21.存在しないひと
「このお店になんの用かしら? 私を口説きに来たなら、私はみんなのママだから無理よ?」
「そうやって、誰のものにもならないのをステイタスだと思っているの? 所有されたいと思わない? 君は、犬なんだから」
余裕の表情でかわしているけれど、その人物から発せられる圧は、背中側から見ている私でも肌で感じるほどだった。
狼の茉莉さんを「犬」と言って貶めて、怒らせる気でいる。相手の感情を崩せば勝った気になる輩というのが、一定いるものなのだ。特に社会的地位のあるプライドの高い連中。
「私は私のものよ。誰かの所有物になったりしない。私の問いかけの答えをもらってないわ。あなたは誰? 何をしに来たの?」
「志築明人を狂わせた君が、欲しくなったんだ。この世界は間違っていると思わない? どうして、僕たちの方が隠れて暮らさなければいけなくて、無能な人間たちの方がのさばっているんだろう?」
「無能? あなた、知識はあるけれど、応用力のないタイプのようね。あなたが飲んでるグラスの中身も、グラスも、摘まんでいるカシューナッツも、あなたが無能と言い捨てた人間の作ったものよ。この街も、この国も。それを理解せずに、能力がないから、獣の本性がないからと、人間を馬鹿にするのは、ただの子どもが駄々を捏ねてるに過ぎないんじゃない?」
威圧感で茉莉さんを操作しようとする人物に、茉莉さんも一歩も退かない。緊迫した空気を破ったのは、沈くんの泣き声だった。
「まー……」
「沈さん? どうしたの? お目目が覚めちゃったのかしら」
カウンターから出て来た茉莉さんが、沈くんを抱きとると、スツールごとストライプのスーツの人物が振り返った。灰色の髪に灰色の目、銀色の縁の眼鏡をかけたあどけなさがまだ残る顔立ちの人物。『ひとならざるもの』だから、外見と年齢が一致しないのは分かっているけれど、それ以前に、異様な雰囲気が彼の幼さを打ち消していた。
「可愛いふりをして、恐ろしい蝙蝠だって聞いているよ。まず、その子を握り潰してしまおうか。そしたら、君も動揺するかな?」
「沈さんに触らないで」
「顔色が変わったね。いいな。その方が良い。ひとが恐怖する顔は、とてもいい」
スツールから降りて茉莉さんと私の方に来ようとするその人物は、どれだけ目を凝らしても、本性が見えない。それどころか、目を凝らせば凝らすほど、輪郭ですらあやふやになっていくばかりだ。
『遠隔操作』という単語が私の中に浮かんだ。『ひとならざるもの』の能力を聞いたときに、茉莉さんが何気なく口にしていたものだ。能力の詳細は分からないが、言葉の意味から、なんとなくそれがどういうものか、察せないこともなかった。
「あのひと、ここにいないんじゃないですか?」
「どういうこと?」
「見えないんです、本性が。見ようとすると、輪郭が曖昧になって、なんだろう……水面に映った月みたいな」
揺らいで虚像を見せる水面に映る月。それに彼の存在は似ていた。
私の説明を聞いて、茉莉さんが沈さんをしっかりと抱き締めたまま、「あぁ」と声を上げた。
「匂いがしないからおかしいと思ったわ。『遠隔操作』の『現身』ね」
どこか別の場所から、自分ではない存在に自分の姿を映させて、あたかも本人が来ているように見せる能力。それをこの人物は持っているようだった。
「そっちは『千里眼』か。いい人材を揃えているね。蝙蝠くんも合わせて、全員僕のものにしてしまいたい」
恍惚と言いながら茉莉さんに手を伸ばそうとするその人物に、私は一つの可能性に気付いてしまった。茉莉さんに向き直ると、沈くんのほっぺたを示す。
「沈くん、熱のせいかほっぺたが乾燥しちゃって、痒いみたいなんです。茉莉さん、何か保湿剤持ってないですか?」
「え? ちょっと? 僕の話、聞いてる?」
「保湿剤……リップの下地に使ってるワセリンがあるけど……蜜月さん?」
「茉莉さん、あのひと、いないんです。ここに存在しないんです。存在しないひとの相手をする必要、ないでしょう?」
本人が来ているのならば怖がる必要があるかもしれないが、本人ではない存在しないものなのだ。何を怖がる必要があるのだろう。そう思ってしまうと、その人物が発している圧力も、全く感じなくなった。
「え? 僕は、志築明人よりもずっと格上で……」
「そうよね。いないひとに話しかけても無駄だわ。蜜月さん、ワセリン取って来る間、沈さんを抱っこしてくれる?」
「はい。沈くん、ちょっとだけ我慢しようね」
「まー……」
まさか完全に無視されるとは思っていなかったのか、ストライプのスーツの人物が固まっている。バッグからワセリンを取って来た茉莉さんは、沈くんのほっぺたに優しく塗ってあげる。
「もう痒くないわね。掻いたら痕が残っちゃうかもしれないわ」
「あい。あいがちょ」
「良かった。沈くん、お熱が37,8度でしたよ」
「まだ少し高いわね。明日には治るかしら」
「その蝙蝠を握り潰してもいいんだぞ?」
「ちょっとでも晩御飯が食べられるといいんですけど」
「聞いてるのか?」
社会的地位とプライドの高いひとというのは、無視されることに慣れていないようだ。いないのだから声も聞こえない。徹底して無視していると、近付いてきたその人物が沈くんを捕まえようとするが、残念ながら、私の方が背が高いので、ひょいと高く抱き上げて逃がして、少し位置をずらして、無視を決め込む。
「僕を馬鹿にするということがどういうことか、教えて欲しいらしいな」
「誰、こいつ?」
事務所の方に出勤したのだろうが、誰もいなかったので降りて来た津さんが、ひょっこりと顔を出す。自分の存在を誇示できる相手が見つかったとばかりに、その人物は津さんに詰め寄った。
「ここの女たちはどうなってるんだ。僕が来れば、みんな、種が欲しいと脚を広げて待ってるのに」
「……蜜月さんに、不埒なこと考えはったんですか?」
黒い目を細めて、津さんが腰の辺りに手をやって、刀を抜く所作をする。無駄のない動きで抜かれた光る刃で、右わき腹の下から左肩まで、ばっさりと切られたその人物の切り口から、大量の水が押し寄せてくる。ざぱりと大波の幻影に飲まれて、その人物が消えていくのが見えた。
残ったのは、何が起きているか分からない様子の昼間に百貨店の近くで見た、ボルゾイの彼だった。
「な……ここは?」
「操ってたんか……あのマセガキ、蜜月さんになんてことを」
ボルゾイの彼には警察で話を聞いてもらうことにして、津さんと茉莉さんと事務所に上がった。
「切った感じ、手応えがおかしかった」
「波が、見えた気がします」
津さんと私の話を総合して、茉莉さんは沈くんに晩御飯を食べさせながら結論を出した。
「多分、あれが教授って呼ばれてた男じゃないかしら。種類は分からないけれど、かなり能力の高い海洋生物で、本体は別の場所にいるんだわ」
「本体が海外におっても、『遠隔操作』と『現身』で世界中どこにでも出現できるんやったら、組織の管理も楽勝やな」
「あのひとが捕まったから、日本の組織を建て直すために来て、まずは私を狙ったんでしょうね」
敵情視察に来たは良かったが、『現身』では本体と違って完全な力は出せない。言葉で脅して、圧力をかけて、茉莉さんの事務所を自分のものにしようと考えたのかもしれないが、それも無理だった。
そもそも、茉莉さんがそんなに簡単に手に入ると思うあたり、甘すぎるのだ。
「本体が来たら厄介かもしれへんけど、本体に一太刀浴びさせて、懲りさせるのも手やな」
「すごく幼い感じがしました……能力でひとを操ってるのかもしれないけど、本当は何も分かっていないような……」
「そういう輩が一番怖いんやけどな」
日本の組織がバラバラになる前に、教授と呼ばれているであろう男は、この店に現れた。これから事態がどう動いていくのかは分からない。
「でも、蜜月さんはさすがやな。相手を『いない』ことにしてしもた」
『遠隔操作』や『現身』はある意味相手の脳を混乱させる幻のようなものなので、はっきりと「いない」と断定してしまうと、相手の存在が揺らぐというのだ。
「じゃあ、これからも『いない』作戦でいきましょう」
真面目に私が言うと、沈くんが可愛く両手で顔を隠して「ないない」と「いないいないばー」の動作をした。
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