林檎とチョコレート
その日は少年野球の練習試合があった。
俺達はいつもと同じようにプレーし、いつもと同じように勝った。
「あの場面での隼人のホームラン、すっげー格好良かったぜ!」
「ったりめーだろ!」
久々に打ったホームランにすこぶる機嫌が良くなり、ご褒美とばかりに好物の林檎ジュースを一気に喉へ流し込む。甘酸っぱいような、それでいて爽やかな味が舌の上を通り、胃へとストンと落ちていった。
けれど、勝った奴がいれば負けた奴が当然存在するわけで……ふと見た相手チームの雰囲気は、まるでどんよりとした雨雲が周囲に集まってきていると錯覚してしまいそうになるくらい、暗かった。あとで聞いた話によると、どうやらそいつらの監督が引っ越すとかで、今日の試合が最後だったという。
「そんな感傷的なことで急にレベルアップしたり、実力以上のものが出たりするわけないでしょ」
とは、冷静な俺の親友の分析で、
「だからといって俺たちが負けてやる理屈はねーって」
とは、元気な俺の親友の分析であり、確かにそれは正しいことなのだけれど、後味の悪さは消えてくれない。今日はさっさと帰って、録画しておいたアニメでも見よう……そう思った時だった。
「みんな、監督が困ってるよ。ほら、ここまで頑張ったんだから」
――笑って?
監督と思われる男の隣にいた華奢な少女が、にっこり微笑んだ。まるで、ぽっと小さな花が咲く……そんな微笑だった。
――それは一瞬。
でも、俺の目を釘付けにするには十分な時間だった。
瞬きもできないまま、その一瞬はまぶたに焼き付けられて。
可愛いとか、綺麗だとか、そういうんじゃなくて、なんていうのかな……
――愛しい。
そう、そんな気にさせるような、やわらかい微笑に、
多分、俺……一目ぼれしてしまったんだと思う。
「隼人ー。いくぜー。置いてくぞー」
だって、友達が呼ぶのも気づかないくらい、彼女のほうを見ていたから。
それが、千代子との初めての出会いだった。
彼女はこのことを知らない。俺の片思いのスタート地点がここだってことを。
彼女に言うつもりはない。少し、ほろ苦いことを思い出させてしまうかもしれないから。
***
――呼ばれたような気がして自転車を止めた。
友達の趣味のサイクリングに半ば強制的に連れ出された帰りだった。
その声はとても小さなものだったけれど、何故か聞き分けられてしまった。
「監督。お疲れ様でした」
「千代ちゃんにも悪かったね。なんだか結局つき合わせちゃって」
「いえいえ、憎たらしくも可愛いうちの弟がお世話になってますから」
ゆっくりと、公園の前をあのときの女の子が歩いていた。多分横にいる奴は、あのときの監督だったと思う。大学生くらいだろうか? 存外若い。まあ、思う……というのは俺の記憶が結構あやふやで、むしろ一度会ったっきりの人間の顔を覚えているほうが珍しかったんだけどな。
「あ、いえ。ちょっと違うかな。監督頼りないから」
「え? やっぱりそう? そりゃ、すまないなぁ……」
てくてくと歩く二人を、なんとはなしに目で追ってしまう。彼らは気づかない。
「でも、頼りなくても………………好きでした」
ぽつりとこぼすように、彼女は呟いた。
なんでもないことのように、さらっと呟いた。そんな風に見せかけているだけで、よく見るとぎゅううっとカバンをつかんでいるし、足は震えている。
「有難う。僕もみんなに慕ってもらえて楽しかったよ」
でも、そんな様子にまったく気づかないようにそいつは笑って、「じゃあいくね」と手を振ってさよならしていった。
ぽかぽかした冬のある日。
ずっとその姿が見えなくなるまで見送っていた彼女は、近くのベンチに腰掛けると
「せめてバレンタインまでいてくれたら……なんて我侭だよね、私」
肩に下げていたカバンからふわふわのマフラーを出して、巻きすぎじゃないかというくらいぐるぐると巻いて、表情が見えないくらい巻いて、日当たりの良いベンチに腰掛けた。そして無造作に、隣の場所をぽんぽんと軽く叩く。
……誰もいないその場所を。ぽんぽんと。
それから2、3回軽く頭を振ってカバンのポケットに突っ込んでいた包みを取り出して、中に入っていたハート型のチョコレートを1つ、口に放り込んだ。
人の気持ちなんてあんまり考えたことなかった俺だけど、このときばかりは痛いほど彼女の気持ちが分かってしまう。だってさ……
――俺も片思いしてたから。
その気持ち。じんじんと心が疼くほど分かる。
ゆったり雲が流れていった。
目にいっぱい涙を浮かべてチョコレートを頬張る彼女の気持ちが痛いほど良く分かるんだ。何度も、何度もかみ締めるように食べるその姿が切なくて、見ていられなくなって。気づかれないよう……そっと立ち去った。
渡すはずだったチョコレートを一人で泣きながら食ってるなんて、辛いだろ?
でも、気づいて欲しい。片思いしているのは自分ばかりじゃなくて、自分のことを好きでいてくれる奴がいるってことに。
少しずつでもいい。これから少しずつ俺のことを知ってほしい。
願わくば、俺のことを好きになってくれたら言うことないんだけどさ、そうじゃなくても、もし来年、彼女の思いが伝わらなくてもさ、チョコレート、今度は食ってやるから。一人で食べさせたりはしねーから……。
***
――呼ばれたような気がして自転車を止めた。
「隼人君っ! まって……」
あの日から約半年後、俺は千代子と、その、なんだ……一応というかなんというか付き合い始めた。
今思い出せば喜劇のような展開に、お互い顔を見合わせて笑ってしまうんだけど。
「千代子」
きゅっと綺麗にブレーキをかけて止まると、息を切らせて彼女が追いついてきた。
「良かった! 隼人君に会いたかったの!」
ふわっと微笑む彼女の笑顔は、一年前に見た以上に綺麗になっていると思ってしまうのは、俺の錯覚じゃないと思う。すげーそれが嬉しい。俺のために笑ってくれるのが、とてつもなく幸せなことに思えてしまう。
ちょっと照れながら、自転車から降りた俺の目の前に差し出されたのは
「はい! バレンタインのチョコレート」
どうやら手作りらしいチョコレートの箱だった。
「あれ? 今日2月13日だぜ」
「だって、明日学校あるし、私の家遠いし、一番に渡したかったのよ」
2月14日に渡さなきゃいけないなんて法律ないもん。
ね? という千代子は、すっげー可愛い。
思わず「そうだよなー」とか思ってる俺も馬鹿だと思う。まあ、千代子はフライングの前歴があるわけだから驚きはしないけど。
その日もぽかぽかした日だった。
やっぱりベンチはちょうど良い感じに暖まっていて、でも今度は二人で腰掛ける。包みを開くとなんかちょっと不恰好な形の……
「それね、りんごを砂糖で煮詰めたものにチョコレートをかけたの。形は悪いけど味は良いんだよ」
勧められるまま1個口に入れる。
本当はどんなにまずいチョコでも「うまい」って食うつもりだったけど、そんなこと考えるなんて失礼だったなと、思えるくらい美味かった。
「美味いな、これ!」
「でしょー。りんごが好きって聞いたから、バレンタインのチョコはこれにしようって思ったんだよ」
「うん」
「で、最初はハート型も考えたんだけどね」
「うん」
「ハートだと割れたり欠けたりしたら……悲しいなぁと思って」
「うん」
一年前のチョコレートはハート型だったよな。
「やっぱり隼人君のことを考えると、形は悪くても喜んでもらえるほうが良いかなぁって」
「うん」
考えてくれただけでも嬉しいから。
「それでね」
「うん」
少し千代子は頬を赤らめる。
「ハートの分はね」
「うん」
「これで」
少し近づいた顔にどきっとしたら、唇にやわらかい感触があった……
「あ、甘い……ね」
触れるだけのキスだったくせに、自分でやっておいてむちゃくちゃ照れる千代子がすげー可愛くて、
「そ、そうか?」
俺も一緒に真っ赤になってしまう。
「ちょ、チョコ食べる?」
「おう」
ほんと今日はあったかいな。
頬が林檎のように赤くなってしまうほどだ。




