4、立春(後編)――立春の部屋
立春後編です。
雀くんと一緒に暦のお勉強をしましょう。
視界が開けて、広大な日本庭園に面した縁側に出た。どこから見ても眺望を損なわないよう綿密に計算して植えられた松や楓。花は梅、桃、杏の木々が調和して香り、それらの花びらに彩られた池や、咲きそろえば見事な桜林もある。遠方には山々が広く裾野を広げ、霞がかかったようなうらうらとした空気が、夢現へと誘うように漂っている。庭には細い散策路が伸びていて、そこを茶トラの猫が一匹、悠々と横切っていった。
風光る。そばの白梅や紅梅の甘い香りが鼻をくすぐる。ぽかぽかとまどろむような日差しが降り注ぎ、どこからかウグイスのたどたどしい鳴き声がした。
わあ、と急に雀がうれしそうにした。
「梅の木に止まっているの、メジロですよね」
指し示すほうを見やれば、丈は低いが枝振りの良い紅梅の木があって、その枝のあいだを鮮やかな黄緑色の小鳥がぴょんぴょん飛び跳ねている。
「ねえつばきさん、梅にウグイスはよく縁起物として言われるけど、それは滅多にない取り合わせだからなんですって。だからあれはウグイスじゃなくてメジロなんです。実際のウグイスはもっと地味な色をしていて……」
「よく知っているじゃないか。どこで学んだ?」
「え?」
雀ははたと考え込んだ。
「あれ、どこでだろう……?」
その様子に違和感を覚えたが、玄鳥至はひとまずそれを頭の隅に追いやって、ぼんやりしている雀の意識をこちらへ引き戻した。
「さて、そろそろ次に紹介する暦を説明するぞ。頭にたたき込めよ。――立春【りっしゅん】は一年で最初の二十四節気だ。二月四日から十七日頃までで、初候に東風解凍【はるかぜこおりをとく】、次候に黄鶯睍睆【こうおうけんかんす】、末候に魚上氷【うおこおりをいずる】がいる。春のはじまり。冬に眠っていた生命は再び活動を開始する」
雀は大あわてで布のショルダーバッグから暦入門書を引っ張り出し、最初のページを不器用な手つきでめくった。
「東西南北だと東が春を表すんですね。だから〈東風〉で〈はるかぜ〉って読むんですか?」
「〈こち〉とも言う。中国の五行思想からきているようだ。東は春、西は秋、南は夏、北は――」
「冬!」
答えてすぐに書へと目を戻し、
「あ、春一番! これはニュースで聞いたな。春になる合図のあったかい風のことですね」
そうして雀は開いたページの文を声に出して読み始めた。
「黄鶯睍睆……、〈黃鶯〉はウグイスで、〈睍睆〉は美しい姿や声のこと……。ウグイスの……はつおと? なんて読むのかな。はじめて鳴くこと。これ、二月なんですね。三月のイメージでした」
「〈初音〉、これは場所によるな。暖かい土地はそれだけ春の到来も早いし、寒い土地は遅い」
「お仕事では、そういうのも気をつけているんですか?」
「ああ。南のほうから順繰りに季節を動かしていくんだよ」
「だんだん春になっていくのを見るのは楽しそうですね。今日はこの辺、次はあっち……わくわくするだろうな」
「夏も、秋も、冬も。どの季節になっても移ろいゆく様は面白い。……が、やはり自分の季節がいちばんいいな。ツバメたちが生き生きと愛をはぐくみ、その子が巣立つのを見守るのは、何よりも満たされた気持ちになる」
「おれはスズメを見守るんだなあ」
雀は顔をほころばせ、次の文章を指でなぞった。
「立春の末候、魚上氷の方もつばきさんと同じような喜びを感じているんでしょうね。氷の下で息をひそめていた魚たちが、溶けてきた氷の割れ目から飛び出す――想像するだけで楽しい候ですね」
「いや、あいつは出てきた魚を食べることを楽しみにしている」
「え?」
再度屋内に入る。ひんやりとして、春の日に火照った体には心地よい。目の前には障子が左右にずらっと並ぶ長い廊下が一本、歪みなく伸びている。春の宮では珍しく布がない廊下で、迷うことがなさそうでも油断は禁物だ。なんのことはない、障子迷路にとってかわっただけなのである。
玄鳥至は先の見えない廊下へは足を踏み入れず、左手前の障子を開いた。
畳が香る六畳間には、四方を囲う真っ白な障子以外に何もない。次の障子を開ける――また同じ造りの部屋がある。右の障子を開け、お次は左、また左、右、中央、左、右、右、左――そんなことをさんざん繰り返すと、やがて雀は目を回し足もとがおぼつかなくなった。
しばらく進んでから、玄鳥至はある障子戸の前で立ち止まった。ばすん、背で雀を受け止めた。
「着いた。立春さまのお部屋だ。姿勢を正せよ」
うなずく雀の顔に血の気がない。仕方がないので酔いが治まるのを少し待ってやってから、玄鳥至は障子の向こうに声をかけた。
「失礼。玄鳥至です。立春さまはおられますか」
静寂。
「……あの、つばきさん、誰もいないんじゃ……?」
「入るぞ」
「えっ」
景気よく障子を開け放つ。
中は百畳もありそうな畳の大広間である。これまでの部屋同様ぐるりを障子で囲まれている。入り口から遠い所に、机や椅子や背の低い本棚を固めて置いた島があり、他には何も見あたらない。
「この広さがあって、どうして机や棚が一箇所にまとまっているか、わかるか」
玄鳥至が急に先生然として問うと、雀は戸惑ったように首を横に振った。
「じゃあ、ここに来るまでいくつもの部屋を通ったが、それらが障子と畳だけしかなかったのはなぜだと思う?」
雀は至極真面目な顔で答えた。
「城は敵に攻められた時のために、天守閣までの道を迷路にしていると聞きました」
「……その発想はなかった。意外と博識だな」
玄鳥至は中へと歩を進めながら、
「正解は、天地視書だからだ。障子がそうなんだ。今まで通った部屋の障子もすべて天地視書になる。見事なものだぞ、今日見せてもらえればよかったが……無理のようだな」
部屋の中ほどまで来ると、四つの大きな木の机――どれも料理本や製菓本が山積みされている――のひとつにワイシャツの背中が突っ伏している。
「東風」
呼べば中肉中背で三十代半ばの冴えない男がむくりと体を起こし、目の下に隈をつくった顔をこちらに向けた。
「つばきか。すまない、寝ていたらしい」
「気絶していたの間違いだろう」
男は眉間の下をつまんで揉みながら、
「悪いが、立春さまは今おられない。というか……見ればわかると思うが、わたし以外はいない」
「任期終了後の開放感がまるでないな。今日の食事会はここじゃないのか」
東風――東風解凍はおもむろにネクタイを直し始めた。
「雨水さまの所だよ。あそこは昨日までだっただろ。打ち上げとして、二チーム合同で一杯やろうって話になってな……。魚子が言い出したんだ、『起こしたワカサギを釣って天ぷらにしよう!』、それに立春さまがいつもの調子で乗っかって……。定められた任期が過ぎたとはいえ、実際はまだまだ手のかかる状況だ。それなのに真っ昼間から酒盛りなど……それも任期明けの雨水さまのところまで巻き込んで……いったい何を考えて……」
苛立ちをぶつけるように締め直したネクタイはさっきよりも曲がっていた。
玄鳥至は東風に事の次第を話して聞かせた。
「――というわけで、挨拶だけでも済ませたい。あわよくばワカサギパーティーにも混ぜてもらいたい。もうすぐ昼だからな」
東風は浮かない顔をしていたが、やがてあきらめたように席を立つと、
「ついて来い」
と、疲労が隠せていない足取りで二人を誘った。
「悪いな、東風。仕事をしたかったろうに」
いいんだと、東風は力なく頭を垂れた。
「どうせもう少しすれば、魚子か黃鶯に無理やり連行されるに決まってるんだ……」
次回は4月15日(土)更新予定です。
よろしくお願いします。




