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 好きです。


 その一言が、夜のオフィスの空気を変えた。

 蛍光灯の白い光。

 誰もいないフロア。

 キーボードを打つ音も、コピー機の唸りもない。


 ただ、朝倉さんが俺を見ている。

 真っすぐに。

 逃げ場がないくらい、真っすぐに。


 ――困るな。


 口から出たのは、本音だった。

 嬉しいのも本音だ。

 でも、それ以上に戸惑いが大きい。


 俺は四十代。

 体力は落ちてきてるし、夜更かしすれば翌日つらい。


 最近はラーメン一杯でも胃もたれする。

 一方、朝倉さんは――ピチピチだ。

 ……いや、もうその言葉は使わないって決めたんだった。


 それでも事実として、若い。

 未来がたくさんある。

 そんな人の時間に、自分が入り込んでいいのか。


 頭の中で、そんなことばかりぐるぐるする。

 なのに。

 目の前の彼女は、逃げない。

 さっきまで震えていたはずなのに、今は覚悟を決めた顔をしている。


 この子は、こんな顔もするのか。

 仕事中の明るい笑顔とも、ネイルを見せるときの無邪気な顔とも違う。

 真剣な顔。

 俺は、ため息をついた。


「……朝倉さん」

「はい」


 即答だった。

 少し笑ってしまう。

 ほんとに、逃げないんだな。


「俺さ」 


 言葉を探す。


「もう若くないんだよ」


 自分で言うと、やっぱり少し情けない。


「朝起きると腰の様子うかがうし」


 朝倉さんの目が、ぱちっと瞬く。


「健康診断の結果に一喜一憂するし」


 少しだけ、口元がゆるむ。


「休日はだいたい寝て終わる」


 ついでに言うと、スーパーの特売チラシを見るのが楽しい。

 でもそこまでは言わなかった。

 沈黙が落ちる。

 俺は少し視線を外してから、もう一度彼女を見る。


「それでもいい?」


 朝倉さんの目が、少し丸くなる。

 だから、言った。


「ピチピチじゃなくてもいい?」


 言った瞬間、しまったと思った。

 また言った。

 死語。

 でも。

 朝倉さんは一瞬ぽかんとして、それから――

 ぱっと笑った。


「もちろん!」


 即答だった。

 しかも、やけに嬉しそうに。


「むしろその言い方好きです」


 好きなんだ……。

 時代は分からない。


「山本さん、優しいし」


 指折り数えるみたいに言う。


「ちゃんと話聞いてくれるし」


 もう一本指が増える。


「あと、笑うと目のところにシワできるのも好きです」


 思わず目元を触りそうになった。

 そこ、好きポイントなのか。


「それに」


 少しだけ声が小さくなる。


「私、山本さんといると落ち着くんです」


 胸の奥が、静かに温かくなる。

 若い頃の恋とは違う。

 ドキドキより、じんわりくる感じ。

 まるで冬の朝に飲む、熱いコーヒーみたいだ。

 俺は少し笑った。


「……それ、褒めてる?」

「めちゃくちゃ褒めてます」


 真顔で言う。

 この子、本当に真っすぐだ。

 俺は椅子から立ち上がって、少しだけ彼女の方に歩いた。

 数歩の距離なのに、妙に遠く感じる。

 朝倉さんはその場で、少し緊張した顔で立っている。


「じゃあさ」


 俺は言った。


「また」


 彼女が息を止める。


「ランチ、行く?」


 一拍。

 それから。


「行きます!!」


 夜のオフィスに、元気な声が響いた。


 思わず笑ってしまう。

 明日の昼が、少し楽しみになった。

 こんな気持ちになるの、いつ以来だろう。


 腹は出ていない。

 ハゲてもいない。

 でも立派な中年のおやじだ。

 それでも。


 もしかしたら――

 まだ、恋くらいはしてもいいのかもしれない。


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