氷の玉座、炎の王冠 欠片4
第59話 永久自己所有物
心臓がひどく早く鼓動を打っている。
「……心配かけやがって」
憎まれ口をたたきながらも、アルバは茂みを抜けて一直線にロザリーのもとへ駆け寄った。これほど心配し、不安になり、失いそうになる恐怖と戦ったのは、いつ以来だったか。
「生きているな!?」
ヒヤリと背筋を流れる冷たい感覚を必死で否定しながら、呼吸があることを確認する。樹にもたれかかり、ぼんやりと空を眺めている瞳には光が宿っていなかったが、かろうじて細い息があった。
――大丈夫。生きている
確信したら力が抜けそうになった。
こうなったのはロザリーのせいじゃない。元を正せばアルバのロザリーへの執着が原因だ。しかし、彼女の意思がなければこんな事態にはならなかった。彼女が彼のために身を引きたがっていることなど十分分かっていたことだった。けれど、けれど……どんな言い訳を用意されても諦めたくなかった。彼女以外、隣に座らせる気などとうに失せていた。
バカヤロウ。
ばかやろう。
勝手に消えんな。
心配した。
俺を置いていくな。
そんな言葉が頭の片隅に浮かんでは消えるが言葉にならない。
首筋に手を当てると熱っぽい。どうやら脱水状態にあるようだ。
「チッ」
最悪の事態を想定して持ってきた小瓶を取り出し、コルクの栓を乱暴に抜いて投げ捨てる。中に入っている水を飲めと口元へ差し出したが、飲み込む気配はなくそのままこぼれてしまった。
「起きろ! 目の前で好きな女に死なれてたまるか!」
軽く頬を平手打ちするが戻ってくる気配はない。意識朦朧としているのだろう。
「死にたいだとかぬかしやがったら、殺してやる」
言ってることは無茶苦茶だ。本人も十分に分かっている。けれど、振り切れそうな感情は止まらなくて。止まらなくて。
「他の男のものになるなら壊してやる、死にたいなら殺してやる……でも、誰よりも、何を差し置いてでも……」
――守りたい
唇を噛み締めると鉄の味が広がった。
矛盾している。馬鹿げている。
何より自分がこんなに激しい感情の持ち主だったなんて信じられない。跡継ぎとして常に冷静沈着であれと言い聞かせてきたはずなのに、どうしてだろう、彼女が絡むとこうもあっささり理性が吹き飛ばされてしまうのは。
「ロザリー」
名前を呼ぶが反応はない。
目の前にいるのは誰だと思っている。
無視することは許さない。
ぐいっと水を口に含み……彼女に口付けて飲ませた。
「……ぷはっ「ごほっ」」
ロザリーの息が大きく吐き出され、そのまま咳き込み始める。その頼りなげな背中を見た瞬間、もう何も考えなくていいから、ただ俺の傍にいてくれればいいと……そう思って手を伸ばしかけ、開いた手をぎゅっと握り締める。
そうやって誤魔化されてくれるような女じゃない。
呼吸を整えてから、アルバは水を差し出した。
「ゆっくり飲め」
彼女はいつも何かを考え、昔のことを忘れることができずに苦しんで、それでも前へ進もうとあがいていたではないか。
そして、アルバが欲しいと思ったのもそんな彼女だった。我侭な願いかもしれないが、そのままの彼女が欲しいのだ。
何度かつっかえそうになりながらも水を飲むロザリーを見て、アルバは不意に尋ねた。
「生きるのが辛いか?」
その言葉に彼女はゆっくり頷いた。
「考えれば考えるほど不安になるばかり。自分のふがいなさが情けないよ」
そんなロザリーの言葉に、アルバも静かに同意した。
「俺も……怖い」
その言葉にロザリーは僅かに首を傾げた。この男に何を怖がることがあるのだろう。才能も、美貌も、地位も、名誉も何もかもそろっているこの男に。
「お前と同じだ」
さらさらの髪が額に触れた。気がつけばアルバの顔が至近距離にあり、彼の瞳に彼女が映っていた。その瞳に射すくめられるような気がして、ふるりと体を震わせる。
「同じ?」
かすれた声で問い返すと唇をなぞられた。
「失うのが、怖い」
一度その泣きたくなるくらいの感情を知ってしまったら、失うのが怖くなる。
大切なものを抱えるほど、どれひとつとして離したくなくなる。
いつも目をしっかり開けて、こぼれおちたりしないかと気を張る毎日。
幸せになるのが怖い。
「ロザリーがフレンディの名を呼んだとき、不意にどうしようもなく怖くなった」
俺の場所がなくなるんじゃないか、あいつに取られてしまうんじゃないかって。
「いや、それ以前から漠然とした不安があった」
昔の事件が起こった後から、何度も不安定になったり、うずくまったり。時折投げやりになったりして。
アルバは無造作に投げ出されたロザリーの手足を見て、ひとつ、ため息をついた。
「正直なところ、俺も、行き詰ってる」
その目には静かな、淡々とした光が浮かんでいた。
「大切にしたいと俺が思っている女は、全てを一人で抱え込み、俺の持つ負の背景をも抱え込み、消えたいと願っている。俺は、彼女を欲しいと思うのに……拒まれる。その心に声が届かなくて、けれど、無理矢理自分のものにしようとすれば、きっと過去を思い出して壊れてしまうだろうから、そっと、見守るしかなくて」
何も話そうとしないから、何とか自分で調べて、考えていることを推測しようとするけれど、何一つ確証なんてない。
「でも、毎日をともに過ごすだけで嬉しい。俺のことを大切に思ってくれる気持ちは感じられるから。そのくせ自分のことになるととたんに扱いがぞんざいになる。ふさわしいとか、ふさわしくないとか、そんなもの俺には関係ないというのに」
正直、ロザリーの考えていることが分からなくなった。
ロザリーは強くなんてない。
けれど、すがってくれない。助けてやりたいけれど、助けられない。
それは、俺が「俺」だからか?
考えるほどに迷宮入りしていく感情。あまりに複雑に物事が絡んでいるように思えて、解けなくなっているところに、また新しい結び目が出来ていく。
でも、これだけは昔から変わらない。
「俺は、ロザリーを愛してる」
他の男に取られるなんて考えたくない。
けれど幸せであるよう願っている。
守りたい。
笑って欲しい。
本当は、傍にいて欲しい。
過去を忘れて欲しい。
なんといっていいのか分からないくらいたくさんのことを願ってる。
「でも、俺さえいなければ、もう一度何もかも忘れてやり直せるというなら、俺は遠くに行ってもいいと思ってる。あのな、もう……俺のこと忘れてもいいんだ」
この地にとどまるのが辛いなら、遠くで一からやり直してもいい。その手続きの準備は出来ている。
「それでも死にたいというなら、俺が、この手で……死なせてやるよ」
全てを捨ててもいい。でも、一人で行こうとするな。せめて一緒にいてやるから。
ロザリーの首筋にアルバの手がかけられた。
口の中がじりじりと焼け付くような渇きを訴えた。