16、春の夜の終わりに
春季ラスト。起承転結の【起】の終わり。
どうぞよろしくお願いします!
廊下は静まり返っていた。冬の名残の夜風が身に染みる。玄鳥至と雀は提灯明かりを頼りに布の廊下を進み、ほどなくして清明の部屋へと戻ってきた。
「つばきさん、ここは……」
「待っていろ」
部屋の明かりはつけなくていい。雀に提灯を持たせ、玄鳥至は棚から適当な巻物を一本引き抜いた。
「今日の締めくくりに、清明の天地視書を見せてやる」
暗がりにびくびくしていた雀は天地視書と聞くと、興味津々に首を伸ばした。
「もしかして、清明は巻物ですか? だからこの部屋にはこんなに巻物が多いんですか?」
「そうだ。うちは天地視書用に別の部屋を設けていないんだよ」
巻物の紐をほどいて床に転がし、二メートルほど開くと、何も書かれていない無地のそこに手をかざした。
「我は春季が二十四節気、清明が初候、玄鳥至也。我が望みしものを現せ。《天地視書》」
手のひらの下から光が迸り、景色が墨絵のように描かれる。
最初に現れたのは暗い浜辺であった。遠くの灯台が唯一の明かりに見えたが、よく見れば空一面にアラザンを散りばめたような星が瞬く。ひと際目立つのは一等星。オリオン座、おおいぬ座、こいぬ座――冬の大三角形が確認できる。
雀は巻物のそばに両手をつき食い入るように眺めていたが、やがて静かに口を開いた。
「今日、ずっと気になっていたんですけど……。皆さん年を取らないんですよね。どうして小さな子どもから五十代くらいの人までいるんだろう」
「暦として目を覚ます時、己の理想の姿を望むんだ。俺も『だいたい二十四五歳くらいの男』と望んだらこうなった」
「両性体の方も?」
「望んだ者もいればそうでない者もいる。葭は後者だな。女として生まれてはみたが、そのうち男のほうがよくなったそうだ。外見にしても、本人次第で変わることがある。太ったり痩せたり、髪色を変えてみたり。そこは人と同じだな」
「そっかあ」
「……お前は望んでその姿になったのではないのか?」
うーんと雀は首をひねった。
「目が覚めたらこうでした。ゲームのアバター設定みたいな何かも起こらなかったし、春さまにも何も言われませんでした。それともおれが気づかないうちに、全部通り過ぎちゃったんですかね」
そんな話は聞いたことがない。そう返そうとしたが、雀の真剣な瞳に射貫かれて飲み込んだ。
「つばきさんは、自分が暦になった日を憶えていますか」
「いいや。気づけばこの生活をしていたからな。人だって自分が生まれた日のことを憶えている奴はほとんどいないんじゃないか」
「たしかに……。じゃあ、おれは変じゃないんですね」
雀自身、変だと思っているのだ。記憶がないのに、ふとした瞬間に記憶があるような言動をすることを不審に思っている。それならば――。
「いや、お前は変だ」
「あっ……、そ、そうですか……」
冗談のつもりはない。玄鳥至は目をそらした雀にこちらを見るよう言った。
「たいがい自分が暦になったという自覚があるものなんだ。お前にはそれがないし、何より候補生として寄越されている。そんな者はいまだかつて見たことがない。雀、お前は何かがおかしい」
雀はぎこちなく笑って見せた。
「特別だっていう意味ならうれしいんですけど……そうでもなさそうですね」
「殊勝なことを言うんだな。特別だと思っておけばいいじゃないか」
「いやあ、なかなかそんなふうには……」
雀は顔を伏せ、弱々しい声を出した。
「ねえ、つばきさん。おれ、雀始巣になれますかね……?」
「それはお前の頑張り次第じゃないのか」
「で、ですよね、すみません……」
しょげたうなじを見て、玄鳥至はくくっと喉を鳴らした。
「――と言うのはただの意地悪だな。春分さまのおっしゃったように、お前は自然体でいればいい。五感を開けばたくさんのものが見えてくる。それに、俺たち暦に向き不向きなんてものがあるとは思えない。春さまのおっしゃった資質というものが何を指しているのか、俺にはわからん。ただひとつ、あくまで俺の持論だが――」
不思議なものだ。雀の純粋でまっすぐな瞳を見ていると、自分もそうなれるような気がしてくる。
「移り変わる時を愛することができる者。生と死を、自然の理を愛せる者。それが暦なのだと思う」
時は移ろいゆく。何ひとつ同じ形などありはしない。暦だって例外ではなく、交代することはあっても同じということはあり得ない。
――雀、お前はなぜ現れた。なんのために、消えたはずの雀始巣となる。
「はい……ふぁ、あ、すみません」
あくびを噛み殺すことに失敗し、雀は濡れた目をごしごしこすった。
「眠いな。俺も眠い。天地視書はもういいか」
「はい。ありがとうございました」
雀は目をとろんとさせて幸せそうな吐息をもらした。
「次は夏の宮ですね。楽しみだなあ」
「すぐには行かない。夏季に入ってからお邪魔することになるだろう。あそこは夏さまが……いや、これはまた今度にしておこう」
「そうなんですか……」
雀は、今度は堂々と大あくびした。
「くあ……」
玄鳥至は少年の頭をぽんぽんと叩き、生命輝く夜の海に手をかざした。天地視書は景色の残像を巻物に染みこませ、一足早く眠りについた。
「時間はある。部屋に帰ってもう休もう。明日も仕事があるからな」
巻物をもとの場所に戻して雀を見れば、正座のまま前のめりになって、額を床にくっつけている。猫の〈ごめん寝〉、急に電池切れを起こす子どもそのものだ。規則的に上下する背中を温めるように提灯明かりが揺れている。
難しいことをだらだら考えるのは性に合わない。とにかく今は、丸まる寝子を部屋のベッドに押し込む方法を考えなければ。
玄鳥至は腕を組み、「ああ、面倒だ」とつぶやいた。今日はもう一秒たりとも頭を使いたくないし、体力だっておんなじだ。横から雀の体に手を添える。転がすのがいいか、くすぐるのがいいか……。
「雀、今日の締めくくりに良いことを教えよう」
世の中そんなに甘くない。
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次回からは夏季に入ります。
5月6日(土)更新です。
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