58、白露(前編)――海
ちょっと息抜き回かな?
それではどうぞ〜。
回廊の先に純白の帯が垂れ下がっている。それは近づくほどに幅を広げ、崖に沿って右に曲がると一気に視界を遮った。滝だ。それもとんでもない大きさの。細かい飛沫を全身に浴びながら、雀は瀑布の迫力に圧倒されてその場に立ち尽くした。回廊は視界にめいっぱい広がる滝の裏側へと伸びていた。
つばさは体をこちらに向け、遠くにいるかのような大声で、
「この先にぃ、白露の仕事場があるからぁ、ちゃんとついてくるんだよぉ!」
「わかりましたぁ!」
滝の裏に入ると左側の景色は瀑布に完全に遮られ、表から見れば真っ白に思えたそれはアクアマリンに輝いていた。
歩くうち、鼓膜を揺るがす轟音がすうっと引いて静かになっていった。水族館のような青にたくさんの魚影が映る。やけに大きく、イルカのようだ。テレビで聴いたことのあるクジラの鳴き声のようなものも聞こえた気がする。
「あれ? 誰かが天地視書を開いているね。海が逃げ出しているじゃないか」
つばさはぼやき、矢庭にずぼっと右腕を滝に突き入れた。勢いよく水が腕に絡みつき、見る間に滝の中へ取り込まれていく。雀がその場に根が生えたように突っ立っていると、つばさは半身を滝に持っていかれながらも、雀に向かって反対の手を差し伸べた。
雀はごくりと喉仏を上下させ、思いきってその手を捕まえた。目を閉じる間もなく水が迫って、気づけば潮風を浴びながら広く澄んだ青を見ていた。
たっぷりと息を吸い込む。目に入るすべてが青く輝いている。どこまでも、どこまでも続くコバルトブルー。
「海だ……!」
緑はない。ここには空と海しかない。水平線を境にして、ちぎれた綿雲が海面と空と同じ動きで流れ、まるで天空の中に立っているかのようだ。昔写真で見た外国のどこかの湖に似ている。いつか行ってみたいと憧れた場所だ。
海水の高さは足首を隠す程度で、ぬるくやわらかい感触に心が躍った。人差し指を水に濡らし、ちょっぴり舐めてみる。ちゃんとしょっぱくて笑みがこぼれた。
風が低音を鳴らしている。違う。耳をそばだてて左を向けば、もっとずっと遠くのほうで、大量の水が下に流れ落ちているようだった。
「つばささん、ここは滝の上ですか? 滝の上が海なんですか?」
返事がない。振り返れば、つばさは少し離れた所を歩いている。その先には熱帯の島にあるような木造の高床式住居が、海に囲まれて一軒だけ建っていた。
玄関ポーチに繋がる木の階段の真ん中に、若い男が二人仲よく並んで腰かけている。
「おかえりぃ、つばさ。連れてきたね」
声をかけたほうは、黒髪ショートだが前だけ白髪で、四角い白縁眼鏡をかけている。身に着けている着流しは前身頃が白、後ろ身頃は灰色で、大きく胸元を広げ、黄色の帯で色を締める。中は黒のタンクトップとパンツでモノクロを基調としながら、話し口調は抑揚に富み、カラフルな印象を受けた。
「やあやあ、雀くん、ハジメマシテ。白露の次候、鶺鴒鳴だよ。こっちは冬季の暦で、雉始雊。二人そろって〈なくなくコンビ〉。よろしくね」
隣の男もまた特徴的だった。赤い瞳の三百眼、緑の光沢を放つ黒髪と首に巻いた赤いストール、ゆるく着付けた深緑の着流し――なるほど、雄のキジの配色だ。
つばさがしっしっと手を振った。
「鶺鴒、雉、ちょっとそこどいて。これじゃ通れないよ」
「ありゃ? 歓迎の証としてイルカを見せてあげたのに、その感想はなし? あんまり好きじゃなかったのかな」
鶺鴒が愛想良く雀の顔を覗き込むと、雉が裸足のつま先で鶺鴒の足をつついた。
「だから言ったんだ。イルカよりクジラのほうが迫力あるって」
「そうかあ、雀くんはクジラ派かあ」
鶺鴒は一人納得すると、雉を押しつぶして片側を空けた。「どうぞー」
ギッギッと段を軋ませて戸の前に立ち、潮にかすれた木戸を開けると、少し寂しい秋の風が夏の顔をして吹き抜けていった。熱を含んだ潮の香り、太陽を浴びた木の香り。そこにごく自然に混じっているのは、秋の花としておなじみの金木犀だ。リビング中ほどの出窓に香りの主が飾られていた。
部屋を仕切る壁はなく、細い柱が部屋の随所に立ち、空間を広く見せている。隅には今は使われていない小さな暖炉が備え付けられ、おでこに光を感じて上を見上げれば、つっかえ棒で開かれた天窓もあった。
「白露さま、ただいま戻りました」
調味料の瓶でにぎやかなカウンターキッチンを通り過ぎると、デッキと海の眺めを楽しむ特等席に白いソファが設置され、そこに小ぶりな頭がふたつ並んで見えた。
つばさはソファの前に回り込み、雀を二人の前に押し出した。
「休憩中に失礼します。雀始巣の候補者を連れてきましたよ」
次回は10月7日(土)更新です。
まずは一歩踏み出してみる。それが大事!




