エーセルとスバル
妖精エーセルは、自ら唱えた旋風魔法の暴走に巻き込まれ、吹き飛ばされてしまった。小さな体が宙に舞い、背中の羽を使う間もなく、渦に巻かれクルクルとスピンしながら、部屋の壁に叩きつけられそうになっていた。
突然のびたズバルの手が、エーセルの体を激突寸前でつかんだ。
そして、引き寄せると腕の中にしっかりと抱いた。あまりに強い力でスバルの腕の中に捕らわれて、エーセルは息が詰まりそうだった。
「――放してったら!」
エーセルは懸命に身をよじらせて、なんとか抜け出そうともがいた。たとえ今の自分が薄汚れていようとも、侮辱したルンペンなんかに触られるのも嫌だった。
けれども万力のような腕力の前には、華奢なエーセルがいくら力をこめても、まるで歯が立たなかった。
「さもないと、このホワールウインドで、バラバラになるまで懲らしめてやるんだから!」
本当は魔法のコントロールを失っていたのだが、エーセルは弱みを見せないために叫んでいた。精神を集中して取消魔法を幾度となく唱えてみても、まるで旋風がおさまる気配はなかった。
――暴風の風切音が続く中、ドスンッという衝撃と共にスバルが、ううっ、と声を上げた。旋風に飛ばされた椅子が、スバルの背中に直撃したのだ。バラバラに壊れた椅子の残骸が飛び散っていった。旋風に巻き込まれ、部屋にあった様々な調度品や家具などが、スバルの体にぶつかり殴りつけていた。
スバルは、胸の中に両腕で包み込むようにエーセルを抱いて、じっと旋風の繰り出す猛攻に耐えていた。エーセルの柔らかい肌には、傷ひとつつけられていなかった。
…………全部、私のせいなのに、アイツったら…………。
エーセルの体からすぅーっと力が抜けてふと気づくと、スバルの力強い心臓の鼓動の音が聞こえていた。
「しっかり、エーセル。あと少しの間だけだ!」
「……アンタなんかに守ってもらわなくたって、私は輝姫さまの妖精、自分の身くらいどうにでもできるの――!」
妖精エーセルはフィギュアのような足で蹴っ飛ばして抜け出そうとしたが、スバルはより強くエーセルを抱き寄せる腕に力を込めた。
その間にも、旋風に巻き上げられた部屋のガラクタが、激しくスバルの体を叩き続けた。しかし、鋼のようなスバルのガードを崩すことはできなかった。
――だが、風に乗り、巻き上げられた細かい砂埃は、防ぎきれずに容赦なくエーセルにも襲いかかった。
「ハアッ、苦しいよ……、息が……」
励ますように、スバルの指先がそっとエーセルの背中を撫ぜた。
小さな妖精エーセルの華奢な体を守るために覆っていたスバルの手を、エーセルもしっかりと握りしめて、飛ばされないようにバランスをとっていた。
砂埃を避けるためにギュッと目を閉じたエーセルは、スバルの胸元に顔を埋めるようにして息を吸い込み、十分な空気を確保した。
ガラスを引っ掻くように騒々しい風切り音の中で、正確なリズムを刻むスバルの鼓動に安心感を与えられたエーセルは、ますます耳を胸に押し当てていた。
――もうどのくらい時間がたったことだろう。通常は一分程で自然消滅するはずの旋風魔法が、おさまる気配を見せなかった。
いつもエーセルは強がってはいたものの、輝姫によって、ついこの前に生み出された幼い妖精にすぎなかった。スマホでリンクした女神のデータベースから全般的な知識は与えられてはいたが、経験が足りなかった。だから実際には、買い物ひとつしたこともなかったのだ。
案の定、輝姫から仰せつかった初めてのクエストは、予想外のトラブル続きで大失敗となり、エーセルの頭の中はパンク寸前まで追い込まれていた。
ひとり気を張ってがんばってきたエーセルだが、今だけは、守られていることを感じていた。――ふっと思い出したように妖精のプライドが頭をもたげてくるが、旋風の砂埃や轟音と一緒に瞬時に吹き飛ばされていった。目を瞑ってスバルの温かい手や胸に全身を包み込まれていると、優しい感触が伝わってきて、ついにはどうでもよくなった…………。
永久に続くかと思われた旋風魔法の暴走は、埃からガラクタまですべてを吸い込んで突如として消えた。後に残されたのは、ピカピカに掃除されたような部屋と、エーセルとスバルのふたりだけだった。今まで続いていた暴風の轟音が嘘のように、シーンとした夜の静けさが戻っていた。
「もう、大丈夫みたいだな」
「……ホントに、助かったのね?」
「んーと、アレ? 今のはエーセルのターンじゃなかったのか? 稽古するんだったろ」
「――ッ!? そ、そうよ、驚いた? 妖精の逆鱗に触れたらどうなるか、よく分かったでしょう!」
虚勢で大きな声を張り上げながらも、エーセルはまだ不安げな様子でスバルの手をギュッと握りしめていた。
スバルは、ゆっくりと手を動かすと、エーセルの頭をそっと撫ぜた。そして、腕の中に抱いていたエーセルに手を添え支えるようにしながら降ろした。
思いがけないスバルの動作に、エーセルはふうっと息を吐くと、何をするのかと言いたげに唇を尖らせた。
「じゃあ、今のが俺のターンってことで稽古は終わり! あーあ、体を動かした後は、しっかりと汗を流さないとなー。さっそく風呂の準備をしてくるよ」
「あ……、あの、ありがとう……」
部屋から出て行こうとするスバルに、エーセルは上目遣いになりながら助けてもらったお礼を言った。スバルはひらひらと手を振って応えた。
旋風魔法や部屋にあった残骸の直撃を何度も受けたはずなのだが、余裕のある軽やかなスバルの動きから察すると、まるで気にもしていないようだった。
魔法光球が灯る中、あたりは湯気のせいで霞がかかったようにぼんやりとしていた……。
そこは相当古い造りのキッチンだった。だが、床には塵ひとつ落ちてはいない。すべては旋風によってきれいに吸い込まれてしまったのだから。廃屋のはずなのに掃除機をかけまくってピカピカになるまで大掃除をしたような、奇妙な場所となっていた。
大きなシンクには、ドライフラワーの花びらが浮かべられたお湯が張られていた。ハーブの香りがたちこめる湯煙の中では、白く滑らかな素肌の美しい妖精が、水しぶきを上げていた。パシャパシャとバタ足をして泳いでいたのだ。少女は手で湯をかき分けると、水面から上気したように赤くなった小顔を出した。妖精少女のエーセルは、ストロベリー・ブロンドの長く艶のある髪を振った。湯が水滴になって飛び散っていった。
「……まるで、逆にハーブティーに呑まれているような、贅沢な気分……。いっそのこと、洗面器で水浴びでもしようかと思っていたのに、まさか、こうやってお風呂まで用意してくれるなんてありがたいわ。――でも、本当に何者だろう? 調べようにも、今は魔法があまり役に立たないからなぁ。勇者スバルさまはダンジョンに向かわれたはずだし……。あー、もう、私ったらどうかしてるっ! 偶然、同じ名前なだけのルンペンなのに――」
エーセルは軽く溜息をついた。じっとして余計なことを考えていると、けだるい眠気に襲われそうだった。エーセルは胸をそらすと、今度は背泳ぎで泳ぎはじめた。薬草風呂のお湯が、素肌に心地よく感じられた。
酷い格好だったエーセルをゾンビ妖精と間違えてしまったお詫びも含めて、スバルが用意した特別なお風呂のお湯には、希少な魔法草を炒り乾燥させた本来高価な薬として用いられる物に加えて、更に花で香りづけまでされていた。ハーブの香りは心を癒し、薬草のお湯は体を治した。お湯にゆったりと浸かるだけで、自ずと自然治癒力が高まった。魔法の暴走でレッドゾーンまで追い込まれていたエーセルの体力や魔力は、安定し回復していったのだった。




