5、雨水(前編)――ワカサギパーティー
雨水のお部屋でご飯しながらお勉強です。
仕事中なんですけどねえ。酒盛りしてますねえ。
再び布の迷路に入り、屋敷を奥へ奥へと進む。鴬張りがキュッキュッと鳴る。雨水の部屋へ近づくにつれ、肌に触れる空気が早朝の森林のように澄んできた。
布が途切れ、何も遮るもののない廊下の先、木目の洒落た引き戸の前に三人で立つ。
隙間からうまそうなにおいが漏れ出している。つられて雀が鼻をひくひくさせた。しかし東風はなかなか戸を開こうとしない。
「わたしも今日はもう店じまいだ。正直、いつもいつもこんな状態でよくやっていると思う……」
「立春さまはお前をとても評価しておられる」
「わかっている。あのお方は暦の母のような存在で、わたしは言わば長男だ。だからこそ、きちんと仕事をこなして皆が後々困らないようにしたいのだが……。それでは面白くないのだと立春さまはおっしゃる。わたしたちが間違えたり、抜けがあったほうが地上の生命も活気づくのだと。それはわかる、わかるのだが、こればっかりは……」
玄鳥至は東風の肩を優しく叩いた。
「お前はいつもよくやっている。たまにはいいじゃないか、羽目を外したって。今日がその日だ、雀のためにも一緒に盛り上げてやってくれ」
東風は観念したように首を折り、どうにか取っ手に手をかけた。玄鳥至は後ろに下がり、雀の耳もとに顔を寄せた。
「東風は酒癖が悪いんだ」
「雨水さま、立春さま、失礼致します。東風解凍です」
スパーン! 目の前の引き戸が消えて、かわりにポニーテールが宙を舞う。「うぐっ」東風が前のめりになってよろめいた。
「はるちゃん来たー! 立春さま、はるちゃん来ましたよー!」
「なんだい、寂しくなったのかい? ほらね、だから最初から素直に来れば良かったのさ。まったく意地っ張りなんだから! 魚子、早くひっぱっておいで」
十六七くらいの少女――魚上氷を首にぶら下げたまま、東風は戸口で踏ん張った。
「望んで来たわけではありません! 立春さま、あなたにお客さまですよ」
玄鳥至が東風の後ろから顔を出すと、部屋の者たちはわっと沸き立った。それを片手で制し、玄鳥至は背後に隠れる雀の肩を掴んで前に引きずり出した。
「立春さま、ご挨拶申し上げます。この者は雀始巣の候補者です。今日から来年の節分まで暦を学んだのち、正式な暦として任命を受けます」
「ああ! そうそう、そうだった! 春さまからご連絡をいただいていたんだよ。ほら、早く入っておいで」
立春はふくよかな手を割烹着でふきふき出迎えた。幸せを詰め込んだような昭和のお母さんだ。これが割烹着をエプロンに替えると平成になるのだから、お母さんとは不思議なものだ。
室内はオリーブ色のレースカーテンがやわらかく日差しを取り込んで温かい。フローリングの中央にはオーク材のダイニングテーブル、その上に視覚から嗅覚から食欲を刺激される料理の数々が乗る。
立春の後方に見えるのは、まず箸と皿を持ったままアラベスクをきめている黄鶯睍睆、顔中米粒だらけの草木萌動、その世話を焼く土脉潤起。
皆、椅子を後ろへ押しやっての立ち食い状態だ。だがその中でただ一人、マナーを手放さなかった者がいる。銀髪を顎の高さで几帳面に切りそろえ、姿勢良く椅子に腰かけるこの青年を、二十四節気・雨水という。
雨水はテーブルの端で静かにワカサギを咀嚼していたが、丁寧な所作で箸を置いた。声は発していないのに、皆の視線が彼に集まった。
雨水が小首をかしげると、銀髪の先についた無数の小鈴がシャラシャラと鳴った。品の良い唇からなめらかなテノールがすべり出る。
「しかし候補というのは妙だね。つばきはわけを知っているのかい」
「残念ながら、俺も知らないんですよ」
雨水は透き通りそうなほど色の白い指先で横髪をすくって片耳にかけ、切れ長で涼しげな瞳を立春に向けた。
「先に自己紹介をしても?」
「あいよ」
立春は新たに増えた三人分の皿にせっせと料理を盛っている。ワカサギの天ぷらやお釜で炊いたほかほかの白米、筍の煮物、春菊のおひたし、漬物、その他いろいろのおかずをあふれんばかりに盛りつけた。
雨水は姿勢を崩さないまま音もなく立ちあがった。
「暦の世界へようこそ、雀くん。歓迎するよ。僕は雨水【うすい】、二十四節気の一人で、おおよそ二月十九日から三月五日頃を受け持っている。それから――」
雨水は自分の部下を一人ずつ手のひらで示した。
「まずは初候、土脉潤起【つちのしょううるおいおこる】」
カワウソ顔の少年、土脉が礼儀正しく一礼した。雨水を真似たおかっぱ頭だが、少々くせっ毛なせいでボブのほうが近い。
「次候、霞始靆【かすみはじめてたなびく】」
「はい」
奥の窓から、背が高く痩せぎすの男が空の皿を持って部屋に上がり込んできた。目じりのしわが二本ずつ深く刻まれ、長いまつげのようである。ライトグレーのスーツに肉球柄のネクタイが彼の趣味を主張し、それを裏付けるように外から複数の猫の鳴き声がした。
「僕のことは気軽に〈霞〉と呼んでくださいね」
霞は包み込むように優しい声でそう言うと、皿に生のワカサギを盛って庭へと戻り、猫たちの大歓声に沈んでいった。
「――今は、だな」
玄鳥至のつぶやきを耳ざとく拾った雀が首をかしげたが、説明する前に次が来た。
「オレ、末候の草木萌動【そうもくめばえいずる】! よろしく、チュンチュン!」
萌黄色の髪を重力に逆らわせた少年が、待ってましたとばかりに勢いよく前へと飛び出した。少しパサついた頬を飯でパンパンに膨らまし、口を開くたびに米が飛び出す。土脉が露骨にいやな顔をした。
「無作法ですよ、草木」
「変に堅苦しくないほうが、チュンチュンだって気が楽だろうがよ」
「そのチュンチュンっていうのは、まさか雀くんのことじゃないでしょうね」
「他に誰がいるんだよ。つばきか?」
「ツバメはチュンチュンなんて鳴かない」
玄鳥至はむっとした。
「うちの節気のことは?」
雨水に問われ、雀は首を振りながら小さくなった。雨水は歌うように答えを与える。
「春、天から降る雪が雨になり、氷が解けて水になる。土をやわらかくし、早朝の山々に霞がかかり、草木が芽吹く。この季節は朝が特に美しい」
雀はつられるようにぽつりと言った。
「春はあけぼの……」
「枕草子だね。本は好きかい?」
雀はしまったという顔をして、気まずそうに目をそらした。
「正直、あんまり。ただ、有名だから……。すみません、無知で」
「何を謝る? 世界は無知であふれているんだよ。皆、自分にとって興味のあることしか調べようと思わないからね」
目を三日月にして雨水は言う。
「無知は良いことだ。第一に、説明する側は自分の知識の程度を再認識できる。そこで新たな疑問が出てくるかもしれない。今度はそれを調べ、またひとつ知識が増えるだろう。第二に、自分のよく知ることを誰かに話すのはうれしいものだ。第三に、無知の者は相手に今言ったような機会を与え、自分も新たな知識を手に入れることができる。無知は両者にとってプラスになるんだよ。そう思わない者も時にはいるだろうが、それはもしかしたら……お腹を空かせているのかもしれないね」
「空腹がいちばん良くないからねえ」
立春が深く同意した。
「雀くん、君は僕の言葉から枕草子を導き出したが、それは君がきちんと周囲を見聞きしているという証なんだ。目についたもの、記憶にある文章、絵、写真……。そこから季節を感じて自らの周りに見つけられるなら、それは君がぼんやり生きているわけではないということだ。ひどいのは何にも気づかないこと。無関心。……頭にも心にも残らないのはさみしいね」
はい、と返事した雀の声はかすれていた。
立春が満足げに菜箸を置いた。見栄えも気にしながら盛りつけられた三枚のワンプレートがテーブルに並べられている。玄鳥至と雀の腹が同時に鳴った。立春の破顔大笑に雀は耳まで染めてうつむいた。
指についた飯粒を吸いながら立春は後ろに追いやっていた椅子を引き寄せ、声まじりの深い息と共に腰を下ろした。
「うちの節気の話は食べながらしようかね。つばきは日本酒が好きだったっけ」
「好きですが、今は緑茶をいただきます」
「はいよ」
次に東風に向かって、
「あんたはビールだね」
「いえ、わたしもお茶を――」
東風が言い切らないうちに黄鶯が缶ビールを差し出した。東風は苦い顔でよく冷えたそれを受け取った。
いたずら心が湧いたらしい、立春は雀にもビールを見せた。
「うれしいねえ。ようやく雀始巣の席が埋まるんだね。お祝いに、あんたもお酒にしとこうかね」
「まさか! 未成年ですから……」
あわてた雀の言葉に皆が吹き出した。
「未成年! そりゃ見た目はそうだろうけどさ。あたしたちに年齢なんてあってないようなもんだろう。五、六歳に見える子だって酒をたしなむんだから」
雀があんぐり口を開けて見上げてきたので、玄鳥至は可笑しさを堪えながら、オレンジジュースを頼んでやった。
後編は明日公開予定です。よろしくお願いいたします。




