輝姫と馬なしの車(前)
牽引されているスポーツカーの右側のタイヤが、ついに車線からはみ出して分離帯を越える。
タイヤが段差に乗り上げて、ドシン、ガタガタガタッと、車体が激しい振動に見舞われた。
「フェッ!? ――な、なんなの、いったい? ミーシャちゃん!?」
考え事に夢中になっていた輝姫は、白昼夢から目覚めたようにハッとすると訳が分からずに喚いた。
叱られた子猫のような顔で、ミーシャは輝姫を見つめていた。
激しい揺れの中、車のウインドーからは猛烈な勢いで回転する巨大な馬車の車輪が目前に迫っているのが見える。
「なにやってるのよ!? もっと速く走って! このままじゃ、大きな車輪に踏み潰されちゃうじゃないッ!!」
突然のことに、輝姫は状況も把握できずに叫んでいた。
「もう馬が精一杯でな、これ以上の速度は牽引馬車では無理だ」
疲れたような声で中年の御者が答えた。
「……輝姫姉さま、なにもご心配には及びません。たとえ相手が男爵家所属の馬車だろうと、すべての責任はミーシャひとりで負いますから……。輝姫姉さまには傷ひとつつけさせません!」
隣でミーシャのピンク色の髪の毛が逆立っていた。身体からは小さな青い放電が飛び散り始めている。
「充電って、……またなのッ!? ちょっと待ちなさい。そんなに電気を溜め込んで、さては電撃で巨大な荷台まるごと吹っ飛ばすつもりね? そんなことして、大型馬車が暴走して沿道にでも突っ込んだらどうなると思ってるの――歩行者まで巻き込んで大惨事なんて想像するまでもないわ。だいたい、これはスポーツカーなの。この程度のスピードが精一杯のわけないでしょう!」
ボリュームのある銀色の髪を左右に振って、不機嫌そうに輝姫は言った。
「……スポーツカーって……?」
ミーシャは怪訝な顔をして輝姫を見た。
「聞こえなかった? 輝姫は、電撃を止めなさいって言ったのよ」
聖女の威圧とまるで呑み込まれそうな深い漆黒の瞳に睨まれてたじろぐミーシャは、しゅんとして電撃のチャージを止めた。
「――で、でも、悪いのは馬車をブロックして幅寄せまでしてきたあいつらの方なんです! 男爵家の家柄を笠に着て、外様の勇者隊を軽く見てるんだわ……。体を張ってこの城塞都市を守っているのはミーシャたちが一番なのに、侮辱されるなんて絶対許せないんだからっ!」
ミーシャは泣きそうになって叫んだ。
「ハァー、車の追い越しでケンカなんて子供みたいな真似をして……。参ったわね……」
輝姫は大きな溜息をつくと、運転席まわりを見回した。このスポーツカーを運転しようにも、ハンドルもアクセル、ブレーキペダルもついていなかった。
“コネクト、ブリザード”とパネルに表示された青白く光るスマホを手に取り指先でなぞる。
画面が切り替わると、スポーツカーのメーターが次々と映し出されていく。
ふーん、なるほど――このスポーツカー……ブリザード号は、今、スマホとコネクトしているわけね。
スマホのパネルの中には、まるでラジコンカーのプロポのように、ハンドルやアクセル、ブレーキの操作用ボタンが表示されてた。
やっぱりそうだったのね。だいたい、前から思っていたのだけれど、こんな時代にそぐわないオーパーツなスポーツカーなんて、元から女神さんが一枚絡んでいたに違いないのよ!
「ブリザード、イグニッション オン!」
パネルに表示された文字を思わず声に出しながらスマホのボタンを押す。
とたんにエンジンがグオンッと唸りをあげて、ドライバーシート前のメーターまわりに明かりが点いた。
ほら思った通りだ。スマホで完全にコントロールできる!
輝姫の心臓の鼓動が早まっていた。
「エェ――ッ? 輝姫姉さまっ、ミーシャの馬車に何かされたんですか!? 重低音と振動がしますっ、どこか壊れたのかもっ!?」
「いいから落ち着きなさい。ミーシャちゃんは、このまま男爵家の軍門に下る気はなくて、大型馬車に潰されてペッタンコになるのも嫌でしょ。だったら、輝姫にすべて任せなさい。本当のスポーツカーの走りを見せてあげるわ。――御者のヴァイスさん! 牽引馬車との連結器を解きますから気を付けてくださいッ!」
「おう! やっとお昼寝からお目覚めかい、輝姫さま」
「久々に聞いてもいいエンジン音だわ。乗り心地もいいし、ちゃんと整備してくれていたのね。ありがとう!」
ヨレたスーツを着た御者はニヤリと笑って頷いた。
「姉さまっ! 馬だけでも逃がすおつもりですかっ!? でも、そんなことしたら――、こっちの身動きがまったく取れなくなって、本当に潰されちゃうわ!」
ミーシャが金切り声をあげていた。
「もう、質問の時間はおしまいよ。ミーシャちゃん、シートベルトを締めなさい」
輝姫は対向車線を見た。
一群となった馬車が次々と駆け抜けていく。
ほんの少しでいいから、切れ目があればいいのに、と輝姫は思った。




