応接室でひと波乱
脱兎のごとく逃げ出したフォアマー騎士隊長を扉から顔を覗かせて見送った輝姫は、肩をすくめて応接室の扉を閉めた。
「いったい、どこまで逃げるつもりなのかしら……?」
予告もなくスマホの3Dシミュレーション・アプリを使って蜘蛛女戦を試すのはどうかと思ったけれど、やっぱりやっておいてよかった。
あんな腕前で騎士団を率いて蜘蛛女の追討に出向いていたら、返り討ちにされて全滅したに違いない。
伝統を重んじる騎士団らしいというか、実力よりも家柄重視の人選だったみたいね。
こんな時にスバルはともかく、勇者隊のミーシャがいてくれればと思うけれど、ないものねだりをしてもしょうがない。
巨大甲虫型モンスターが城塞都市に迫っている時期に、警戒態勢を敷いている勇者隊を動かすのは避けたかった。
たぶん、そのせいで他の防衛ラインが手薄になり、隙を突かれて蜘蛛女に突破されたのでしょう。
ただでさえ頑張っているミーシャに、これ以上の負担をかけるわけにはいかない……。
これではまるで、ただの足手まといなだけじゃない?
そんなのは輝姫のプライドが許さない。
「ん、まあいいや。――メイさん、いいかげんにお腹空いたから朝食にしましょうよ」
「……はい……。それでは、支度をして参ります……」
返事をしたメイさんの肩が小刻みに震えていた。
えっ、メイさんッたら、まさか泣いてるの?
まったくもう、騎士隊長に一目散に逃げられたのが、そんなにショックだったのかしら?
あ、そっか、きっと乙女チックな夢を見ちゃったのね。妖魔に襲われそうなところをさっそうと騎士が助けに駆けつけてくれる夢を……。
夢破れて、まるで魂を抜かれたかのように放心状態のメイさんを見ていると、いくらなんでも可哀想になる。
メイさんのせいじゃなくて、根拠もなく自信満々だったフォアマーが、舌先三寸なだけなのよ。
なにも輝姫は、騎士隊長をいじめたわけじゃないんだからね。逆に、騎士たちの未来の命を守ったんだから。
「ハァ~ア。お腹は空くし、眠いし…………」
輝姫は大きなあくびをすると、ソファーの上に寝転がってスマホを眺めた。
日本にいた時も、少し前に使っていた携帯電話より優れた機能が備わっていてノートパソコンよりも持ち運びに便利なスマホは、毎日の生活に手放せなかった。
それが異世界に来てからいつの間にか輝姫のスマホはメガミロイド搭載のさまざまな機能が詰め込まれた女神さん特別仕立ての超高性能機になっていた。
「蜘蛛女が3Dで再現できるのならば、他にもできるのかもしれないなぁ」
輝姫はパネルを見つめると、ほっそりとした指先でスマホを操作し始めた。
「羽は透明でしょ。髪には星の髪飾りを付け、緑のドレスを着せてと……」
――パネルから光の粒子が溢れ出して渦を巻くように集まると、まるでフィギュアのような小さな妖精が出来上がった。
エプロンドレス姿のふたりの少女と秘書制服を着た少女が、誰もいない広い廊下を忍び足で進んで行った。
「輝姫さまの応接室は、あの先よ」
広い廊下の柱の陰に隠れながら、モカロが言った。
「隠れてっ! 何か来ます!」
反対側の中世の甲冑飾りの位置にいた秘書制服のエレナが鋭い声を上げた。
少し離れていたせいで声をよく聞き取ることができなかったアメリアは、素早く廊下を渡ろうとして何もないはずの真ん中でつまずきコテッと転んだ。
「キャアッ!」
「アメリアったら、何やってるの!」
「シー、静かに」
アメリアは匍匐前進して廊下を渡りきると、呼吸を抑えた。
タッタッタッタッ――と足音が聞こえると、ひとりのメイドが三人のそばを駆け抜けて行った。
「今、走って行ったのはメイじゃない!?」
通り過ぎて行った後ろを振り返りながら、モカロが驚いたような声を上げた。
「これで応接室に取り残されたのは、輝姫さまだけになりましたね」
秘書制服姿のエレナが状況を言う。
「メイったらシークレットサービスの専属メイドのくせに、輝姫さまをおいて逃げ出すなんてあり得ないわ!」
アメリアは怒っていた。
「アメリアの位置からはメイの姿がよく見えなかったみたいね。悲痛な顔をして涙を流していたわよ」
「――まさか、輝姫さまは、もはや――」
「バカ言わないで!」
三人はひとけのないひっそりと静まり返った廊下をすすみ、輝姫さまの応接室までたどり着いた。
扉の前に来ると左右に首を振って視線を走らせるとあたりの様子を確かめた。
さっそくアメリアは慣れた様子で扉の鍵穴から部屋の中を覗いた。
今朝は快晴のはずだが、まるでその空間だけ真夜中の闇が未だに尾を引いているかのように薄暗かった。
揺れるランプの明かりが部屋を微かに照らし出していた。
広い室内には、応接セットのテーブルとソファーが真ん中にあり、壁周りに調度品が並んでいるだけだ。
モカロは扉に耳を押し当てて慎重に聞き耳を立てた。
すると、どこかからかブーン、ビュッピシャと鞭が空気を裂き叩くような音が聞こえた。
「――このイヤな音は、いったい何なの?」
モカロの問いに応えるべくアメリアは異音のする方向を探すが、部屋の中はきれいに整えられたままで、特に変わったところは見つけられなかった。
「いつも通りよ、気のせいじゃない? 今のうちに輝姫さまを助け出そう!」
――ガチャガチャガチャ――
アメリアはノブを動かすが扉にはしっかりと鍵がかかっていた。
「――開かない。ねえモカロ、マスターキー持ってる?」
「ないわ。詰所まで取りにいかないと……。せっかくここまで来たのに参ったわね」
モカロはため息をついた。
「まだ諦めるのは早すぎるって!」
アメリアはヘアピンを手に取ると、器用に鍵穴を弄り始めた。
「……ここがこうだから、確かこれをピンの先で押してあげれば……」
――カシャン――
と音がして鍵が解けた。
「すごいじゃない! ……でも、アメリアったらさっきからやけに手馴れているように見えるのだけど? あんた、まさか頻繁に輝姫さまの部屋をこっそり覗いてたんじゃないでしょうね」
「エッ、その――。い、今はそんなこと言っている場合じゃないわ。一刻も早く輝姫さまを助け出さないといけないんだからね!」
扉を開くと三人は応接室の中に足を踏み入れた。
「ちょっと待って!」
「なによ、モカロったら? 早くしないと――」
「うえ、上を見なさい……」
モカロは天井を指さして震え声で言った。
天井の全体には、まるで蜘蛛の巣のように糸が張り巡らせてあった。
アメリアは目を見開いて異様な光景の前に立ちすくんでしまった。
暗闇の中から巣の上を這うようにして現れたのは、細く白い人の手だった。
その手が糸を手繰り寄せるようにすると、頭部に大きな蜘蛛をのせ、ボロボロの赤いドレスを身に着けた蝋人形のような女がボーッと現れたのだった。
だが、どう見てもふつうの人には見えなかった。
――蜘蛛女と呼ばれる妖魔に違いない。
頭部に乗せた蜘蛛が糸を吐く度に、風を切るような音がしていた。
するとブンブンブーンと蜂の羽音がした。
透明な羽をもった妖精が蜘蛛女の周りを挑発するかのように飛び回っていた。
蜘蛛女は糸を吐き出して妖精を絡め取ろうとしていたのだ。
妖精は蜘蛛女の糸の間を縫うようにジグザグ飛行してかわしていた。




