29.初めての夜
春の日に津さんと出会って、『ひとならざるもの』の世界に飛び込むまで、どちらかというと、平凡で常識人で臆病だと自認していた。誘拐されるひとの押し込まれたトラックに飛び込んだり、自ら囮になることを申し出たり、半年程度で私はかなり変わったと思う。
変わっていないのは、最初に感じた、例え元の生活に戻れないとしても、幼い子どもの命を売り買いするのを見過ごすことはできないということくらいだった。
「私は危ういって茉莉さんに言われましたが、津さんも、無茶だと呆れてませんか?」
夕食後、お風呂に入って髪を乾かして、津さんの部屋で二人きりで過ごす。同じベッドではもう寝たのだし、私たちは恋人同士なのだから、遠慮することはない。
佳さんの部屋とは離れているし、物音も聞こえることはないだろう。佳さんが『聴覚』の能力を持っていることは知っているが、津さんと私の会話を盗み聞きしたり、面白がって探ったりするタイプではないと分かっているし、和己くんも寝ている時間なので、佳さんも静かに部屋で過ごしているだろう。
「無茶なのは困るし、心配もするけど、危険に晒されてるひとを見過ごせない蜜月さんの心の強さと美しさは、尊敬に値すると思うてるよ」
「怖いから、自分でもあまり無茶はしたくないんですけどね」
「教授と相対しても一歩も退かんで、おらんことにしてしまった蜜月さんは強い。さすが、俺の選んだひとや」
初めて教授が茉莉さんのお店に姿を現したときにも、空くんと陸くんの事件で捕えられた女性を引き取りに来たときにも、私は本体のいない『現身』など存在しないも同然だと、教授を無視し続けた。その話を聞いていた津さんは、私を評価してくれている。
「津さんが、私を嫌になるんじゃないかって……」
「ならへん。毎日惚れ直してる」
「ほ、惚れ!?」
口説かれている気がする。
いや、気がするんじゃなくて、本当に口説かれている。
美形に真正面から口説かれて、私は落ち着かない気分になる。お風呂で身体も髪も綺麗に洗ってきたつもりだし、化粧は普段から肌の色に合うファンデーションがないので諦めているけれど、スキンケアだけはきっちりしている。
私は、津さんが触れるに値する相手だろうか。
「蜜月さんの方こそ、俺のこと、呆れてへん?」
「呆れたりしませんよ。なんでですか?」
「ビシッと初夜を決めるつもりやったのに、蜜月さんは寝てまうし、昨日は俺が寝落ちてまうし……」
「気にしてたんですか?」
「そら、気にするわ」
28歳……じゃない、もう29歳になっていたのだった。『ひとならざるもの』としては非常に若い部類に入ると言っていた津さんだが、夜の営みのことで二回続けて失敗したのは、気になっていたようだ。
一回目は私が晶さんが来るのに緊張して数日前から寝られなかった挙句、着物を一日着ていたので疲れてしまって寝落ちた。二回目は私が前日寝落ちたせいで津さんを眠れなくして、その上囮になって心配をかけて駆けずり回らせて津さんを疲れさせてしまったので、津さんが寝落ちた。
「私、安心して眠れる相手じゃないと、ずっと一緒にいられないと思うんです」
「寝落ちたの、気にしてへんの?」
「私が寝落ちたのは申し訳なかったけど、津さんのことを気にして眠れないような状態で、お付き合いが長続きしますか? 津さんも、私が気になって眠れないような状態で、ずっと私といられないでしょう?」
睡眠は食事と同様に、生きるためには必要な行動だ。それが一緒にいたらできないのであれば、付き合っている状態は不自然になってしまう。
「茉莉さんから聞きました。津さんは眠りが浅いタイプだって。その津さんが、私がいたらぐっすり眠ってくれるなんて、私は嬉しいです」
私の答えに、目を見開いてぽかんとしていた津さんは、肩の力を抜いてから、柔らかく微笑んだ。
「蜜月さんには敵わへん」
「そうですか?」
「俺は身体も狙われたし、夜臼の当主として命も狙われてたから、ずっと深く眠ることができへんかった。蜜月さんが俺の腕におってくれるなら、俺は、死んでもいいて思うたんや」
「死んでも、いい……」
警戒心を解いて、殺されることの心配を捨てて、ただ心安らかに眠る。それが「死んでもいい」という表現ならば、物騒にも思えるが、津さんなりの最上級の告白なのだろう。
なんだろう、そんな風に英語を訳した文学者がいた気がしたけど、知識がないので思い出せない。
「死なないでください。これからなんですから」
途中から『ひとならざるもの』の世界に入った私は、津さんよりも年上だし、後何年生きるのかとか全く見当がつかない。津さんのお祖父様の妹さんが、あの若々しいお師匠さんの晶さんだとすると、私も津さんもまだまだ長く生きそうなことだけは分かった。
急がなくていい。
何かに焦るよりも、これから続く、一般の人間だった身としては想像のつかない時間を、津さんと少しでも長く穏やかに一緒にいられるようにしたい。
「そうやな、これからやな」
津さんに抱き寄せられて、私は自然に目を閉じていた。唇が重なって、ベッドに導かれる。
「蜜月さん、ええか?」
あぁ、こういう場面でも、ちゃんと私の意思を確認してくれる。
「あの、ひ、避妊、してくださいね?」
やっぱり結婚するまでは、子どもができるようなことは良くない。する以上は完璧に子どもができないようにするということは無理なのだが、それでも、気を付ける必要はある。
「蜜月さんが、望むんやったら」
優しい声が降ってきて、津さんの手が私のパジャマを乱し、脱がせていく。服を纏わない無防備な姿を見せるのは少しの恐怖があったけれど、津さんも同じく全くの無防備な姿で私に触れるのならば。
津さんの背中に回した手が、尖った肩甲骨に触れる。
身長は私の方が高いけれど、横になってしまえばそんな差は些細なものだ。
「津さん……」
「蜜月さん、好きや」
熱い吐息に、私は目を閉じた。
翌朝、シャワーを浴びてリビングに行くと、津さんが上機嫌で朝ご飯を作っている。
「蜜月さん、身体、平気か?」
「え、あ、はい……」
心配されると昨夜のことを思い出して恥ずかしくなってしまう。
私は津さんを受け入れて、津さんは私を抱いた。
単純にただそれだけ。拍子抜けするほど、何も変わらない。
初めてだったので、ちょっとだるさとか痛みはあるけれど、毎月来る生理痛に比べれば、大したことはない。
「みぃ? みぃ?」
「和己くん、おはよう。佳さんもおはようございます」
「……そうか、やっとか」
「ふぁ!? わ、分かるんですか!?」
なんということでしょう。
佳さんには筒抜けみたいです。
なんで分かるのか狼狽える私に、佳さんは苦笑しながらキッチンで鼻歌を歌って朝ご飯を作っている津さんを顎で示す。
「あれを見て分からない方がおかしい」
「あぁ……津さん……」
あまりにも分かりやすく浮かれている津さんの様子に、佳さんは吹き出すのを堪えているようだった。和己くんは、津さんの鼻歌に対抗して、自分の方が上手だと示すかのように、佳さんの前でお尻を振って熱唱している。
平和な朝。
「この分なら、庭にブランコを作っても、津は気にしなさそうだな」
「次はブランコですか?」
「和己、ブランコに乗りたいよな?」
「ぶーあぶーあうーえう」
そう説明されて、私は聞き取れなかった和己くんの歌がなんなのか、ようやく分かった。私も小さい頃に幼稚園で歌った、「ぶらんこ」の歌だ。
愛のために日本庭園は、津さんが苦い顔をしても改造される運命のようだった。
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