04.残された感情
結局、オッサンは指一本あたしに触れはしなかったし、名前も連絡先も教えてくれなかった。
「アンナ! アンナってば!」
重い頭をやっとのことで上げると、メグミが鬼みたいな顔をしてあたしを見下ろしていた。あたしは満面な笑みを浮かべて、メグミを見つめ返す。
「あ、メグミさーん」
「何そのヘラヘラした笑みは、キモイ」
「キモイ言うな」
メグミは茶色の長い髪の毛をサラリと揺らし、あたしの前の席に座った。相変わらず、お綺麗ですこと、メグミさんは。
「アンナ、昨日どこいたの?」
「最高級ホテルの最上階のスウィートルーム」
「バカなこと言ってんな、クソが」
「痛いっ! 叩くことないじゃん!」
「心配したんですけど」
「す……ません」
「あ? 何? 聞こえませーん!」
「すんませんでした!」
今日の朝、担任に泣く泣く頭を下げて返してもらった携帯にはメグミとダイチの着信がずらりと並んでいた。そう言えば、携帯没収されたこと二人に言ってなかったっけ。(後で、ダイチにも謝らなきゃ……)
「目、赤いよ、アンナ。アイツとなんかあったの?」
「うん、振られた」
「そんな、あっさり」
「なんか、フタマタだったらしいよー」
「アンナ……」
鞄から鏡を取り出し、自分の顔を覗き込んだら、泣き疲れて腫れた瞼が見えた。なんとかバレないように試行錯誤してみたが、何の成果も得られない。(すごい、ブサイクだ)不思議とアイツの事を考えても、もう胸が痛まなかった。アイツの為に、悲しむ労力も惜しい。あたしは自分を大事にすることに決めたのだ。フタマタ男なんて、こっちから願い下げ。こう思えたのも、全部あのオッサンのお陰だ。
昨日、延々と泣いていたあたしに、オッサンはルームサービスで高級なディナーをご馳走してくれた。キャビアもフォアグラもフカヒレも初めて食べて、少し舞い上がっていたのかもしれない。そりゃあオッサンはカッコよかったし、紳士的だった。また会いたいってのが乙女心なわけで……。なのに、あのオッサンは名前すら教えてくれなかったのだ。
あたしの一人暮らしのマンションまで、例の高級車で送ってくれて、最後に一言、
『また会える、そのうちな』
自信満々なオッサンの顔が脳裏に浮かび、そして消えて行く。オッサンのあほ! だって、そのうちっていつ? もしかしたらもう、一生会えないかもしれない。そう思うと、胸がズキリと痛む。これじゃあまるで、あたしが、オッサンに恋しているみたいじゃないか。
「元気出しなって、アンナ」
「え、何、アンナフラレタの?」
ダイチが嫌味な笑みを浮かべて、顔を出す。部活の途中なのか、バスケットのユニフォームから程好く筋肉のついた腕が覗いていた。ええ、ええ、振られましたよ。そりゃあもうこっ酷く。でも今あたしが考えてるのはフタマタ男じゃなくて、あのオッサンのこと。メグミはそんなダイチをぎろりと睨み付けると、遠慮無しに叩いた。
「いってえぇ! なに今の、クリティカルヒットなんだけど」
「殺してやろうか、アイツ? なんならダイチも」
「いや、メグミが言うと冗談に聞こえないから」
「え、本気だけど」
「(こえぇ)……いいよ、メグミが相手にする必要ない」
「だって、」
メグミはぐっと悔しそうに唇を噛む。メグミみたいな友達がいて幸せだよ、あたしは。あ、もちろんダイチもね。
「なんか、もう冷めた」
「そう、ならいいんだけど」
「俺がいい男紹介してやるよ!」
「ダイチのいい男の基準は当てになりませーん」
「うわー、最低、アンナちゃん」
「そんなことより! 本当は、昨日どこで何してたわけ?」
「昨日……は、ねぇ」
口を尖らせているメグミと、興味津々なダイチから目を逸らし、あたしは昨日のオッサンに思いを馳せた。カッコよかったなぁ、オッサン。ていうか、マジで何者なんだろう。
「アンナ!」
「はいはい……、えっと昨日は、ホテルでオッサンに誑かされてました」
「いい加減にしろ、お前は!」
「痛っ!」
どうか神様、メグミに2回目に叩かれたこのあたしの頭が、これ以上悪くなりませんように。そして……、できるならまたあのオッサンに、
会いたい、です。