魔法障壁で立往生
旧市街地に建つひときわ高い建築物の屋根の上に立った妖精のエーセルは、目を瞑り眉根を寄せて耳に意識を集中させていた。
『――ツゥ――――――――――ッ――――…………』
しかし、耳鳴りのような不通音だけが、いつまでもエーセルの頭の中に響いていた。
何度となく、どんなに集中して輝姫をコールしようと試みても、相変わらずアクセス不能だった。
同じように、恥を忍んでこっそりフォローを頼もうとした筆頭妖精のモドキにも、アクセスできないでいた。
「あ~ぁ、高いところからでもやっぱり繋がらないか。それにもう、完全に時間切れね。どうにも言い訳しようのない大遅刻だなんて……」
エーセルはつぶやくと唇をかんだ。
すっかり冷めて、もはや出来立てではなくなってしまったジャム入り揚げパンの入った袋を、ほっそりした指先でギュッと強く握りしめていた。
うつむいていた顔を起こし、ゆっくりとまぶたを開き大きな瞳で前を見ると、まもなく太陽が地平線に沈もうとしているところだった。
夕日がオレンジ色に旧市街地の街並みを染めはじめると、照らされたエーセルのツインテールの金髪も輝いた。
「……だって、乱気流を避けるために降りた旧市街地が、まさか魔法障壁の塊だったなんて夢にも思わなかったんだもの……」
ブルーからイエローっぽく色を変えた空が、やけに遠くに感じた。
妖精のエーセルは、自慢の透き通った羽を背中に持ってはいるが、推進力の補助として飛行魔法を使えなければ、自由に空を飛び回ることは難しかった。
市街地には、まるで戦場のように魔法を無効化する呪文が壁のようにいたるところにしかけてあったからだ。もし飛行中に呪文にひっかかれば、突然バランスを崩されて墜落してしまうかもしれなかった。
今にして思えば、旧市街地の上空では単に乱気流の影響を受けたのではなく、飛行魔法を妨げる何らかの呪文に襲われたに違いなかった。
「こんなことなら、行きと同じように超高度を弾道軌道で飛んで帰って来ればよかったのよ。低空飛行でのんびり飛んでいたから、ロートルな障壁なんかに捕まったんじゃない。お屋敷の裏庭みたいな旧市街で迷子になるなんて、まったく私ったらコドモなんだからっ!」
だが、プンスカ怒って今さらいくら言い訳を考えてみたところで、公園のカフェで揚げパンを買ってくる、という魔力のないメイドにでも簡単にできるクエストを失敗したことは事実なのだ。すべて自分が悪いのだと認めざるを得なかった。
輝姫さまの期待に応えられなかったと、まさに沈もうとする夕日のように気落ちしたエーセルは、フゥーッと大きな溜息をついていた。
陽光が弱くなり、だんだんとひんやりした空気があたりに立ち込めてきた。風がエーセルの金色のツインテールを揺らした。
「もう、夜風が吹いてきたわ……」
目一杯に背中の羽を大きく広げると、エーセルは屋根の上からステップするように跳んだ。崩れかけた高層建築物の不気味な姿を横目に見ながら、できる限り羽で空気をつかまえようとゆっくり降下していった。
やっかいな呪文に邪魔されることなく無事に大通りに着地すると、エーセルは少しホッとした。
だが、目の前に広がっていたのは、今までさんざんさ迷い回っていた、だれもいないゴーストタウンだった。長い間、手入れもされずに打ち捨てられて、もはや崩れかけた建物の街並みは、まさしく廃墟と呼ぶに相応しかった。
空を飛んで行く時は、旧市街地など簡単に通り過ぎたはずが、今はいくら歩いても未だに抜け出すことができないでいた。明るかった昼間でさえ道に迷ったというのに、今度は暗闇の中を歩いてお屋敷まで帰らなければならないのだ。
荒れ果てた姿をさらす建築物に囲まれた間から空を見上げると、すでに星が瞬き始めていた。
「えーと、お屋敷はこっちよね。魔法地図がそう告げている!」
当てにしていた地名や道路の案内板は、もはや廃道となってから長い時間がたっているようで見当たらなかった。たとえそれらしき物があったとしても、すでに文字はかすれて読み取ることができなかった。
フラフラと不安定な飛行で倒壊した家屋を避けながら、イメージ上の魔法地図を頼りにお屋敷のあるであろうと思う方へと向かった。
エーセルの手には、クエスト失敗となってしまったジャム入り揚げパンの入った袋が、大事そうにぶら下げられていた。
崩れかけた高層建築物のつくりだす影のため、空に浮かぶ輪のある月と星の光だけでは、足元を照らす明かりとしては心許なかった。
――エーセルは、ライトの魔法を使った。しかし、現れた光の玉は本来の輝きを失い、ぼんやりとした光を発するのがやっとだった。
「やっぱり、魔法障壁のせいで力が出せないんだ……」
エーセルはつぶやくとガッカリして肩を落としたが、すぐに気持ちを切り替えて前に進むことにした。このまま行けばお屋敷に到着するか、たとえ方向が間違っていたとしても、いつかは市街地を抜けられることに違いないからだ。
――しかし、経験の浅い妖精のエーセルは、魔力の供給を断たれた魔法生物がどうなってしまうのかということを、すぐに思い知らされることとなった。
たいした飛行魔法の補助もなく自力で長い間飛んでいたせいで、羽の生えている背中は強張って痛んだ。
正しい方向も分からずにやみくもに歩き回ったせいで足は棒のようになり疲れ果てパンプスを脱ぎ捨てたエーセルは、巨大馬車の残骸の側で足を投げ出して座り込んでいた。
魔法の加護のなくなった薄い緑のドレス一枚では、肌を突き刺すような夜の寒さに耐えることはできそうになかった。ハァ―ッと息を吹きかけて、冷たくなった手をこすり合わせた。全身に鳥肌が立ち寒さにガタガタと震えていた。
空腹がそれらに拍車をかけていた。しかし、障壁や呪文により魔力が遮断されているせいなのか、旧市街地をこれだけ飛び回っても、好物の魔法花などをひとつとして見ることはなかった。お屋敷のお花畑にはあれほど咲き乱れていたというのに……。
エーセルはチラリと手元に置いた袋を見た。輝姫にお使いを頼まれたジャム入り揚げパンだった。だが、妖精のエーセルが必要としているのは魔力であって人間の食べ物ではなかった。公園の古木カフェで散々食べたお菓子には、魔力はまったく含まれていなかったのだ。
なにより、いくらクエストが失敗したといっても、輝姫に頼まれた物にまで勝手に手を付けることは憚られた。
「そうだ、妖精部屋のヴォイスチャットに伝言を残しておいたんだ……。もしかしたら、誰か聞いて探しに来てくれているのかもしれない。……聞けるのは輝姫さまとモドキくらいしかいないのに? ふたりともアクセスできなかったじゃない……」
魔力低下でただでさえ弱っていたエーセルの心は、今にも挫けそうになった。
その時、シーンと静まり返った廃墟の暗闇の中から抜け出たように、遥か前方に帽子をかぶった人のシルエットのようなものが見えた。
見間違いかと思いエーセルが大きな目を凝らすと、頭にのっていたのは帽子ではなくそれは大きな蜘蛛だった。古びた赤いドレスを着て蝋人形のように血の気のない顔と冷たく灯る赤い目を向けて近づいてくるのは、妖魔である蜘蛛女の姿だったのだ。
――魔法障壁で遮られ魔法が思うように使えずに立往生した私を、やっと姉貴分の妖精のモドキが迎えに来てくれたに違いない。だって、モドキは演習の間ずっと、今のように変態魔法で蜘蛛女の姿をしていたのだから――……。
『ピィ――――――――ッ――――――!』
疲れ果て意識が朦朧として、そんな都合のよいことを思っていた妖精エーセルの頭の中で、甲高い笛のような音が鳴り響いた。体力が残り少ないとの警告音だった。残っている力を使い果たしてまったく身動きがとれなくなる前に、今のうちに何とかして補給しなさいというサインだ。
生体維持の本能により、自動的に自身に回復魔法がかかり体力が少し戻った。霧が晴れるようにエーセルは覚醒していった。
――ったく、何余計なことをやってくれるのよ。ただでさえ希少な魔力が減っちゃったじゃない! 魔法障壁に遮られて、たいした効果もありゃしないんだから。だから……、そういうことなのよ――!?
エーセルは素早く巨大馬車の残骸の陰に隠れた。
『――シフッ!――』
エーセルは相手が妖魔なのか識別するための魔法を唱えた。
――正体不明――か。
やっぱり、魔法障壁の中での魔法は、たいした役には立たなかった。
だからこそ、こんなところにまで助けに来た妖精のモドキならば、わざわざ変態魔法を使うわけがない。
でも、不明ってことは、モドキの可能性だってあるということも……。
「フン、弱気になるなんて………――妖精の本能が、アイツは敵だってハッキリ言ってるのよっ!!」




