第3話 自由
第3話
「祖母に、何があったんですか?」
男の問いに、俺は答えられなかった。
どう説明すればいい。
お前の祖母は俺を罠に嵌めて死んだ、なんて。
「千代ばあさんは...病気で亡くなった」
「病気?」
「ああ。三週間前だ」
男が俯いた。
「そうですか...やっぱり」
「墓は、神社の裏にある」
「案内してもらえますか」
俺は頷いた。
二人で神社の裏手に回る。
そこには、俺が作った簡素な墓があった。
「これが...」
男が墓の前に跪いた。
「婆ちゃん、会いに来たよ」
男の名前は佐々木悠人。
25歳で、フリーのカメラマンだという。
千代ばあさんの娘、つまり悠人の母親は10年前に亡くなった。
それ以来、千代ばあさんとは疎遠になっていたらしい。
「最後に会ったのは、15年くらい前かな」
悠人が言う。
「俺が小学生の時。夏休みに、この村に遊びに来たんだ」
「その時は、村に人がいたのか?」
「いや、もう誰もいなかった。その時から婆ちゃんは一人きりだった」
悠人が遠い目をする。
「でも、婆ちゃんは優しかった。神社を案内してくれて、色々な話をしてくれた」
「お社の話も?」
「ああ。『あれには近づくな』って」
悠人が俺を見る。
「でも、理由は教えてくれなかった」
俺は黙っていた。
「あんた、本当に番人なのか?」
「...ああ」
「婆ちゃんから、役目を受け継いだのか?」
「いや」
俺は首を振った。
「勝手に、なった」
「勝手に?」
俺は悠人に、すべてを話した。
取材で来たこと。
千代ばあさんの代わりに経を唱えたこと。
翌朝、千代ばあさんが死んでいたこと。
そして、村から出られなくなったこと。
悠人は黙って聞いていた。
「信じられないだろうが...」
「信じる」
悠人が遮った。
「婆ちゃんから、少しだけ聞いたことがある」
「何を?」
「番人の仕事は、呪いだって」
悠人が空を見上げた。
「一度なったら、逃げられない。死ぬまで続く。いや、死んでも続くかもしれないって」
「千代ばあさんが、そう言ったのか?」
「ああ。子供の俺には意味が分からなかったけど」
悠人が俺を見つめる。
「でも今なら分かる。あんたは、婆ちゃんの罠に嵌まったんだ」
「罠...」
「婆ちゃんは、次の番人を探していた。誰でもよかった。ただ、誰かが必要だった…」
悠人の声が震えている。
「そして、あんたが来た」
俺は何も言えなかった。
その通りだった。
千代ばあさんは、俺を待っていた。
いや、ヌシが俺を呼んだのかもしれない。
「ごめん」
悠人が頭を下げた。
「婆ちゃんの代わりに、謝る」
「いい。もう、どうでもいい。もうどうにもならないから」
俺は立ち上がった。
「それより、お前は今すぐここから出ろ」
「出る?」
「ああ。この村は危険だ。今なら、まだ出られるだろう」
「あんたは?」
「俺は...もう出られない」
悠人が俺を見つめた。
「なら、俺も残る」
「何を言って...」
「あんた一人に、こんな目に遭わせたくない」
「お前が残っても、何も変わらない」
「でも」
悠人が言う。
「一人より、二人の方がましだろ」
俺は悠人を睨んだ。
「お前、分かってないのか。ここに残ったら、お前も出られなくなる」
「それでもいい」
「馬鹿か」
「馬鹿でもいい」
悠人が笑った。
「婆ちゃんの代わりに、あんたを助けたいんだ」
その夜、俺は悠人にお社の番を見せた。
「これから、俺が経を唱える。何があっても、近づくな」
「分かった」
悠人は少し離れた場所に座った。
カメラを構えている。
「何してる」
「記録だよ。これ、すごい資料になるかもだし」
「馬鹿野郎」
俺は経文を開いた。
「ナムカシラバヤソワカ...」
唱え始める。
すぐに、音が始まった。
「ドンドンドン」
悠人が後ろで息を呑んでいる。
「ドンドンドンドン」
音が激しくなる。
そして、声が聞こえた。
「アタラシイ、ニンゲン」
ヌシだ。
「フタリ、ニナッタ」
悠人が「何だ、今の」と呟いていた。
「ウレシイ」
「サビシクナイ」
ヌシの声が、喜んでいる。
「フタリトモ、ズット、イッショ」
「ナムカシラバヤソワカ!」
俺は大声で経を唱えた。
ヌシを黙らせなければ。
悠人を怖がらせてはいけない。
しかし、ヌシは続けた。
「ニゲラレナイ」
「フタリトモ、ココニ、イル」
扉が開き始めた。
いつもより大きく。
隙間から、ヌシが顔を覗かせる。
目のない、白い顔。
口が裂けるように開いて、笑っている。
「ミエル、ミエル」
悠人が「うわ」と声を上げた。
「ニンゲン、オイシソウ」
ヌシの舌が伸びた。
長い、黒い舌。
それが、悠人の方に伸びていく。
「ナムカシラバヤソワカナムカシラバヤソワカ!」
俺は必死で唱えた。
舌が止まった。
そして、ゆっくりと引っ込んでいく。
「マタ、コンドネ」
ヌシが囁いて、お社の中に消えた。
扉が閉まった。
音が止んだ。
俺は振り返った。
悠人が震えている。
「大丈夫か」
「あ、ああ...」
「見たか。これが、番人の仕事だ」
「あれが...封じられているもの」
「ああ。ヌシだ」
俺は立ち上がった。
「だから言っただろう。危険だって」
「でも...」
悠人が俺を見る。
「あんた、毎晩あれと対峙してるのか」
「そうだ」
「一人で」
「そうだ」
悠人が立ち上がった。
「なら、やっぱり俺も残る」
「まだ言うか」
「あんた一人に、あんなことさせられない」
悠人が俺の肩を掴んだ。
「俺にも、何かできることがあるはずだ」
「ない」
「でも」
「お前が残っても、結局お前も番人になるだけだ」
俺は悠人を突き放した。
「明日、村を出ろ。今ならまだ間に合う」
社務所に戻ると、悠人は黙り込んでいた。
俺は千代ばあさんが残した記録を見せた。
「これを読め」
悠人はページをめくっていった。
そして、最後の千代ばあさんのメッセージを読んだ。
「婆ちゃん...」
悠人の目に涙が浮かんでいた。
「婆ちゃんも、苦しんでたんだな」
「ああ」
「一人で、何十年も」
悠人が顔を覆った。
「俺、何もしてあげられなかった」
「仕方ない。お前は子供だったから」
「でも...」
悠人が俺を見た。
「だから今、あんたを助けたいんだ」
「助からない」
「それでも」
翌朝、俺は悠人を村の出口まで連れて行った。
「ここから出ろ」
「でも!」
「いいから」
俺は悠人を押した。
悠人は境界線を越えた。
俺が越えられない、見えない壁。
でも、悠人は越えられた。
「ほら、出られただろう」
「あんたは?」
「俺は無理だ。番人だから」
悠人が境界線の向こうから、俺を見つめている。
「本当に、いいのか」
「いい。早く行け」
「でも...」
その時だった。
悠人の表情が変わった。
「あれ...?」
「どうした」
「戻れない」
「え?」
悠人が村に戻ろうと境界線を越えようとした。
しかし、何かに阻まれている。
「なんで...さっきは越えられたのに」
俺は理解した。
結界は、片方向にしか機能しない。
出ることはできる。
でも、もう村にも戻れない。
「畜生...」
悠人が境界線を叩いた。
「じゃあ、あんたと話すこともできないのか」
「そうだ。だから早く行け」
「嫌だ」
悠人が座り込んだ。
「ここにいる」
「馬鹿か。村には戻れないんだぞ」
「でも、ここならあんたが見える」
「意味ない」
「意味ある」
悠人が笑った。
「一人より、ましだろ」
俺は何も言えなかった。
悠人は、境界線の向こうでテントを張った。
そして、そこに住み始めた。
毎日、境界線越しに俺と話をする。
食料を投げ渡してくれることもあった。
「これ、食え」
缶詰やレトルト食品が、境界線を越えて飛んでくる。
「ありがとう」
「礼なんていい」
夜になると、悠人は俺がお社の番をする姿を、遠くから見守っていた。
カメラで記録している。
「何のために撮ってるんだ」
「いつか、これを世に出す」
「出せるわけないだろう」
「出せるさ。いつか、あんたが解放された時に」
「それはない」
「分からないさ、諦めるまでは」
悠人が笑う。
一週間が経った。
悠人は毎日、境界線の外で過ごしている。
時々、山を降りて食料を調達してくるらしい。
そして戻ってくる。
「また来たのか」
「当たり前だろ」
「もう、来なくていい」
「来る」
悠人は頑固だった。
そして、ある夜のことだった。
俺がお社の番をしていると、ヌシが話しかけてきた。
「ソトノ、ニンゲン」
「マダ、イルノ」
「...ああ」
「ナゼ」
「知らない」
「オマエノ、トモダチ」
俺は答えなかった。
友達、か。
そうかもしれない。
「トモダチ、イイネ」
ヌシが囁いた。
「ワタシニモ、ムカシ、イタ」
「友達が?」
「ウン」
ヌシの声が、寂しそうだった。
「デモ、ミンナ、イナクナッタ」
「村人のことか」
「チガウ」
ヌシが続ける。
「モット、ムカシ、ヤマニ、スンデイタ、トキ…」
「ナカマガ、タクサン、イタ。タノシカッタ」
「デモ、ニンゲンガ、キタ。ヤマヲ、キッテ、コワシタ」
「ナカマハ、ニゲタ、ワタシダケ、ノコッタ」
ヌシの声が震えている。
「ソシテ、トジコメラレタ」
「サンビャクネン…ズット、ヒトリ」
俺は、初めてヌシに同情した。
三百年、一人。
それは、想像を絶する孤独だ。
「ダカラ、バンニンガ、ウレシイ」
「ハナシアイテガ、イル。サビシクナイ」
ヌシが囁いた。
「アリガトウ、キテクレテ」
俺は複雑な気持ちだった。
ヌシは、化け物だ。
村人を消した、恐ろしい存在だ。
でも、同時に。
孤独に苦しんでいる、一人の存在でもあった。
「ナムカシラバヤソワカ...」
俺は経を唱え続けた。
夜明けが来た。
悠人がテントから出てきた。
「おはよう」
「おはよう」
「今日も、無事だったな」
「ああ」
俺は悠人に、ヌシの話を聞かせた。
悠人は黙って聞いていた。
「そっか...ヌシも、孤独だったんだな」
「ああ」
「それで、番人を求めている」
「そうだ」
悠人が考え込んだ。
「なあ、もしかして」
「何だ」
「ヌシを、解放してあげることはできないのか」
「解放?」
「ああ。封印を解いて、自由にしてあげる」
俺は首を振った。
「無理だ。解放したら、また村人みたいに...」
「でも、ヌシが求めているのは自由じゃないか」
「それでも、危険すぎる」
「そうか...」
悠人が俯いた。
しかし、その言葉は俺の心に残った。
ヌシを、解放する。
それは可能なのだろうか。
そして、もしそうしたら。
俺は、自由になれるのだろうか。
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第3話 了




