廃屋から出発
太陽が昇るにつれて、外の濃霧も徐々に晴れていった。
スバルはカップに入れたハーブティーの残りを飲み干すと、ポットの水を暖炉の火にふりかけた。ジュッと蒸気の煙が上がった。
「なんで火を消しちゃうの? 朝早いし、太陽が出たばかりで気温だってまだ低いわ」
妖精エーセルは眉をひそめて文句を言った。
「魔法障壁を抜けて、早くお屋敷に戻りたいんだろう? だったら、できるだけ明るいうちから早めに移動を始めた方がいいと思うんだ」
「なによ……。スバルったら、本当に道案内してくれるつもりなのね。地図でも描いてくれれば、後は私ひとりで飛んで行くつもりだったのに――」
「まあ、歩いて行ったところでだいたいの道筋の見当はついてるから、そんなに時間は変わらないさ。それに、適当に道を教えただけでまたエーセルに迷子にでもなられたら、後で輝姫になんて言われるか分かったもんじゃない。そっちの方が恐ろしいよ!」
スバルは、暖炉の側で中腰になって灰を棒きれでかき回しながら念入りに火の後始末をすると、笑って言った。
エーセルは急な申し出にあっけにとられたが、すぐに心が弾んで嬉しい気持ちが全身にいきわたるのを感じた。
「私が突然押しかけたから、スバルの予定を滅茶苦茶にしちゃったわね。大勢の貴族のお嬢様方が、訪れてくれるのを待っていたんじゃない?」
エーセルは探るような目つきでスバルの顔色を伺った。
「そうかもしれないね。誰だって自分の治める領地を、このパージされたエリア都市のようにはしたくないだろうから……」
スバルは表情を少し歪めるとポツリと暗く言った。
「ハァー、蜘蛛女に無様に捕まってたくせに、口だけはよく効くんだから」
エーセルの本音としては、スバルの持っていた名刺で見たご令嬢たちとの関係をさりげなく聞き出したかったのだが、話が別の方向に飛んでしまったことに気がついて、大きなため息をついた。
「それはだな、廃墟の街に逃げ隠れた蜘蛛一匹を自分で探し回るより、エサのフリをして相手から来てもらった方が簡単に見つけられるからだろ。わざと捕まれば、他に仲間がいるかも確かめられるからな」
「それじゃあまるで、スバルの緻密な戦略を私が邪魔したみたいじゃない。言い訳が上手いのねぇ~。可哀想だから、そういうことにしといてあげるわ」
スバルの荷造りが整って出発の準備ができるまでの間、妖精エーセルは部屋の中を飛んでもう一度見回していた。
いきなり窓から入って旋風魔法を暴走させて助けられたり、スバルが入れてくれたハーブ入りのシンクのお風呂や、固パンを抱き枕にして雑魚寝したり、さっきまで一緒に朝食を作って食べた暖炉のある部屋と、もうこれで永遠にお別れかと思うと、エーセルはなんだか名残惜しいような寂しい気持ちになってしまった。
それに無理やり逆らうようにして頭を左右に振り払うと、窓から外に飛び出してスバルを待った。
間もなくして、荷袋を背負ってスバルが建物から出て来たので、妖精エーセルはちょこんと彼の肩にとまった。
「ねぇねぇ、なにか忘れ物をしてないかな? もう一度、私が見て確かめてこようか」
「別に、荷物自体たいして少ないんだから、大丈夫だよ」
「まぁ、そうだよね……」
エーセルは残念そうに頷いた。
初めて泊まったこの場所で、たぶん、スバルとこのようなことはもう二度とないのだと思うと、なぜかエーセルの気持ちはちょっとだけ沈みがちになってしまうのだった。
――スバルの肩に腰かけながらぼんやりと景色を見回すエーセルにとっては、全く見知らぬ廃墟の街だが、スバルは比較的安全な大通りを選びしっかりとした足取りで先に進んでいるようだった。
澄み渡ったすがすがしい朝の空気が、エーセルの落ち込んだ気持ちをすぐに癒していった。
空を見上げると、もうすでに日の光がまぶしい程に輝いていた。
エーセルはスバルの肩の上で伸びをするように大きなアクビをした。
顔を向けたスバルの真っ黒い瞳に見つめられて、エーセルは思わず笑みをこぼした。
ニヤリとしたスバルは手を伸ばすと、そっとエーセルのストロベリーブロンドの髪を指で撫で下ろした。
「……なによぉ、いきなり、へんなことして……」
エーセルの胸はドキドキと高鳴っていった。
「うーん、なんかおかしと思ったら、やっぱり寝癖がついてるな」
「ウソっ、そんなのあるわけないじゃない!」
スバルがちょっかいを出す口実にふざけて言ったと思い全否定したエーセルだったが、頭から首筋に沿って撫でられていた彼の指先が離されると同時に、勢いよくピョコンと後ろ髪が跳ねあがる気配を感じてしまった。
慌てて寝ぐせのついたカールした髪に手をあてて隠すように抑えつけた。
「いえ、ほら、違うのよ! 私って輝姫さまとそっくりだから、実は、ただの癖ッ毛で――!」
「ええと確か、輝姫の銀髪は綺麗なストレートだったはずなんだが」
「クッ――! ここだけの話だけど、輝姫さまは、毎朝、あっちこっち向いて逆立った髪の毛をメイドが手間をかけてきちんとスタイリングしてて――」
「ちゃんと身だしなみを整えている輝姫と、今のエーセルの寝癖の話とは、全然関係ないように思うんだけどなぁ。それに、最近は街でも寝癖つきの女の子なんてなかなか見かけないからさ」
金魚のように口をパクパクして顔色を変えてまで焦るエーセルに、スバルはおかしそうに口元を曲げて言った。
「それじゃあ何よ、妖精の私が、まるで子供以下の能力しか持ってないみたいじゃない!」
逆ギレでムキになったエーセルは、肩の上で立ち上がって不満そうに叫んだ。
「ごめんよ。魔法障壁の影響で魔法で不自由していることは分かっているつもりだし、全然、笑いものにしたかったわけじゃないんだ。そんなに気にするとは思ってもみなかったよ。――保温ポットの中にお湯が入っているから、よかったら髪を直すのに使うといい」
「いいこと、そんなデリカシーのないこと言ってるから、こんな廃墟を這いずり回って宝探しの真似なんてし続けることになっちゃってるのよ。スバルは、まじめに将来のことについて考えたことはあるの? せっかくハーブや魔法草にも詳しいんだから、言動にさえ気をつけてくれれば、私が輝姫さまに頼んで、王室屋敷の庭師の仕事を紹介してあげることだってできるんだからね。――分かった?」
エーセルは眉間をつまむような考え込むようなポーズをして、さも軽蔑したかのような態度を演技してみせた。
だが、スバルは微笑ましいものを見たかのような温かい目をすると、荷袋に手を伸ばしてポットを取り出して準備をしていたのだった。
スバルに作ってもらった蒸しタオルを頭に巻き付けてかぶるようにして、エーセルはしばらく湯気を寝癖にあてて直すことにした。
どこか腑に落ちないスバルの態度に、エーセルは不承不承、許したようなそぶりを見せながらも、内心、エーセルはスバルに当り散らしているのは自分の方だといいうことも分かっていた。仰ぎ見るスバルの整った顔だちに目が引き込まれそうになると、恥ずかしさに頬を染めてエーセルはそっぽを向いてしまった。
「さてと、そろそろ蒸しタオルをとってもいい頃なんじゃないかな」
エーセルが、庭師になったスバルとふたりでお屋敷のお花畑を管理している妄想を広げている間に、しっとりとした潤いを取り戻したストロベリーブロンドの髪の寝癖はおさまっていた。
ポットとタオルの後始末をするために、エーセルの側をスバルが離れている間、エーセルは髪をセットし直そうと気持ちばかりが焦ったが、蒸しタオルの効果が出たおかげでウエーブまで再生して髪はすんなりとまとまった。
身だしなみが整うと、エーセルはスバルの方へ申し訳なさそうにすり寄った。
「どうかな、髪、ちゃんと直ってる?」
「へぇー、まるでパーマをかけたみたいだね。とても似合ってるよ。魔法を使ったのかな」
スバルはエーセルの髪にそっと指を通した。
エーセルはなんとか高鳴る胸の動悸に堪えると、くるりと髪を翻してスバルに向き直った。
「ねぇ、みんなそうだと思うけど、誰だっておちょくられたら嫌なの! でも、だからと言って、スバルのお仕事のことまで悪く言う資格なんて私にはなかったんだわ――」
「俺は別に気にもしてないよ。エーセルは、普段、魔法ですべてをおこなっている妖精なんだから、手作業となると今まで通りできなくて当たり前だし、ストレスが溜まっても仕方ないさ。自分のしたことに後悔する必要もないと思うよ。それより、そろそろスタートしようか」
「――えっと、なんの?」
エーセルは考え込むようにスバルの目線を追うと、少し離れた大通りの向こうには、昨夜過ごした廃屋がまだ僅かに見えていた。
「あれれ? 確か結構進んだはずだったんじゃ……? こんなところでグズグズしてられないわ。スバル、急いで出発よ!」
透明な羽を翻して幅広のガッチリとしたスバルの肩に飛び乗ったエーセルは、彼の顔を見上げると元気よく振袖を振って前方を指さしながら微笑んでいた。




