い夢を見て気分は沈みがちです。
バッグに勉強道具を入れてきてさっきまで少し勉強していましたけど、昨夜よく眠れなかったこともあって頭がボーッとしてこれを書いています。桜は満開ですけど、僕の心は重く沈みがちです。
天国の星子さんの顔は思い出すとこの白い桜の花びらのようで、そんな星子さんを無情に死に追いやった自分の病気のことが腹立たしくてたまりません。
きっと僕は立派な医者になって、僕らをこんなに苦しめた病気のことで苦しんでいる人たちのためになるんだ、と思っています。
星子さんへ
勉強に疲れきったとき、僕は西の方の空を見上げて、もう何年経ったのか解らないけど、あの楽しかった懐かしい文通していたことを思い出して泣き出してしまいそうになります。
遠く長崎から離れて福岡の予備校に来ている僕ですけど、本当にここはコンクリートのジャングルジムのような所です。僕らの思い出の浜辺はどうなっているんだろうなあ、と思っています。
僕らが育った日見は本当に自然がいっぱいで、山があったし海があったし公園もたくさんありました。僕が小学生の頃は空き地がいっぱいででも今はもうほとんど空き地がないくらい家が建ってしまいました。僕の小さい頃は僕よりも背の高い草が空き地を覆っていて、僕はよくその間の近道を通って学校へ行ったり家に帰ったりしていたものでした。
僕らのあの懐かしい思い出はただ僕らの記憶の中だけに蔵い込まれてもうないんですね。僕らの少年・少女時代はもう遠い過去のものとなろうとしています。それに星子さんの存在だって。
星子さんへ
僕らのあの思い出の浜辺も星子さんが死んでから一年以上が経って僕はもうあんまり行かなくなりました。星子さんの家やかすかに見える浜辺を僕の部屋からときどき眺めるだけです。もしも僕が白い鳩になってあの浜辺に久しぶりに飛んでゆけたらどんなにいいだろうな、と思ってしまいます。
僕らの思い出の浜辺はもうウニ採りも終わったし、中学生たちがかつての僕らのようにサザエ取りなどに励む季節に近づこうとしています。
もう高校三年も6月を過ぎて大学受験へ向けて一生懸命勉強しなければいけない季節になってきました。
僕も何度死のうとしただろう。でも星子さんはたった一回死ぬ決意をしただけで死んでしまった。星子さんは不幸に
ゴロ カメ太郎作
青い海の向こうに、星子さんの顔が透けて見えるようで、僕はこの春の日、ゴロと思い出のペロポネソスの浜辺へやって来て、ノホホン、ノホホンと日曜日を過ごしています。今日は県立図書館は休みだし、市民会館に行くのも億劫だし。
星子さんが死んでから僕は本当に寂しかったです。誰にも手紙を書く宛もないし、僕は勉強したり勤行したりしてずっと過ごしました。
青い輝く空の向こうに、きっと幸せな生活が待っていると星子さんは言っていた。遠い輝く空の向こうにきっと幸せな世界があるのだと。
きっと何処かに幸せな世界があるのだと
星子さんは海の中に沈んでゆくときに僕に呟いたような気がする。
とても苦しい息の下から、僕にそう呟いたような気がする。
寂しさが込みあげてきても、僕はゴロを連れて海へ行けばいいから、あの懐かしいペロポネソスの浜辺へと行けばいいから。
(ゴロと 夕方)
ずっと昔、君が生まれる以前から、江戸時代の頃から、この桟橋はあったそうなのだけど、そしてその頃は、木でできていた桟橋だったんだそうだけど、そして今よりもちっちゃな桟橋だったそうなんだけど。
君は素直すぎた。君は素直すぎたんだから。
雪の中から君の泣く声が聞こえる。
『でも自殺したんだろ。星子さん。自殺したんだろ』
『カメ太郎さん。でも苦しいの。とても苦しいの』
僕は仏壇の部屋へと駆けた。そして必死になって題目をあげ始めた。星子さんの幸せのため、僕は必死になって題目をあげ始めた。
『カメ太郎さん。私、苦しいの。私、苦しいの。私、自殺したこと、本当に後悔してるの。私、衝動的に海に飛び込んだだけなの。でも海のなかとても冷たかったの。私……』
僕は必死に題目をあげ続けた。星子さんの幸せのため、星子さんの幸せのため、僕は必死になって題目をあげた。一時間、二時間、と続いた。僕の声はかれ、虫のようなかぼそい声しかもう出なくなっていた。
『御本尊さま、一日も早く、早く星子さんを地獄からお救い下さい』と願いつつ僕の声はもうほとんど出ないようになっていた。僕は線香の立ち込める部屋で題目をあげ続けた。
『カメ太郎さん。カメ太郎さん』
……海の上から呼んだって無理だ。僕はもう以前の僕ではなくなっている。(僕はそうして浜辺に寝転んでいた。ゴロが辺りを忙しそうに駆け回っていた。いつもの夕暮れの光景だった。寝そべる僕と、蟹や小石と戯れるゴロと)
君はとても速く走っている。僕がいくら追っても捕まえきれないくらいに、とても速く走っている。信じられないくらいに、春の野山を駆け回っている。
君は『エイトマン』のように速く走っている。捕まえきれないでいる僕を笑いながら、君はずっとずっと走り続けている。
もう海面を見渡しても、君の笑顔は見えない。君は海の底に沈んでいって、今、暗い顔をしていると思う。
以前、見えていた君の笑顔も、一冬が去ってもう見えない。遥か向こうに雲仙岳と天草が、ぼんやりと見えている。
遠く海の向こうに君が煙って見えた幸せな世界は何処に行ったのだろう。遠い遠い海の向こうで僕に微笑みかけていた君の美しい笑顔は、今はいったい何処に行ってしまったんだろう。
今日、ゴロが保健所に引き取られていった。朝、9時ごろ、父が日見役場まで連れていったそうだ。夜、そのことを話題にしようとした母は父から『そのことはもう言うな』と厳しく叱られた。
僕も一人ぼっちになってしまった。ゴロも逝き、僕も一人ぼっちになった。僕はただ勉強をして、そうして僕と同じ病気で苦しんでいる人たちのために医者になって、そうして僕と同じ病気で苦しんでいる人たちのために医者になって、そうしてノドの病気や吃りで苦しんでいる人たちのために医者になって、そうしてノドの病気や吃りで苦しんでいる人たちを救ってゆくんだ。僕は救ってゆくんだ。
(星子さんへ)
ゴロが死んだ。僕は一人、この浜辺に佇んでいる。ゴロは今朝、保健所に送られ、ほかの犬と一緒に、薬を食べさせられて死んだと思う。でも、もしかすると生きているかもしれない。僕の家に、ゴロを狩猟のための犬として貰いたい、とわざわざ訪ねてきてくれた人のような所へ、もしかするとゴロは行ったのかもしれない。そしてゴロはまだ生きていて、僕らのことを懐かしんでいるのかもしれない。きっとそうなのならいいのだけど、本当にそうなるのならいいのだけど。
でもゴロはもう死んでしまったと思う方がいいのだと思う。そんな幸運なことになったらいいのだけど、本当にゴロが助かっていたならいいのだけど。たとえもう永遠に会えなくても、ゴロは生きていたらいいんだけど、
ゴロは今何処に居るんだろう。僕はそうして昨日保健所に送られたゴロを思ってこの夕方駆けた。ゴロ、何処へ行ったんだろ。僕は一人で浜辺を駆けた。ゴロ、何処へ行ってしまったんだい。僕は倒れるまで駆けた。
やがて僕は倒れ伏し、顔を砂の中に埋めた。僕の躰は砂で覆われ、
ゴロも死んでいった。祖母に大怪我を負わせて、今朝、保健所のクルマに乗せられて連れていかれた。ゴロも死んでしまった。僕は
星子さんも死んでゴロも居なくなった。ただゴロは何処かに生きてないかな、と、保健所で殺されずに、何処かで生きてないかな、と、西彼半島の山の中か何処かで、ハンターの飼い犬として、立派に生きてないかな、と、でもそう生きていてもゴロは僕や父を思ってとても寂しさに沈んでしまっているんだろうなって、とくに夜に。
(ペロポネソスの浜辺にて 一人にて 高三・六月)
君のため、僕は信心しているのかもしれない。もしかしたら最近死んだばかりのゴロのために信心しているのかもしれない。でも僕は僕のため、信心しているのだと思う。
君は早まったんだ。僕と一緒にこの立山の森のなかで、ポカポカと暖かいこの森のなかで、お互いを見つめ合いながら死んでいったら、どんなに幸せだったろう。僕ら二人、首を吊りながら。
君が眠っている。浜辺に眠っている。幸せそうに眠っている。でも僕は苦し紛れに今日もこのペロポネソスの浜辺に走ってきた。辛い学校生活のやるせなさと、自分の宿命への苦しみと、人間の生き方と、僕はとても迷っている。これではいけない、と思いつつ、僕はどうすることもできないでいる。僕の呪いは強くて、君も、誰も、僕の呪いを解いてはくれない。毎日毎日、朝と夜に二時間ぐらいお題目をあげたりしているけれど、僕の苦しみは、立山の青い空の中に、虚しく、とても虚しく消えてゆく。絶望の思いとともに消えてゆく。
夜空に、ゴロと星子さんが、古代ローマのときのような船に乗って浮かんでいた。そうして夜走っている僕を見降ろしていた。ゴロと星子さんは船縁から顔だけ出して僕を見ていた。
ゆっくりと雲のように動いてゆく船。必死にマラソンしている僕。僕は息をハアハアとしながら必死に走っていた。船の上から星子さんとゴロが僕に手を振ったようにも思った。
『君、きついだろ』
……僕はそう言って天国への長い長い階段を登っていていた女の子に肩を貸しました。『いえ、いいのよ。私、一人で行かなくてはいけないの。ありがとう。でも私、一人で登って行かなくてはいけないの』
……遠い遠い霞に煙って見えない空の上に天国はあるらしかった。でも少女のか細い足ではそこまで登っていくのはとても無理なようだった。白い白い階段だけれど、女の子一人で登っていくのはとても無理なようだった。途中で落ちて海の中へ落ちてしまうようだった。
『あれが射手座、あれがカシオペア座、あれがオリオン座』
『そうだよ。星子さん。よく憶えたね。僕の記憶はぼんやりとしかけているこの頃だけど、僕はまだ君に教えた星座のことだけは憶えている。たったそれだけ。卒業試験や国家試験のことすっかり忘れてしまったけど、僕はまだ星座のことだけは憶えている。
ペロポネソスの浜辺に潜ったよ。でも星子さんの銀色の車椅子も、何もなかったよ。サザエもアワビもほとんどなかったよ。ただ藻だけがうっそうと生い茂っていただけだった。
幸せになりたければあの星へ向かって走ってゆけばいいんだ。階段も何もないけれど、思いきって走ってゆけばきっと橋ができて、僕らはその星に渡れると思う。
もう夕暮れは暮れてゆこうとしていた。すると立石の方からゴロが駆けてきて、その後ろに恥ずかしそうに星子さんが車椅子をゆっくりと押しながら来ていた。星子さんの頬は赤くなっていた。ゴロは元気いっぱいだった。恥ずかしがる僕と星子さんは二人とも頬はまっ赤だった。
ゴロ、耳を澄ましてごらん。この砂の下に星子さんがいるだろう。この浜辺の、たしか何処かに、星子さんがいるだろう。かすかな星子さんの声が、聞こえてくるだろう。
『何が燃えてるの。あの光、何なの。もしかするとカメ太郎さんの魂なの。カメ太郎さんの心なの』
『あれは不知火海の火だ。僕の心ではない。僕の魂でもない。あれは不知火海の火だ。夏になると現れてくる幻の火だ。僕の心でも魂でもない』
砂の中に君が居てゴロが居てそして僕も居て、そして僕らは何を話し合うのだろう。ペロポネソスの砂の中のまっ暗なところで、僕らは何を話し合うのだろう。
将来のこと、未来のこと、生きること、人生のこと、
やがて湧き水が湧いてきて、僕らは岩場に流される。ゴツゴツとした岩場で、僕らは語り合うだろう。虚しかった人生のことや、人は何故生きるのかってことを。
砂の中から君が現れ出ても君は変わっていて
僕は中国語を勉強していた。中二の頃、英語が苦手だし、英語のほかにも外国語を勉強しよう、と思って、毎晩夜12時から2時か3時まで中国語の勉強をしていた。あるとき『聖教新聞』で中国語のコーナーを見て手紙を出した。すると日中友好のバッジと手紙が来た。中二の頃、そうして一生懸命、中国語を勉強した。将来、中国と日本の架け橋の役目を果たそうと、必死になって中国語を勉強していた。眠たい目をこすりこすり毎晩勉強していた。
(夜の浜辺)
あそこに星があるだろう。まるでゴロが駆けているようだろう。何処を目指してゴロは駆けてるのかなあ。あのとっても速かった足で、猟師の人から何度も譲ってくれと言われたゴロが、今、天国を駆けている。もう保健所に行ってしまったゴロだけどまだゴロの命は僕らの胸の中に残っている。たぶんいつまでもいつまでも残っている。そうして僕らは死んでやっとゴロに出会えるだろう。それがいつになるか解らないけど、僕らはいつかゴロに出会えるだろう。
星子さんとの霊界通信
(星子さんの慰め)
カメ太郎さん、いつまで泣いているの。カメ太郎さん、いつまで泣いているの。
受験に落ちた僕を慰めてくれる声がたった一つ、ピンク色に煙る空間に一つ、鮮やかな一つの球体として電話台の上に浮かんでいた。
カメ太郎さん、いつまで泣いているの。カメ太郎さん、いつまで泣いているの。
星子さん、ボク、今まで何のために勉強してきたのだろう。2年あまりの間、ひたすら勉強に励んできたけど、僕のその努力、いったいどうなってしまったのだろう。僕のあの努力は……
カメ太郎さんは今まで苦悩に満ちた人生を歩んで来られました。カメ太郎さん、エドガー・ケーシーでなくってほかの人の生まれ変わりだったのだと思います。カメ太郎さん、声が涸れているからエドガー・ケーシーの生まれ変わりかもしれないと言っていましたけど、きっとほかの別のひとの生まれ変わりなのだと思います。
(玄関に浮かび出た星子さんのその慰めの言葉も僕には虚しくしか聞こえなかった。僕には由貴ちゃんの肢体への幻視があった。僕が九医に入ってノドの病気などにも拘らず由貴ちゃんとつき合える資格のある自分になろうという野望みたいなものが崩れ去った挫折感だけがタバコの煙のように空間にたゆたっていた)
僕のあの努力はこの海辺の青空の中に煙のようにはかなく消えていった。ゴロや星子さんとのこの思い出の浜辺に来て、僕はとても感傷的になっていた。努力とは、生きることとは、僕には解らなかった。
福岡の博多港の一角に僕は座っているのだろう。コンクリートの岸壁に僕は座っている。河口の岸壁でところどころ魚釣りをしている人たちがいる。ときどきボラが見える。なかなかたくさんのボラの群れで、でも長崎の僕の住んでいる日見のボラとは少し小さい気がする。ここは汚染されているのだなあと思う。日見の海は綺麗だけどここの海は少し汚れていて魚が住むのに少し適してないような気がする。
そして僕は川崎さんを思った。南区に住んでいるという川崎さん。南区の大池に住んでいるという。3日前だったろう。僕は夕方までかかって捜したけど見つからなかった。大池のあの団地と見当は付いたけどやっぱり寂しい。この寂しさは川崎さんのためでもあり自分のためでもあると思う。
一人、夕方、自転車を漕いで長洲の寮へと帰った。夕方から勉強があった。図書館で必死に勉強するつもりだった。
福岡にいても長崎の懐かしい海が目を閉じるとありありと見えてきます。僕たちのペロポネソスの浜辺は僕らが中学生ぐらいだった頃とちっとも変わりなく今日もいつもの波の音や磯の香りに包まれていることでしょう。
ゴロも死に、僕一人だけ残されてそして一ヶ月前に長崎を離れて福岡へ来たわけですけど、僕はやっぱり一人で寂しいと言おうか、友達もいない僕にはこの岸壁に来ると心が和らぎます。
いろんな悔しいことなんかが僕の頭をかすめてはいきますけどこの岸壁に来ると悔しい思いも風のようにはかなくしか感じられなくなるのは不思議です。
星子さんへ
海が見えてきます。よく僕らがお互い無言で見つめあっていたあの海が。
ここは福岡の悲しい灰色の予備校の寮です。僕は来年は阪医を受けるつもりです。せっかく一浪したのだから現役のときよりもちょっと上の大学に入らなければ悔しいから。
僕らは悲しい恋人どうし
海を見つめる恋人どうし
やがて夕暮れが僕らを優しく包んでくれて
無言の僕らを慰めてくれる
福岡に居ると、もう波の音も聞こえてきません。今、僕は○○の埠頭にいますが、博多港は波一つなくって、そして長崎は遠く150kmも南西の方角にあるのだから、僕は淋しくって、黄緑色のボクのロードマンにもたれかかって、泣き出してしまいそうな気さえしてきます。
沖には日見の海も(僕らのペロポネソスの浜辺も)そうだったように、白いカモメが飛んでいます。本当に元気に、海面に降り立ったりまた飛んでいったりしています。
ゴロも僕の祖母を噛んで保健所送りになったし、星子さんは死んでしまったし、僕は今本当に一人ぼっちのような気がします。新しい恋人を早く見つけなければならないのだけど、僕はノドの病気だから、声をかけたくってもかけきれなくていつも口惜しい思いをしています。
でも近いうちにきっと僕にも新しい恋人ができて、そして僕も幸せになれるような気がします。きっと近いうちに。近いうちにきっと。
(福岡の博多港の岸壁にて) S55.5.1
もしも僕が喋れていたら、僕は少年の頃の星子さんとの美しい恋物語を造ることはできなかっただろう。きっと僕は幻滅されて、そうして寂しい少年時代を送っていただろう。
僕が中一の冬にノドの病気になったから、僕らは美しい恋物語を残せたのだし、もし僕がノドの病気に罹らなかったら、吃ったりする僕の喋り方に星子さんは幻滅を感じて、僕らは文通をできなかっただろう。僕らの少年少女時代を美しく彩った愛の文通を、僕らはできなかっただろう。
(博多の埠頭にて) 昭和55年5月4日
大学に入ってからまた授業なんかで苦しむことを思うと、僕の心は暗胆となってしまう。浪人している今はとても楽になっている。高校の頃のあの地獄の思いから僕は解放されている。
カメ太郎さん、星の向こうに、幸福な世界があると言っていたわね。でもなかったわよ。幸福な世界はなかったわよ。
……いや、何処かにある。きっと何処かにある。(僕はこう言いながら夜になりかけた博多の住宅街の道を走り続けていた。僕は叫ぶように大声で言ったつもりだったけど僕の喉は枯れていて小さなささやくような声にしかならなかった。毎日三時間題目をあげていた僕だから。今日も今までに2時間題目をあげている僕だから。ささやくようにしか喋れないけどゴメンネ。本当にゴメンネ)
……薄暗くなった戸外を僕は必死に走っていた。公園の横の木々は若葉を風に揺らしていた。僕は必死に寮に向かって走っていた。
僕は博多の岸壁に座って遠く海を見つめながら、遠い昔のような気がする高二の始めまで続いた星子さんとの文通のことを悲しく思い出していた。もうあれから二年が経った。まだ二年しか経ってないけど、僕は競輪学校へ行こうかどうしようかとても迷っている。長崎から福岡よりずっと遠い静岡へ行くと、そしてそこは山の中だから、週に一度ぐらいしか海岸へ出れないだろう。そうして疲れた僕の心を癒してくれる浜辺には週に一回しか行かれないから、僕は静岡の競輪学校の中で発狂してしまうかもしれない。でも発狂したら長崎に帰れて、僕は久しぶりにあの思い出のペロポネソスの浜辺を星子さんやゴロの思い出とともに歩けるだろう。でもそのときは廃人となって、悲しい悲しい廃人となって歩くのだろう。それよりも今僕はこの博多の海の中に溶けてゆきたい。毎日の厳しい自転車の鍛錬や午後からのぶっ続けの図書館での勉強の苦しさを思うと、僕はこの海の中に溶けてゆきたい。ペロポネソスの浜辺とは大きく違う浜辺だけれども、僕はこの黒い海の中に溶けてゆきたい。
僕は何のために福岡に来たのだろう。ここには僕の心を慰めてくれる浜辺もないし、ゴロもいないし、ゴロはきっと僕がいなくなったので淋しがっているだろうし、……星子さんが網場の海から僕を呼んでいる。淋しい、淋しい、と呼んでいる。でも僕は博多港で夕陽に照らされながら来年の受験のことや、競輪学校のことを考えながら過ごしている。僕は遠く長崎から離れて、始めて一人で長崎から離れて住んで、淋しさにいまにも長崎まで帰ってしまいたい。でも帰れない。僕の躰をがんじがらめに縛っている何かがあって、僕は長崎へ帰れない。
君が好きだったビートルズの音楽も、さんかくがレコードを返してくれなくて(東京に持っていっていて)聴けない。波の音がしていたようなあのメロディーを、一人きりの僕は聴きたい。
星子さん。天国で楽しくしているかい? 僕は地上で今も苦しんでいる。
悲しくって涙が出るとき、僕は空を見上げよう。涙に曇ってよく見えないけど、白い雲や小鳥が飛んでいるのが僕にはかすかに解る。ほんとに涙に曇ってよく見えないけど。
僕は黒い海の中に溶けていって僕の不安や焦燥感はすべてなくなって、そうして天界へ住むゴロや星子さんが手招きしているようで。
星子さん、ゴロ。僕は何もかも放棄して天界へ旅立とうかとも思っています。勉強に疲れた。自転車競技の鍛錬に疲れた。僕はもう疲れ果てた。
僕も星子さんのように黒い海の中に飛び込んで(そう言えば星子さんの飛び込んだ海も5月の海だった。でもあれは寒い寒い5月の夜のことだった。でも今日は暖かい5月の日でしかも昼だ。夜、予備校の寮を抜け出してこの港に来たっていいんだけど、なかなか厳しくて抜け出しきれないから。だから無理だ。ごめんね、星子さん、ゴロ。ごめんね。
福岡の空は一人ぼっちの青い空。大学に落ちて長崎から一人やって来た寂しい僕を慰めてくれるのは、黄緑色のロードマンとコンクリートに囲まれたこの岸壁しかない。僕はいつも一人でロードマンに乗ってここへやって来て、そして岸壁に腰かけて海ばかり見つめるようになりました。もう長崎に帰ろうかな、と思います。寂しくっていたたまれないから、もう長崎に帰ろうかな、って思います。深い黒い博多港の中に沈んでゆけたら、星子さんのように港の中に沈んでゆけたら。
そうしたらどんなに楽だろう。そうしたら不安や口惜しさでいっぱいになった僕の心も清らかになって、僕も星子さんが生きていた頃の中学・そして高校一年の頃の僕に舞い戻るのだと思うのだけど。純粋だったあの頃の自分に。
夜が明け始め、何もかもに呪われた僕も目を醒ます。ぐったりと二日酔いの頭で、白みかけた空を僕は仰ぎ見る。
ああ、なぜこんなについてないんだろう。なぜこんなに不幸なことばかり打ち続くんだろう。
僕は空を見上げてうなだれていた。僕はあきらめと悲しみに満ちた瞳を空に向けていた。
空は僕にモグモグと何か喋ったようだった。でも僕は何か解らずうなだれて窓辺から離れた。
予備校の寮の中で、真夜中の2時半頃、目を醒ますと天井に星子さんが映っていてその隣りにゴロがいた。僕を長崎に呼び戻そうとしているようだった。外は雨がしんしんと降っていて、寮をそっと忍び出して、近くの電柱に鍵でロックしている僕の黄緑色のロードマンに乗って、夜の闇を突っ切って帰ろうかな、と思った。そうするとちょうど朝の8時ごろに着いて、僕は思い出の浜辺で、きっと大粒の涙を流して泣くだろう。もう亡くなった、僕のために亡くなったような星子さんとゴロだから、僕はきっと罪の意識と一緒に『ゴメンネ。ゴメンネ。』と言いながら泣くだろう。僕はできるだけ大きな声でそう言うけど、きっとささやくようにしか人には聞こえないだろう。波の音とカモメの鳴き声がきっと、僕の声を打ち消してしまうだろう。
☆☆(2行空き)☆☆
夜11時15分を過ぎていたと思う。僕は自室で勉強していて耐えられなくなって地下の用務員さんの所へ降りて行った。もう11時半ぐらいだったと思う。あんまり遅くて朝の早い用務員さんには迷惑かなと思った。でも僕の胸の中は燃えたぎっていてもう耐えられなかった。
用務員さん夫婦は意外にも起きていた。そしてテレビを見ていた。新婚の夫婦だからそこのところをよく考えるようにともう一人の学会の用務員さんから言われていたけど、僕はもう苦しくてたまらなかったから。
そして僕は『中二の頃からノドの病気でとても苦しんでいること、このノドの病気のために僕の青春時代はめちゃくちゃにされたこと、そしてこのノドの病気は中二のころ勤行・唱題をし過ぎたためにこうなったこと、この口惜しさのため僕は喪われた青春を取り戻すつもりで自転車競技でオリンピックで金メダルを取るように頑張っていること、』を涙ながらに話した。
翌日から僕は用務員さん夫婦が僕のために題目をあげていることを聞いた。でも僕の胸の中の苦しさはそのままだった。ノドの病気も少し期待したけどやはりそのままだった。
☆☆(1行空き)☆☆
僕は弱気になって、君と一緒に死のう、と思っていたこともあった。あの苦しい1月、2月の頃、僕は本気に君を道連れに誘って“死のう”と思っていた。僕の心は完全に悪魔に占領されていた。でも僕は3月になると立ち直った。信仰の惰性に気付いたし、医者になって僕のような病気で苦しんでいる人たちを救うんだという自覚が次第に高まりつつあった。
僕が奇跡的に立ち直ったとき、今度は君が挫けてしまうなんて。星子さんは僕よりも強いんだ、と僕は思ってきた。だから僕のやってる信心をしなくったって…あんまり勧めなくったっていいんだ、と僕は思ってきた。
浜辺の音が波の音とともに朝から家でずっと勉強している僕のところまで届いてくる。朝から題目と勉強の繰り返しだけど、題目をあげているときは何故か今日はずっと君のことを祈ってきた。君の幸せにことを。君が天国で幸福に暮らせることを。
僕にとって初恋の君のことを。僕が死なせたような君のことを。
勉強に疲れたとき、僕はよく星子さんと手紙で話しあっていた僕らの海を眺める。すると自然と涙が湧いてくる。僕らを呑み込もうとしたあの黒い海の波の音と、星子さんの最後の哀しい声が重なり合って、勉強に疲れ果てた僕を涙ぐませる。そしてあのとき電話で一言も発し得なかった僕の病気への怒りと、僕はその怒りに駆られて再び勉強机へと向かう。でも参考書の字が涙でにじんで見えない。僕には何も見えない。
あの日の悲しい夜のことを僕は今でも昨日のことのように思い出す。勉強に疲れたときや淋しさにふと気づいたとき、僕には昨日のことのようにあの夜のことが蘇ってきて、僕を苦しめる。そして孤独感と、たった一人っきりで毎日を過ごしている孤独感と、もし星子さんが生きていたらきっと僕の孤独感は魔法のように癒されていて、僕はまた張り切って勉強机に向かえると思うのだけど、あの浜辺へ行ったって、今の僕には哀しみしか湧いて来ないから、僕は窓辺に立ちつくして、ただ海を見つめる。淋しさと哀しさで心をもみくちゃにしながら。
星子さんの星と、ゴロの星と、今二つの星がある。この前まで星子さんの星だけだったけど、今は二つ星がある。僕が名前を付けた星が今二つある。
星子さんの星一つだけだったときは夜空を見上げると悲しかった。いつも夜空を見上げる度に泣きたいような悲しい思いに囚われていた。でも今夜空を見上げると楽しい。夜空を見上げるとゴロも星子さんもいる。僕の孤独な胸は慰められて、今は空を見上げる度に楽しくなる。ゴロも居るし、星子さんも居るし、僕は夜空を見上げると今は楽しくなる。
今は空を見上げるとゴロが微笑んでいる。星子さんが微笑んでいる。前は空を見上げても星子さんしか微笑んでなかった。でも今は空を見上げるとゴロが微笑んでいる、星子さんが微笑んでいる。僕はちっとも寂しくなんかない。悲しくても辛くても空を見上げれば、ゴロが微笑んでいる、星子さんが微笑んでいる。僕は少しも寂しくない。ゴロも微笑んでいるし星子さんも微笑んでいる。僕は少しも寂しくなんかない。
星子さんへ (霊界へ旅立たれた星子さんへ。もう2年も前に霊界に旅立たれた僕の思い出のなかだけにある星子さんへ。)
僕らは今、博多の西公園の傍の堤防に腰掛けて夕陽を見ています。僕らの思い出のペロポネソスの浜辺での夕陽とちっとも変わんないような夕陽です。そして夕陽を見ているとその夕陽が星子さんになって僕に微笑みかけているような気がします。そして夕陽の傍の雲がゴロで、ゴロが星子さんの方に走り寄っていってる気もしてきます。
あれからもう4年も5年も6年も過ぎたんですね。僕らがあの浜辺でときどき(喋りは全然しなかったけれど)会ってたあの頃から。
もうちょっとで僕らが文通を始めて6年目の記念日がやってきます。(でもあと3ヶ月もあるけど)
本当に懐かしいなあ、と思っています。中学の頃は遅かったけど高校の頃は(とくに星子さんがいなくなった高二、高三の頃は)とても早く過ぎ去ったような気がします。星子さんが居なくて僕一人ぼっちだったからこんなに早く感じられるのかなあ、と思います。