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「今年のバレンタインは全面禁止です。」
朝礼の空気が、一瞬だけざわりと揺れた。発言者は総務の酒井さん。年季の入ったボブヘアと、ぴしっと通ったアイライン。社内の秩序を守ることに命をかけている人だ。
俺――山本は、我関せずで資料に目を落としながらその話を聞いていた。
禁止、ね。
正直、自分には関係のない話だった。
甘いものは好きだが、期待はしない主義。四十を過ぎて、義理チョコすら年々減っている身だ。社内イベントが一つ減るだけのこと。仕事が滞らなければどうでもいい。
そのとき、斜め向かいから「え!?」と素直すぎる声が上がった。
思わず視線をモニター越しに滑らせる。
朝倉さんが、口をぱくぱくさせている。大きな目がさらに丸くなっていた。ハイトーンの髪を後ろでまとめ、今日も少し華やかなネイルが光っている。
若者はイベントが好きだからな。
いや……もしかして本命がいるのかもしれない。
そんなことを、ぼんやりと思った。
◆
朝礼でバレンタインが全面禁止と告げられたとき、作戦が実行する前に失敗して朝倉は絶望した。
え、禁止!? まじで!?オワッタ!
山本さんは、きっと義理チョコなんてもらえない。というか、もらっても困り顔で笑うタイプだ。
だから、日ごろの感謝ってことで、さりげなく渡すつもりだ。
「以前、助けてくれたお礼です。三倍返しでお願いしますね〜」って冗談を言えば、山本さんはきっと困った顔で「三倍は高いな」と笑う。そこから「じゃあランチで」と自然に持っていける。完璧な作戦だった。
なのに、全面禁止。
酒井さんの目が光っている。あれは本気だ。
終わった。
◆
バレンタインは全面禁止になった。
だけど。
恋する乙女はそんなことではめげない。翌日には持ち直して、今日はバレンタイン当日。机の下で手を握りしめる。足元の鞄には紙袋に入ったチョコレートが入っている。
昨日、ちゃんとデパ地下で買った。個包装で上品なやつ。ギャルが選んだと思われないように、パッケージは落ち着いた紺色にした。値段はちょっとだけ見栄を張った。
◆
昼休み。
山本はいつも通り、社内の休憩スペースでコンビニの総菜パンにかじりついていた。斜め向かいの席が、がたんと揺れる。
朝倉さんが近寄ってきてコソコソ話しかけてくる。
「山本さん」
「うん?」
いつもより真剣な顔だ。少しだけ、胸がざわつく。
「今日って、二月十四日ですよね」
「そうですね」
「チョコレート好きですよね?」
嫌な予感がして思わず返す。
「禁止って言われましたけど」
「言われましたね」
そこで彼女は、俺の膝の上にそっと紙袋を置いた。
「これ、バレンタインじゃないです」
「……はい?」
「日ごろの感謝です。イベントとは関係ありません」
理屈が無理やりだ。
山本は紙袋と朝倉の顔を交互に見る。彼女の耳が、ほんのり赤い。
「酒井さんに見つかったら怒られるよ」
「見つからなきゃセーフです」
きっぱり言い切る。
「どうして俺に?」
つい、聞いてしまった。
朝倉は少しだけ視線を逸らして、言った。
「以前、助けてくれたから。あのとき、私、ほんとにやばくて。……誰も助けてくれなかったし」
思い出す。一年近く前、酒井さんに詰められて、俯いていた彼女。派手な見た目のせいで、余計に叱られていた。
あれは見ていられなかっただけだ。
「大したことはしてないよ」
「しました」
きっぱり。
「だから、お礼。三倍返しでお願いします」
やっぱりそれか、と山本は笑う。
「三倍は無理」
「えー」
「ランチ一回でどう?」
言った瞬間、自分で驚いた。
朝倉の目が、ぱあっと輝く。
「いいんですか?」
「三倍より安いでしょう」
「じゃあ、今週金曜で!」
話が早い。
山本は紙袋を受け取る。中身はまだ見ていないが、ずしりとした重みが心地いい。
斜め向かいの席に戻る朝倉の背中は、どこか跳ねるように軽かった。
若さに傷ついているつもりだった。
けれど本当は、そのまぶしさに救われているのかもしれない。
モニターに向き直りながら、山本は小さく息を吐く。
金曜のランチ。
それだけのことなのに、少しだけ、楽しみだった。




