ご禁制の森
――ここはスバルが使っていた客間だ。
先程まで部屋の主だった勇者スバルは、誤解とはいえ妖精少女モドキに手を出したところを見つかってしまい、輝姫の魔法で放り出されてしまったのであった。
大きく外側に開け放たれた窓へと、旋風魔法の名残のような風が部屋から吹き抜けていった。
事件現場に駆け付けたメイドのメイとアメリア、妖精エーセルの三人は、そのまま残って部屋の後片付けをしている最中だった。
「さてと、私の大切な輝姫さまにまとわりつく野蛮人は消えたことだし……。客間が綺麗に片付いたら、後で皆でお茶会でも開きましょうね!」
専属メイドのメイがにこやかな表情で言った。
スバルが使用済みのベッドのシーツを腕に抱えると、メイド服のスカートをフワフワと揺らしながら足取りも軽く部屋から出て行った。
「メイったらやけに上機嫌ね。スキップでもしそうじゃない。……ま、あの様子じゃあ騎士派みたいだからしょうがないか。前に勇者隊とはひと悶着あったみたいだし」
椅子とテーブルをきちんと並べ直しながらアメリアは言った。
そこへ、妖精の小さな身体に合うように特別にあつらえてもらった若草色のメイド服に身を包んだエーセルが、透き通った羽を震わせながら花瓶を抱えて飛んで来た。
「ねぇねぇ、お茶会っていったらやっぱり甘いモノだよね!」
「あらエーセルさんったら、涎垂れてますわ。私の作るお菓子が待ちきれないのはよく分かりますことよ」
アメリアは、さも得意げに手の甲を口元にあてて、オホホホ、とお上品ぶって高笑いした。先日ジャム入り揚げパンを手に入れられなかった輝姫に喜んでもらおうと、お菓子作りに励んでいたのだ。
「えーっ、それ激辛だったりしない? いっつも蜂蜜をたっぷりかけなきゃ、ひと口だって満足に食べられやしないんだから、まったくもう!」
ショートソードでお花を剪定して花瓶に活けていた妖精エーセルは、不満げに頬をぷーっと膨らませた。
実のところ、花蜜が大好物のエーセルとしては、アメリアの作った辛口お菓子の試食につき合わされるのは、もう懲り懲りだったのだ。
「あらまぁ……。輝姫さまの妖精といえど、全然、主のことを分かってないようね。いい? 輝姫さまは辛いものがお好きなのよ。味覚がお子様のエーセルじゃしょうがないかぁ」
「何言ってるのよ。甘いもの好きに決まってるじゃない! アメリアったら、輝姫さまの大好物がジャム入り揚げパンだって知らないの?」
「そういえば……!? で、でも、いつも私の激辛料理を美味しいって完食してくださるんだからっ!」
「まったく、アメリアったらおめでたいわね。あの輝姫さまが、こんな辛いもん食えるかー、とか言うとでも思ってる? 気づかいなのよ。本当は滅茶無理して食べてるっつぅーの!」
「違うったら! 褒めてくださったんだもの! お使いも満足にできないくせに知ったかぶりしないでよ!」
「なんですってぇー! 糸ダルマにされてひっくり返っていたのはどこの誰でしたっけ!?」
ブルブルと震える両腕で花瓶を抱きしめてフンスッと鼻息を荒げるエーセルに対して、アメリアも負けずにキッと猫目で睨み返すとテーブルのふちに手をかけていた。
――ドンッ、ガラン、ガシャーン――!
次の瞬間、激しく言い争う声と共に花瓶が宙を舞いテーブルがひっくり返る音が鳴り響いた。
――少女が薄暗い森の中を逃げ惑っていた。
「まだ……、日中のはずなのにっ、真っ暗じゃないっ!」
密生した大木のねじれた枝葉が頭上を覆い、陽の光を遮る。
どこで道を誤ったのか、林道がいつの間にか細い獣道に変わっていた。
「ハッ、ハァ、ハアッ、ファッ――」
息を切らせながら、巻いた赤毛を振り乱して懸命に走った。
靴は途中で脱げてしまい、藪に切られた足は傷だらけだった。
その背後から、不気味な気配を漂わせる得体の知れないモノが、木々を圧し折りながら迫ってきた。
だが、足元にまで絡まるように伸びた木の根が、逃げる少女の邪魔をした。
「いったい、な、なんなのよ!?」
朝、いつも通りに起きたつもりが寝坊していた。
慌ててベッドから跳び起き、制服のブラウスとスカートに着替えショートマントを羽織ると、パンをくわえて一目散に魔法学院へと向かった。
途中、どうあがいても遅刻は免れそうにないことを悟り、近道をするためにご禁制の森を一気に抜けるつもりだった。
しかし、もう数キロは森の中を得体の知れない何かから逃げ回っていた。
いつもは近道になるはずの林道が、今日に限って一向に森を出る様子が見えてこなかった。
「だれかー、助けてっ!! 助けてぇー!」
震える声で少女は大きく叫んだ。
しかし、その声には誰も応えなかった。
その代りに背後から大きな咆哮があがった。
「ひいっ……!」
背筋が凍りつき、息をのんだ少女の頭に、ふと耳に挟んだ噂話が浮かんだ。
――先日、輝姫さまのお屋敷が妖魔の襲撃を受けたらしい――
……そんなはずはない!
お屋敷といえば、幾重にも張られた城壁と騎士団に守られた城塞都市の中心にあるではないか。
そもそも、お屋敷の主である輝姫さまは十五年以上前に亡くなられているのだから、標的として狙われようがない。
では、背後から迫ってくる化け物が妖魔でなくて一体なんなのだろう?
確か噂では、騎士の反撃を受けて大破したはず……。
追い詰められた少女は、ついに覚悟を決めた。
だてに魔法学院に選抜されたわけではないのだ。
「くぅっ、舐めんなっ! たかが死にぞこないの妖魔の一匹くらいっ!」
開けた場所に出るやいなや、少女は意を決して踏みとどまる。
ピンクのブラウスをのぞかせながらショートマントを翻して振り返った。
背中にしょっていたロッドを抜き放ち構えると、闇の中を睨み付けた。
黄金色のロッド先端に飾られた宝石、紫水晶が光り輝く。
少女の視界には追手の姿があった。
「――えっ!? 女の人……?」
靄の中に長い髪に細い肢体の影がぼんやりと浮かび上がった。
よく確かめようと、少女はロッドに力を込めた。
輝く水晶の照度が上がり視界が利いた。
褐色の肌にびっしりと鋭いトゲの生えた大きな鎌状の腕を持ち、細い首の上には逆三角形の鋭い輪郭に闇に塗りつぶされたような黒く大きな目、頭部には角が生えていた。
獲物を狩ることが楽しくてしょうがないかのように気味悪く前後に身体を揺らせながら、頭を傾けてこちらを覗き見ていた。
……やっぱり妖魔。それに、どこも損傷なんてしていないっ!?
少女の背中を冷や汗が流れ落ちた。
震える手でロッドを強く握りしめた。
相手の嫌な視線を遮るようにロッドの先端を向けると中段に構えた。
「こ、こぉの蟷螂女、逃げるなら今のうちよ! ど、どっちが獲物なのか、分からせてあげるんだからぁっ!」
声が裏返りつつも少女は焦る気持ちを抑え、呪文を唱えてロッドを振った。
先端の宝玉が輝き光球が打ち出された。
光球が膨らみはじけ飛ぶと、中から2メートルはあろうかという全身をシルバープレートに覆われた鎧姿が現れた。
右手にブロードソード、左手に盾を持つ、少女が魔法で召喚したナイト・ゴーレムだ。
「いっけーっ!!」
ロッドを目標に差し向けて甲高い声で少女が号令をかけた。
楯を構えたナイト・ゴーレムが、土煙をあげながら猛然と突進した。
ドドドドドッ!
蟷螂女は鋭く鎌を繰り出した。
激突し金属どうしが擦れる音をたてた。
鎌の一撃を楯で防いだナイト・ゴーレムは、蟷螂女の懐に潜り込むと重い体の勢いを使い肩でぶちかました。
跳ね飛ばされた蟷螂女は地面に転がった。
どうも勝手が違うとでも言いたげに、低い声で喘いでいた。
「あ、あはっ、あはははっ! これで分かったでしょ、どちらが狩られる側なのかって!」
思いもよらず上手くいったことに少女は有頂天になった。
赤い髪をかき上げてから手を腰に当て胸を反らすと、得意げに顔を赤らめ顎をクイッとあげた。
「さあっ、これでオシマイ。とどめよっ!」
少女はサッとロッドを振り回すと攻撃の指示を出した。
しかし、ナイト・ゴーレムは立ち尽くしたまま動かなかった。
主の敵を目の前にして構えをとることもなかった。
ゴトン! と、重く大きな音がした。
頑丈な楯が真ん中で割れて地に落ちたのだ。
「楯が――。け、剣で戦うのよっ!」
思わず叫び声をあげた少女は、目を見開いた。
ブロードソードをを持っているべき右腕が、そこにはなかった。
既に、肩からスパッと鋭利な鎌で刈られていたからだ。
「そんな、……嘘……」
ナイト・ゴーレムの鎧の胸当て部分が、真横にスーと滑ると大きな音を響かせてそのまま地に転がった。
落ちた鎧の胴体には鎌の鋭利な切り口がのぞいていた。
金属でできたナイト・ゴーレムの体を、まるで粘土細工をナイフで斬ったかのように簡単に真っ二つにされていたのだった。
勝利の熱気を帯びて勝ち誇っていた少女の顔が、一瞬にして血の気が失せて真っ青になった。
――バネ仕掛けのようなカクカクとした奇妙な動作で蟷螂女は立ち上がった。
切り落としたナイト・ゴーレムの腕のついたブロードソードをその細い手に握っていた。威嚇するように重い剣をひょいと軽く手首を捻り投げつけた。
少女の足元に剣が地面に半分めり込むように突き刺さった。
「鎌で刈らなきゃ気が済まないっての!? 弄ぶつもりなのね。もっと大きなゴーレムを召喚することができれば――……」
少女の顔が絶望の色に染まる。
魔法は膨大な精神力を消耗する。
限度を超えれば詠唱の途中でも気絶しかねない。
もし敵の面前でそんなことになれば、待っているのは死だけだろう。
でも、このまま立ち竦んでいても同じことだ。
「それなら、やってみる価値はあるっ!」
少女はありったけの力を奮い起こし、呪文を詠唱しながら身体をターンさせて大きくロッドを振るった。
風船のようにフワフワと空間にただよう光球。
大きく膨らみかけたが、突然点滅をはじめると、パンッと破裂した。
少女のありったけの魔力を集めた光球は霧散してしまった。
それだけだった。
「……あぁそんな、召喚に失敗するなんて。やっぱり力が足りなかったんだ……」
既に力を使い果たした少女の目の前で、蟷螂女が不気味な逆三角形の顔を傾げながら睨み付け、鋭い鎌の腕を振り上げた。
早く抵抗して逃げなきゃ、と頭では分かっているが、激しい消耗のせいで、肩は石のように強張りロッドは振れず、足は鉛のようで膝も震えて一歩も踏み出すことができなかった。
――突然、大空から風が吹いた。
厚く頭上高く覆っていた太い樹の枝を折り、旋風が下りたつ。
すらりと背が高く黒い髪と瞳の青年が、なぜか寝間着姿で少女の前に立っていたのだ。
「……召喚魔法は成功していたのね!? でも、ナイト・ゴーレムじゃない……」
まるで少女をピンで止めたかのように、その足元に突き刺さっていたブロードソードを、青年は腰を落とすと地面から抜き取った。
「お嬢さん、危ないから下がってな。――入り込んでいたのは、蜘蛛女だけじゃなかったみたいだな!」
蟷螂女が猛然と距離を詰めると青年に飛びかかる。
空気を切り裂き、鎌が首を刎ねようと唸りをあげる。
振り向きざま、青年はその襲い来る鎌の付け根、関節部分を斬った。
大きな鎌が地に落ちた。
――あ、ああっ、凄い、かも……。自分で召喚しておいてなんだけど――
九死に一生を得た少女は、目を大きく見開き、口元を手で押さえてあっけにとられていた。
片腕の鎌を失った蟷螂女は、分が悪いと見るやすぐさま森の奥へと逃げ出した。
青年は追撃を試みて、はたと少女がいることを思い出してやめた。
「どこも怪我はしなかったか?」
心配そうに声をかけた青年は、整った顔立ちのイケメンだった。
体躯はスラリとして線が細く引き締まり、とてもナイト・ゴーレムの剣を軽々と扱えるようなマッチョではなかった。
ただ、戦いに寝間着にスリッパという場違いな服装なのは気になった。
「ああ、やっぱり、召喚にも私の好みの影響が出てしまったのかしら。まさか、寝不足による睡眠の欲求が魔法に干渉して具現化したとか?」
「ええと、君、大丈夫?」
問いかける青年に対して、少女は少し考えるように小首を傾げてからロッドをふるった。
しかし、青年はナイト・ゴーレムのように光の粒に戻って姿を消してはくれなかった。
えいえいっ、と少女は何度も繰り返して呪文をかけ続けた。
「ええと……、落ち着け。もしかして頭を強く打ったのか?」
「なんで全然消えないのよぉ!? ナイト・ゴーレムじゃないから? ううん、力を消耗しすぎたせいかもしれないし。――ところで、貴方のお名前は?」
「俺の名はスバル。君は?」
「リリーよ。スバルを召喚したのは私なの!」
にっこり微笑むと、少女リリーは鈴の音のような声で言ったのだった。
――何をどうカン違いしたのか知らないが、人型のゴーレムでも召喚した気になっている少女リリーを背負って、スバルはご禁制の森を歩いていた。
逃げる際に靴が脱げてしまったリリーの足は、傷だらけだったからだ。
といっても、実のところスバルもお屋敷のスリッパを履いているだけなのだが……。
いつの間にかベッドに忍び込んでいた妖精少女モドキとの逢瀬を疑われてしまい、怒った輝姫の旋風魔法でこの森まで吹き飛ばされてきてしまったなどと、そんな情けない話を、まだあどけなさの残る少女のリリーに説明するわけにはいかなかった。
しかたなく、森を出て別れるまで、スバルは適当に彼女の思い込みに話を合せることにしたのだった。
「あのね、スバルの格好はね、別に私の願望が現れたってわけじゃないのよ。絶対違うんだから! 敵が目の前だったから短縮呪文を唱えたの。それで略式で召喚しちゃったのが原因だと思うんだ」
「いや、さすがにそれは違うだろと言わざる負えないんだが……」
「えっ、バレてる? ああもう、ゴーレムも人型をとるにまでなると出来が違うのね。ところで、その服ってやけに高級品なのね。王族が着るような立派な寝間着じゃない」
「いや、まぁその、ええと……。ところで、リリーは魔法使いなのか?」
なんとか王室の話から誤魔化そうと、スバルは話題を変えることにした。
「そうよ。名誉ある魔法学院に通っているの。これでもリリーは子爵家の次女なんですからね」
「そんなお嬢様が、なんでまた危ないご禁制の森なんかに立ち入ったんだ?」
「もちろん近道するためよ。――って、いけない! スバル、走って、急ぐのよ!!」
いきなり、リリーは大声をあげると、慌てたようにスバルの肩を掴んで激しく揺すった。
「なんだ? また蟷螂女でも追って来たのか?」
「違うったら! 遅刻しちゃうから! お願いっ、学校まで全速力!!」
「まったく、俺は馬じゃないんだぜ。しょうがないなー」
森の中、獣道を風のようにスバルは走った。
リリーは振り落とされないようにしっかりと肩につかまり、スバルの背中に押し当てるように身体を密着させた。
制服のマントの下には薄いピンクのブラウスと下着しか身に着けていない。
胸の感触が背中越しにスバルに分かってしまうのではと思うと、気恥ずかしくて頬が熱くなった。
それにスバルの手は、リリーの身体を支えるために、スカートの部分にまわっていたのだ。
……まさか、召喚相手に恥ずかしがるなんてね。そんなんだから、寝間着姿で呼び出しちゃうのよ……
走る風圧で舞い上がる木の葉にリリーは琥珀色の目を細め、ツツッと頬をスバルの身体に擦り付けた。
耳には生き生きとした熱い鼓動が聞こえていた。




