呪いの鎧?
アメリアが庭園の斜面を転がっている頃、お屋敷の中でメイドのモカロは鎧を身に着け、エレナは廊下に落ちていたバケツをヘルメット代わりにして被っていた。
ジャケットとパンツ姿のエレナは、可愛らしい人形のようなドュスマン男爵の見習い秘書だ。
お飾りとしての外見ではなく、内面も男爵が始めた商人としての仕事をこなせる程の知識と教養を持ち合わせていた。
だから、すんなりとモカロに甲冑を装着させることができた。
しかし、甲冑のヘルムを被った途端にモカロの様子がおかしくなってしまったのだ。何やら独り言をぶつぶつとつぶやいていた。
エレナは思い切ってモカロに話しかけた。
「しっかりしてください! モカロさん、あたしが分かりますか?」
「――輝姫さまは礼拝堂よ」
「は……? 突然何を言い出すんですか。根拠はあるんですか?」
「輝姫さまの声が聞こえたの」
エレナは驚いて目を丸くした。
お屋敷にあったものだから確かめもしなかったが、モカロに得体の知れない魔法の鎧を身につけさせてしまったのだ。
それが呪いの魔法とも限らない。
現にモカロは幻聴にとらわれているようだった。
「ええっと、ヘルムを被ったって、輝姫さまの声は聞こえませんよね?」
「いいえ、はっきり聞こえたんだから。それから、蜘蛛女は庭園にいる!」
モカロはヘルムのバイザーをカシャンと音をさせて開けると、きっぱりと言った。
「この鎧は最高よ。力が湧いてきて強くなったみたい。これなら、ヘナチョコ騎士隊長より私の方が輝姫さまのお役に立てるわ!」
「あの、それは……。さすがに、お姫さまをおいて逃げ出すような騎士はいらないかなぁ、とは思いますが、だからといって、メイドのモカロさんが騎士より強いことには……」
自信満々のモカロにエレナは当惑した。
考えるまでもなく、輝姫の声が聞こえるはずはなく、蜘蛛女の居場所も分かるはずがない。ましてや、鎧をつけただけで、メイドが鍛錬を積んだ騎士よりも簡単に強くなるわけもない。
モカロの幻聴に幻覚、思い込みの激しさは呪いのせいに違いない。やはり、呪いの魔法がかけられた鎧だったのだ。
モカロは廊下を走り出した。重い甲冑を着けているはずなのに、軽々とした身のこなしだ。
慌ててエレナも後を追った。
廊下からバルコニーに出たモカロは、手すりに手をかけて飛び降りようとしていた。
やっとエレナは追いつくと、刺激しないようにゆっくりと近づいて慎重に声をかけた。
「……ねえ、モカロさん。これからどうするつもりなんですか? ここは七階です……」
「輝姫さまの元へ向かわなきゃ」
「そ、そうですね。だったら、階段でおりましょう!」
半笑いのエレナの顔がピクピクと引きつる。
こんな高さから落ちたらケガどころでは済まない。
「そんなのダメよ。一刻も早く向かいたいの。わざわざ階段から玄関に回るなんて遠回りしている暇はないわ」
モカロは礼拝堂の方向を見ながら言った。
「あ、明日の予定です! 明日のことを考えましょう。そこから飛び降りたら、モカロさん、明日はどうなっていますか?」
「そうね、鎧の力でこんな騒動を終わらせて、いつもの平穏な毎日を取り戻すのよ!」
モカロはニヤリと笑うと手すりを乗り越えようとした。
説得に失敗したと察したエレナは、引き留めようとして急いでモカロの後ろから首回りに腕を巻いた。
ふたりはバルコニーの手すりを乗り越えた。
「キャアッ!!」
モカロとその背におぶさるような格好になったエレナは、一緒に屋根の上に立っていた。
屋根伝いにモカロは先に向かって歩いて行く。
高さは地上から20メートル以上もあり、もしも落ちたら命の保証はない。
「お願い……、やめてください。モカロさんは鎧の呪いにかかっているんです! 本当は強くもなっていないし、輝姫さまの声だって聞こえていません。すべて幻覚なんですよ! ――ある地方の魔法使いは、ハーブを使って幻覚を引き起こすことができると聞いたことがあります。それに、応接室で捕らわれているアメリアさんはどうするんですか!?」
背負ったエレナからの必死の説得に反応を示さずに、屋根の上に立ったモカロはまるで庭園の先を見通しているかのように眺めていた。
「あそこ……」
モカロはガントレットで覆われた手でスッと前方を指さす。
エレナも片手でジャケットのポケットからオペラグラスを取り出すと覗き込んだ。
突如、ズドーン、ズゥドドドドォー、ゴォー! と轟音が鳴り響いた。
庭園の先からモクモクと土煙が立ち上っているのが見えた。
「えっ! アレはいったい何なんですか? ――もしかすると、蜘蛛女と戦闘状態に!?」
「やっぱり噴水プールの方ね。こうしちゃいられない」
モカロは両腕を後ろに回して背中のエレナを支えた。
「ちょっとまさか、やめてくださいっ!! お願いだから正気に戻って!!」
叫ぶエレナを背中に乗せたまま、モカロは屋根の上を疾走した。
屋根の先には道などない。
エレナは背筋が寒くなってギュッとモカロにしがみついた。
屋根の最先端に近づいた。
もはやここから先は落ちるしか道はないのだから。
七階からジャンプした。
「アアッ、キャァァー、イャーッ!!!」
エレナは目をギュッとつぶって絶叫した。
冷たい風が肌に突き刺さるように感じた。
数秒後には、この世とお別れすることになる。
それというのも、蜘蛛女に大型馬車を乗っ取られ城塞都市に侵入を許してしまったことを隠していた報いなのかもしれない。
後のことは、ドュスマン男爵がきっと上手く処理してくれだろう。
ああ、こんなことならチョコレートをとっておかずに全部食べてしまうんだった。
――などと短い人生を走馬灯のように思い出しているのだが、いくら待っても地面に叩き付けられるような衝撃はこなかった。
「エレナちゃん、いつまでもしがみついてないで、そろそろ降りない? それとも私の背中が気に入っちゃったとか」
モカロの声を聞いたエレナは、そっと薄目を開けた。
視界には芝生や花壇があった。
どうやら無事に地上に立っているらしい。
そんなことがあり得るのだろうか?
エレナはそっと手を放すとモカロの背中から降りて自分の足で地面に立った。
芝生を踏みしめると生きている実感がわき、体に血の気が戻ってきた。
「――信じられません!! 魔法の鎧って、本物だったんですね!」
エレナは歓声をあげた。
「輝姫さまのところへ行かないと……。エレナちゃんはお屋敷の中で隠れてる?」
「もちろん、あたしも一緒に行きますとも! さあ、急ぎましょう!」
モカロとエレナは、土煙のあがる噴水プール方面へと歩を進めた。




