潜在意識
ベッドで目を覚ました時から感じていた嫌な臭いと寒気が、再びしたような気がした。
アカリは、詰所の扉を振り返り凝視すると耳を澄ませた。
扉の向こう側のカウンターの外の廊下には、シルバーナイトが控えているだけのはずだ。
気のせいかと思い直したアカリは、テーブルの上のスタンドランプに火を点け手元を明るくすると、椅子に縛りつけられているメイド長の縄を解く作業を続けた。
「そんなことなら気を悩ますこともないわ。どうせ、お化けなんて脅かすだけで何もできやしないんだから」
「輝姫さま、お化けって何ですか!? まだ他にもいたんですね……。このままじゃ、みんなアレに食べられてしまいます!」
「もうっ、何も噛みついたりしないから、落ち着いてよ」
このままチマチマと作業を続けていても埒が明かないと、アカリは棚を探すとハサミを見つけた。
縄は糸を束ねたような構造になっていたので、普通のハサミで糸を少しずつ切っていった。
「でも、アレは、吐いた糸で体を巻いて自由を奪ってから、人の体液をすすると聞いたことがあります!」
「それじゃあ、まるで蜘蛛みたいじゃない? でも考えてみてよ、お屋敷にそんな大きな蜘蛛が入ってきたら、目立ってしょうがないじゃないの――」
いきなり、部屋の窓ガラスがバンッと勢いよく外に全部開いた。
アカリが驚いて振り向いて見ると、窓の外には逆さ釣りになった蝋人形のような女がいた。
古くボロボロになった朱色のドレスを着ていた。朱がまるで血が乾いた跡のようだ。
女の顔色は青ざめていた。
瞑っていた目が開くとボンヤリと赤く灯るように濁っていた。
髪は緑青色をしていた。
そして頭には、まるで帽子をかぶっているかのように大きな蜘蛛がのっていたのだ。
その蜘蛛の口が糸を吐いた。
部屋の天井に糸をはると、蜘蛛女は身体をブラブラさせながら糸を伝って部屋の中に侵入してきた。
とたんに、部屋中にカビのような嫌な臭いと冷気が漂った。
「ギャアアァァァッー!! お、お許しください! 正気になって、お願い……、どうか、食べないでっ!!」
まだ椅子に縛られたままのメイド長が、ガタガタと椅子ごと身体を揺すりながら叫んだ。
メイド長を襲って椅子に縛り付けた犯人であろうアレ――蜘蛛女は、天井から床に降りた。
ヨロヨロとした不気味な足取りでアカリに向かってくる。
メイド長の悲鳴で我に返ったアカリは、とっさに手に持っていたハサミを間のテーブルの上にあるスタンドランプに向かって投げた。
ガシャン、とランプがひっくり返ると、ボッ、と火がこぼれた燃料に引火した。
赤い炎がテーブルの上に燃え広がった。
突然の炎に驚いたのか、蜘蛛女が後ろへ飛びのいた。
その間に、アカリはスマホを振袖から取り出すと、指でパネルをタップして、シルバーナイトをバトルモードに切り替えた。
「すぐに部屋の中に来て、シルバーナイト! 蜘蛛女を追っ払うのよッ!!」
女の頭にのった蜘蛛が、アカリめがけて糸を吐く。瞬時にアカリはステップバックして飛びのいた。
蜘蛛女は悔しそうに唸ると、糸を手繰り寄せるかのようにして飛びかかってきた。
と、同時に、シルバーナイトが扉を蹴破り部屋になだれ込んできた。
背後から、蜘蛛女の腕をガントレットの手でつかむと、そのまま腕を後ろ向きにねじり上げていく。
激しく暴れる蜘蛛女の抵抗など無視するかのように、そのまま壁に向かって投げつけた。
頭にのった蜘蛛が天井に向けて糸を吐き、クルリと女は宙で体の向きを大きく変えると、足から壁にスタッと着地した。
蜘蛛女は天井から糸で頭を下向きにぶら下がると、アカリたちを赤い目で藪睨みした。用心深く様子をうかがっているようだ。
コイツが、メイド長が言っていたアレの正体なのね!?
妖怪? 魔物?
ああ……、両方で妖魔か……。
パニックを起こすこともなく、アカリの頭は妙に冴えていた。
挑発するように前に立ち舞うように両腕を振り上げ振袖を翻らせると、誘うように後ろに下がった。
蜘蛛女が飛びかかってくると、待ち構えていたシルバーナイトが鉄拳を叩き込んだ。
重いストレートパンチが蜘蛛女をガードなど構わずに壁際まで吹き飛ばした。
「そのまま動くなッ! 降伏しなさい!!」
アカリの警告などまるで聞こえていないかのように、蜘蛛女は立ち上がるやいなや飛びかかってきた。
シルバーナイトのハンマーパンチが振りぬかれる。
骨までひしゃげたような嫌な音を立ててクルクルと回転するように蜘蛛女の体がねじれ倒れた。
シルバーナイトは、蜘蛛女の足首を掴むと大きく開け放たれた窓から外へと投げ捨てた。
しかし、窓の外からは地面に落ちた音は聞こえてこなかった。
外壁に頭の蜘蛛が糸を吐き、それを支えに女は空中で体をひねって向きを変えるとふわりと着地したのだった。
アカリは窓からスマホのレンズを向けてその異様な姿を撮った。
睨みつけると、蜘蛛女は獣のように呻きながら暗闇の中に溶け込むようにして逃げ去っていった。
蜘蛛女の姿が見えなくなり、アカリはホッとして胸をなでおろした。
あれが妖魔……。スバルが戦っている相手なのね?
そうか、ミーシャちゃんは巨大甲虫型モンスターの対応で手が一杯だし、スバルが抜けた穴をついて、さっそく城塞都市の中心部まで侵入して来るなんて、なんて抜け目のない奴ら……。
侵入したのが今のサージェント・ランクの蜘蛛女、一体だけならいいのだけれど――。
いえ、いくらなんでも妖魔の集団では警備の目を掻い潜ることは難しいから、隙を突いた単独行動だったと思いたいわ。
アカリは、蜘蛛女が消え去った闇を見つめながら思いを巡らせた。
そして、ふと、蜘蛛女のような化け物を見ても悲鳴ひとつあげず、冷静に分析までしているアカリ自身に疑問を持った。
でも、サージェントって……。なぜ、ランクまで分かっちゃうのよ?
――そういえば、メイド長は輝姫がよく知っていると言っていたっけ――。
あのカビ臭さと冷気からは、不吉なものしか感じなかった。
もし、あのままベッドの中にいたら、蜘蛛女に寝込みを襲われ、何も分からぬうちに暗殺されていたのだろうか……?
ラートハウスと並び城塞都市の中心部であるお屋敷に潜入するなどという危険を冒してまで、蜘蛛女が単騎でメイド長を狙いに来たわけがない。あくまで蜘蛛女が狙っていたのは、輝姫の命に他ならないからだ。
――嫌な空気に寝付けずベッドを出たアカリは、もはや迷うはずのないよく知ったお屋敷の中をなぜかさ迷った。
その先にあったのが、シルバーナイト……か……。
――出来過ぎている。まるで、潜在意識がそうでもさせたかのようだ。
もちろん何も知らないアカリではなく、輝姫の意識としか思えなかった。
女神さんは、じきに思い出すと言ったけれど、本当にそんなことって――。
アカリはスマホをギュッと強く握った。
「――さすがは輝姫さま! 助けに駆けつけていただいたばかりか、まさか、ゴーレムを召喚してアレを撃退なさるとは、夢でも見ているようでございます――!」
縛りつけられたままのメイド長が、興奮して椅子を揺すりながら賞賛の声を上げていた。
アカリはシルバーナイトに糸の縄を断ち切るように命じた。すると、大きな体に似合わず器用にハサミを使って縄を断ち切ってメイド長を助け出した。
その格好はどことなく滑稽だったが、メイド長は尊敬のまなざしを向けていた。
「……それ、お世辞にもなってないわ。私を誰だと思ってるの? 輝姫は、単騎の蜘蛛女にやられるほど落ちぶれてはいないわ」
アカリは子供っぽく唇を蕾ませて拗ねて見せると、まるで輝姫のように振舞っていた。




