第2話 招待
第2話
ここに来てから三週間が経った。
俺はもう、この生活に慣れていた。
朝起きて、神社の境内を掃除する。
お社の周りは特に念入りに。注連縄が緩んでいないか、毎日確認する。
昼間は社務所で過ごす。
千代ばあさんが残していた食料で何とか生き延びている。
米、味噌、漬物。
質素だが、食べられるだけましだ。
そして夜になると、お社の前に座る。
経文を開いて、唱え始める。
「ナムカシラバヤソワカナムカシラバヤソワカ...」
十分もすれば、あの音が始まる。
「ドンドンドン」
もう怖くない。
いや、嘘だ。正直に言うととても怖い。
毎晩ずっと怖い。
でも、もう慣れた。
恐怖と共に生きることに、慣れてしまった。
経を唱え続ければ、それは出てこない。
扉は開かない。
それが俺の日常になっていた。
ある日の午後、俺は社務所を整理していた。
千代ばあさんの持ち物を片付けているうちに、床板の一部が浮いているのに気づいた。
引っ張ると、板が外れて小さな空間がでてきた。
中に、古びた木箱が入っている。
俺は箱を取り出した。
蓋を開けると、中には古い書類が詰まっていた。
和紙に筆で書かれた文字。
江戸時代か、それより古いかもしれない。
一枚ずつ読んでいくと、それは代々の番人が残した記録だった。
『天保五年 二月
父より役目を受け継ぐ。お社の番人は我が家の宿命なり。
毎夜、経を唱えねばならぬ。これを怠れば、封じられしものが目覚める。
村の者は皆知りながら、誰も我が苦しみを理解せず』
『明治十二年 八月
今年で番人となりて三十年。
お社の音、年々激しくなる如し。
封印、弱まりつつあるのか。
神職に問えども、誰も答えを知らず』
『大正七年 十月
息子に役目を譲る時が来た。
息子は泣いて嫌がったが、他に道はない。
番人の血を引く者は、この運命から逃れられぬ。
それが我が一族の呪いなり』
記録は何代にも渡って続いていた。
みんな同じことを書いている。
苦しみ、恐怖、そして諦め。
俺は次の書類に目を通した。
『昭和三十年 三月
村人の様子がおかしい。
父が倒れて以来、お社の前に誰も近づこうとしない。
わたしが番人を継ぐと告げても、誰も喜ばず。
むしろ、恐怖の目で見る。
何かが起きる予感がする』
これは千代ばあさんの筆跡だった。
そして次のページ。
『昭和三十年 四月
村人が消えた。
一夜にして、誰もいなくなった。
朝、目を覚ますと村は静まり返っていた。
戸は開いたまま。朝食が半分残ったまま。
まるで、みな突然消えたかのよう。
何が起きたのか。
昨夜、父が倒れた。
経を唱える者がいなかった。
たった一晩、お社の番がいなかっただけで。
これは、わたしの罪だ』
俺は息を呑んだ。
一晩だけ。
たった一晩、経を唱えなかっただけで、村人全員が消えた。
次のページには、村の見取り図が描かれていた。
そこには印がついている。
家々に番号が振られていた。
1、2、3...
数字は神社から近い家から始まり、だんだんと広がっていた。
何かが、神社から広がっていったのだ。
村人を、一軒ずつ消して。
俺はさらにページをめくった。
『お社に封じられているもの
村に伝わる言い伝えによれば、かつてこの地には『ヌシ』と呼ばれる存在がいた。
山の神とも、妖怪とも言われる。
村人が森を切り開いた時、ヌシは怒り、村を襲った。
村人は神職を呼び、ヌシをお社に封じた。
それが三百年前のこと。
以来、我が一族が番人としてお社を守ってきた。
しかし、封印は完全ではない。
毎夜、経を唱えて封じ直さねばならぬ。
もし一晩でも怠れば...』
文章はそこで途切れていた。
俺は箱の底を探った。
すると、もう一枚の紙が出てきた。
新しい紙だ。
状態的に千代ばあさんが最近書いたものだろう。
『もし誰かがこれを読んでいるなら、
あなたは次の番人になったのでしょう。
私と同じように。
逃げられません。
村の境界には結界が張られています。
番人がいる限り、その結界は消えません。
つまり、あなたが生きている限り、あなたは出られない。
死んでも、出られないかもしれません。
私の父がそうだったように。
ヌシは、番人の魂をも縛るのです。
諦めなさい。
これがあなたの運命です。
そして、いつか新しい誰かが来るでしょう。
その時、あなたは私と同じことをするでしょう。
『今夜は泊まっていきなさい』と。
それが、番人の役目なのです』
俺は紙を落とした。
手が震えていた。
千代ばあさんは知っていた。
俺が番人になることを。
いや、誰が来ても同じだった。
村を訪れた者は、次の番人になる。
それが、この呪いの仕組みだった。
俺は立ち上がった。
本当に出られないのか。
もう一度試してみよう。
村の外れまで走った。
しかし、やはり同じだった。
道が繋がっていない。
どこを歩いても、神社に戻ってくる。
結界。
目に見えない壁が、俺を閉じ込めている。
俺は神社に戻った。
お社を見つめた。
あの中に、ヌシがいる。
三百年前から封じられている、何か。
村人を一夜で消した、何か。
そして俺は、それを封じ続けなければならない。
一生。
いや、死んでも。
また夜が来た。
俺はいつものようにお社の前に座った。
しかし、今夜は何かが違った。
経を唱え始めると、すぐに音が始まった。
「ドンドンドンドン」
いつもより激しい。
「ナムカシラバヤソワカ...」
経を唱え続ける。
しかし、音は止まらない。
「ギギギ...」
扉が開き始めた。
いつもより大きく。
隙間から、あの長い指が這い出してくる。
「ナムカシラバヤソワカナムカシラバヤソワカ!」
必死で唱える。
しかし、指は止まらない。
腕が出てくる。
肩が出てくる。
そして...。
頭が見えた。
人間ではない。
長い黒髪。
白い顔。
しかし、目がない。
目があるべき場所に、黒い穴があるだけ。
口が開いた。
中には、鋭い歯が並んでいる。
それが、俺を見つめた。
いや、目がないのに、確実に俺を見ている。
「ナムカシラバヤソワカナムカシラバヤソワカ!」
声が裏返っている。
それがゆっくりと笑った。
「ミツケタ」
声が聞こえた。
低く、擦れた声。
「アタラシイ、バンニン」
「ナムカシラバヤソワカ!」
俺は立ち上がりそうになった。
しかし、座ったまま経を唱え続けた。
逃げてはいけない。
経を唱え続けなければ。
「ズット、イッショ」
それが囁いた。
「ニゲラレナイ」
そして、ゆっくりとお社の中に戻っていった。
扉が閉まった。
音が止んだ。
俺は震えていた。
今の、本当にヌシだったのか。
あの声。
あれは、俺に話しかけてきた。
今まで、ただ音を立てるだけだった。
でも今夜は違った。
言葉を発した。
俺を認識していた。
「新しい番人」だと。
そして「ずっと一緒…逃げられない」と。
俺は夜明けまで経を唱え続けた。
しかし、心は落ち着かなかった。
ヌシは、俺のことを知っている。
そして、俺がここにいることを喜んでいる。
まるで...。
まるで、俺が来るのを待っていたかのように。
翌朝、俺は千代ばあさんの日記を読み返した。
最後のページに、昨日読んだときには気づかなかった文章があった。
『ヌシは孤独を嫌う。
だから番人を求める。
封じられていても、番人がいれば、話し相手ができる。
毎晩、経を唱える声を聞くことができる。
それがヌシにとっての、唯一の楽しみ。
だから番人は、決して一人では終わらない。
必ず、次が来る。ヌシが、呼ぶから』
俺は日記を閉じた。
ヌシは、番人を求めている。
孤独を嫌うから。
だから千代ばあさんは、俺を呼んだのではない。
ヌシが、俺を呼んだのだ。
取材の依頼。
あれは本当に、普通の依頼だったのだろうか。
もしかして...。
俺は自分のスマホを見た。
圏外だが、過去のメールは見られる。
取材依頼のメールを開いた。
『柿ノ里に最後の番人という代々神社を守っている方がいます。取材しませんか』
送信者は...。
フリーランスの編集者だった。
名前も、メールアドレスも、確かに実在する人物だった。
でも、本当にその人が送ったのだろうか。
俺は不安になった。
もしかして、あのメール自体が...。
いや、考えすぎだ。
でも。
でも、ヌシには力がある。
村人を一夜で消すほどの力が。
人を呼び寄せることくらい、できるのかもしれない。
その夜も、俺はお社の前に座った。
経を唱え始める。
「ナムカシラバヤソワカ...」
すぐに、声が聞こえた。
「キョウモ、キテクレタ」
ヌシの声だ。
「アリガトウ」
俺は経を唱え続けた。
「サビシカッタ」
ヌシが続ける。
「チヨガ、シンデカラ、ダレモ、コナカッタ」
千代ばあさんが死んでから?
いや、何かがおかしい。
千代ばあさんは俺と会った後に死んだ。
いや、違う。
千代ばあさんは、俺が来るずっと前に死んでいたのかもしれない。
「デモ、キミガ、キテクレタ」
「ウレシイ」
「ズット、イッショニ、イヨウ」
俺は唇を噛んだ。
経を唱え続ける。
ヌシの声は、優しかった。
まるで、友達に話しかけるように。
でも、それが余計に恐ろしかった。
このヌシは、俺を友達だと思っている。
毎晩経を唱える、話し相手だと。
そして俺は、死ぬまでここにいる。
いや、死んでも。
ずっと、ヌシの話し相手。
夜明けが来た。
俺は社務所に戻った。
窓から外を見ると、秋の空が広がっていた。
綺麗な青空。
でも、俺はその下を歩けない。
この村に、閉じ込められている。
ヌシと共に。
ふと、聞き慣れない音が聞こえた。
遠くから。
車の音?
いや、まさか。
この村に、誰かが来るはずがない。
でも、音は近づいてくる。
確実に。
俺は外に出た。
そして静かに村の入り口の方を見つめた。
そして、見えた。
一人の人間が、村に入ってくるのが。
それは若い男だった。
リュックを背負って、カメラを持っている。
観光客か。
いや、俺のような取材をしに来た人間か。
男が俺を見つけた。
「あ、すみません。この辺りに、御鎮神社ってありますか?」
俺は言葉が出なかった。
来た。
新しい、人間が。
「あの...?」
男が不思議そうに俺を見る。
俺は、千代ばあさんの言葉を思い出した。
『今夜は泊まっていきなさい』
それが、番人の役目。
次の番人を、見つけること。
でも。
でも、俺はこの男を巻き込みたくない。
同じ目に遭わせたくない。
「ここは...危険です」
俺は言った。
「帰ってください」
「え?」
「今すぐ、この村から出てください」
男が困惑している。
「でも、取材で...」
「取材なんてしてる場合じゃない。今すぐ帰るんだ」
俺は男の肩を掴んだ。
「お願いだ。ここから出て」
「ちょっと、何なんですか」
男が俺を振り払おうとした。
その時だった。
お社の方から、音が聞こえた。
「ドン」
まだ昼間なのに。
「ドンドンドン」
ヌシが、反応している。
新しい人間に。
「な、何の音...?」
男が神社を見つめる。
「行かないで」
俺が止めようとしたが、男は神社に向かって歩き始めた。
「ちょっと、何あれ」
男がお社を見つめている。
「ドンドンドンドン」
音が激しくなる。
「戻ってこい!」
俺が叫んだ。
しかし、男は聞いていない。
お社に近づいていく。
まるで、引き寄せられるように。
「ダメだ!」
俺は男に追いついて、引き倒した。
「何すんだよ!」
「触るな!あのお社に触るな!」
俺が叫んだ。
男が俺を見つめる。
「あんた...何者なんだ?」
「俺は...」
何と答えればいいのか。
「俺は、ここの番人だ」
男の表情が変わった。
「番人?まさか...千代さんは?」
「違う。千代ばあさんは死んだ。俺が、代わりに」
「代わりって...」
男が立ち上がる。
「俺、千代さんの孫なんだ」
俺は凍りついた。
「孫...?」
「ああ。ずっと連絡が取れなくて、心配で来たんだ」
男が俺を見つめる。
「祖母に、何があったんですか?」
第2話 了




