氷の玉座、炎の王冠 欠片3
第13話 炎の王冠(後編)
洗い物を片付けてしまって、林檎を持っていくと、お気に入りのクッションは本来正しい使い方である頭の下に収まっていた。その上には、端正な顔立ちの美青年がこちらを向いている。
「ロザリーがいてくれて良かった」
アルバの長い睫毛が揺れた。
「ん。まあ、林檎でも食うがいい」
ロザリーはその言葉を軽く流し、ザックリと切った林檎にフォークを添えた皿ごと差し出す。シャリシャリとした食感と、程よい酸味が口の中に広がる林檎は彼女の好物だった。
「食わせてくれ」
暗に口までもってこいと要求するアルバを珍しいと思いつつも、ロザリーはその要求をあえて拒否することにした。小さめの林檎をひとかけら、自分の口に運ぼうとする。……と、起き上がった彼が、その林檎を横からカプリと咥え、そのままシャリシャリと小気味良い音を立てて食べてしまった。
「……」
「やっぱり、疲労には林檎が一番だな」
ペロリと林檎を食べてしまってからクックックと満足そうに笑うアルバの口に、彼女は無言の抗議を込めて大きめの林檎を手で掴み、無理矢理その口へ押し込む。
どうやら元気なようだと、多少の頭痛を覚えながら林檎をそのまま置いて立ち上がろうとすると、彼の手がしっかりと彼女の腕を掴んでいた。
「手を離してもらえないだろうか?」
剣術で鍛えた腕に随分筋肉がついているのか、立ち上がろうと力を込めてもびくともしない。
「嫌だ」
「子供のようなことを言うな」
「それはこちらの台詞だ。……まったく心配させやがって」
その言葉に反論できず、ロザリーは諦めてアルバの横に腰を下ろした。ここ数日、彼女が眠れなかったのと同じように、彼もまた眠れなかったのか、よく見ると少し顔色が悪いように見える。
「悪かった。今はもう落ち着いているから、だから安心してくれ」
「そうじゃなきゃ、俺は王冠を脱ぐことすら出来ないからな」
コツンとぶつけられた額が熱い。
「アルバの王冠は……炎の、王冠なんだな」
水仕事で冷たくなった手をアルバの額に当てると、彼はその冷たさが心地良いとばかりにじっとしていた。
彼は常に完璧でなければならない。
そう自分に言い聞かせ、完璧である努力を怠らない。知識を蓄え、体力を作り、社交的で責任感があり、誠実である。だが、それは窮屈すぎやしないだろうか。常に頂点に立っていなければならないのだろうか。
―――炎の王冠。
まさにその表現がぴったり来る気がした。頭上に頂く時間が長いほどそれは熱を帯びて、人を酔わせ、戦わせ、狂わせる。けれど彼が彼の身分でいる限り、脱ぐことは許されない王冠。
そして自ら掴んで離さないモノ。
「これくらいでダウンするなんざ恥ずかしいことなんだけどな」
けれど掴んで離さないのは、決して自分のためだけではないのは周囲も分かっていることだった。
「アルバは頑張りすぎるな。今日はゆっくり眠るがいい」
だからロザリーもいつになく親切な申し出をしてみたくなったのだ。
ぎゅっと掴んでいる手をポンポンと軽く叩くと、ふっと力が抜けて、アルバの腕がほどける。
「昼食になったら起こしてくれ」
「ここは愛人宅じゃないぞ」
ロザリーとアルバの関係はとてもあいまいなものだ。
幼馴染。友達。元婚約者。
恋人だと思っている人間も多いが、彼女としては全部違うと思っている。
言葉にしようとすると難しいのだが、あえてこの関係に名前をつけるなら『共有者』という言葉を選ぶ。同じ記憶を抱え、同じ悩みを持ち、お互い支えあっている……そんな関係。
しかし、このままずるずると居心地が良い関係を続けるわけにもいかなかった。お互いに甘え、お互いの重荷になるには少々家庭の事情が複雑だったからだ。昔のような権勢はもはやロザリーの実家にはない。そして、彼女もアルバの隣に座る意思がないのであれば、速やかに退場しなければ、新しい女性も寄ってこないだろう。アルバが周囲にロザリー以外の女性は目に入らないと態度で示しているならなおさらだ。
過去という足かせをアルバにつけて、足を引っ張るのは彼女の本意ではない。もう、幼い頃と事情は変わったのだから。
アルバは王冠をかぶる人間だ。けれど、その頭上に輝くのは炎の王冠ではなくていい。
今は気心の知れた幼馴染に居場所を求めているかもしれない。けれど、近い将来、アルバにはもっと居心地の良い場所を作ってくれる女性が現れるだろう。
もっと純粋な。
もっと優しい女性が。
そんな未来に邪魔になるだけの自分は要らない。これ以上、優しいアルバに心配と迷惑をかけたくないのだと彼女は思った。
ふと、薔薇の香りがした。アルバの持参した白薔薇は、まだ蕾のものが多い。
白薔薇の意味は『貴方を尊敬します』。そして白薔薇の蕾は純粋な……―――初恋。
「ロマンチストだな」
むしろ尊敬するのは私のほうだとロザリーは苦笑した。どうしてそこまで一途に人を愛そうとすることができるのだろう。
少し微笑んで薔薇の向きを変えてやると、窓から入る光を受けて花びらがキラキラ輝いた。