あいにく、雨
釈然としない人間関係の話が書きたくて、見切り発車しました。
当方職業作家ではないので打ち合わせなど不明点多数ですが、もしどなたかご教授いただけるのであれば是非ともお願いしたいです。
十月四日午後一時四十五分。
午後から晴れると言っていたのに、未だに雨は上がっていない。
十津川心は、待ち合わせの時間より早く着いてしまったことを後悔した。
会社員だった頃の癖で時間前行動が抜けない。心にとって最後の家族である母親の看病の為、会社を辞めた。しかし、その一週間後に母親が死去し、心に残されたのは無人になった実家と保険金そして遺産が少々。
色々と考えた結果、作家『十束和真』として歩むことになった。
本名でもよかったが、名字のせいで変な先入観を持たれても困るので、誤変換で出てきたこの名前をペンネームとして使うことにした。
かれこれ数年経つが、この生き方は性に合っているような気がする。
保険金や残された遺産は、実家の維持費と税金で大分持ってかれているので、印税収入があると言っても生活はそこまで楽ではなかった。
だからこそがむしゃらに、それこそ寝食を削って物語を書き上げる。
心にとって創作活動は楽ではないが苦痛でもなかった。会社勤めと比べて、没頭できるのでその間は他の事を考えずにすむのでありがたかった。実家を失くしたくない、その強い想いが自分を動かす原動力だと信じている。
それでも、最近疲れたと思う事が増えた気がする。
理由として考えられることには心当たりがあった。
実家への執着のさらに深層にある得体の知れない衝動。それは物語を創造する度に成長している。それは、何か引きずり出してはいけないもののような気がしていた。晒されれば最後、きっと後戻りは出来ない。
ポツリ、と鼻の頭を雨粒が打つ。
そういえば今日は一通り書き終えた新作の打ち合わせだが、担当編集者の北野はまだ姿が見えない。
もう少し待つ事になりそうだ。雨は音だけではなく、肌でも感じられる。
普段はずっと家に引きこもって書いているので、久しぶりに外気にあたった。
雨は嫌いではないが、雨の日に外出するのはあまり好きではない。
窓から眺める雨粒は美しいけれど、直接降りかかる水滴は不快感を伴う。
待ち合わせ場所の喫茶店『コロンボ』は、この天候の所為かいつもより閑散としている。
さっきちらりと横目で確認した限り、人影はマスターとバイトの男の子一人しかいない。
非常に入り難い。
カランカランといきなり軽快なベル音が聞こえたので、心は驚いて少し後ずさる。
出てきたのはバイトの男の子だった。エプロンに付けられたネームプレートには『フジサワ』の文字。
ショートヘアにワックスで軽く流して動きをつけた様な、清潔感のある髪型に、シンプルなシャツとチノパン。細身ではあるが、それなりに背は高い。
今時の子の体型だな、と心はいつも思っていた。
フジサワは心の姿を見ると嬉しそうに微笑む。
「こんなところにいると濡れちゃいますよ、早く入ってください」
「ああ、ありがとうございます」
心はこの笑顔の好青年が何となく苦手だった。最初に出会った時は大人しそうな印象を受けたが、今は心の姿を見つけると嬉しそうに駆け寄ってくる。
心の作品の大ファンだったらしい。
「今日は打ち合わせですか?」
「はい。シロガネ書房の北野さんと」
苦手意識など微塵も感じさせない微笑みを浮かべる。本音を隠すのは得意だった。
「新作楽しみにしてます、頑張ってください!」
フジサワの背中でふさふさとした尻尾が大きく揺れているような錯覚に陥る。
何となく犬っぽい雰囲気がある。柴犬の仔犬のような。犬種は違うが、ふと昔近所で飼われていた犬を思い出した。見知らぬ人にはさほど関心を示さない癖に、気に入った人間が来ると猛ダッシュで近づいてきて、これでもかというほどじゃれついてキャンキャンと騒ぐ。心も懐かれた一人だったが、真っ直ぐ突っ込んでくる存在は脅威にしか思えなかった。それ以来犬は少し苦手だ。
奥の席に心を案内すると、フジサワは水とおしぼりを出し、その横にさらにキャンディとクッキーの入った小さな皿を置く。いつからか始まった心への特別サービスだった。
常連というほど通いつめている訳ではなく、お得意様というほどお金を落としている訳ではないので、少し申し訳ない気分になる。
「注文は北野さんが来てからにしたいんですが」
「じゃあ、また後で聞きにきますね」
心がそう言うと、横で待機していたフジサワがカウンターの方へ戻っていった。
時計は一時五十分を指している。後十分。
いつもは時間の待ち合わせの十分前に到着しているはずの北野だが、今日は違った。
雨で交通機関に遅れが出ているのかもしれない。
手持ち無沙汰から、店の時計と自分の腕時計を交互に見るという、極めて無駄な行動をとっていた。
カウンターからはフジサワがチラチラとこちらを見ている。
これ以上彼と会話する様なことがあれば、その疲労感は絶対に仕事に差し障るだろう。
彼がカウンターから出てこないうちに早く、と心は北野の到着を祈る様な気持ちで待つ。
カランカラン、とベルが聞こえた。
入り口の方を見やると、そこには待ち人北野の姿があった。
「おお、今日も早いな十津川センセ」
わざとらしく目を丸くして北野が言う。
彼は、たまに心のことをからかうように『十津川センセ』と呼ぶ。
「先生をつけるなら十束の方につけてください」
北野が来たことに少しホッとしつつ、心は挨拶のような軽口をたたく。北野は関西出身で、こちらに出てきて二十年近く経つという。関西弁が抜けないと言うが、意識して喋っている様にも思えた。
湿気のせいで、彼の天然パーマの髪がより強くうねっている。
鼻筋が通ったすっきりとした顔立ちだが、少しくたびれた雰囲気のせいで、嫌味な感じはしない。さらに前述の関西弁で親しみやすい印象になっている。
出会った当初から、かなり砕けた印象だったのを思い出した。
北野のジャケットの肩が傘からの雨だれで少し濡れて変色していた。
なぜかまた雨脚が強くなっているようだ。
ふと視界に入った時計は一時五十五分をさしていた。無駄話をしても五分前。
決して遅刻ではない。遅刻ではないが、あの微妙な待ち時間のこともあって釈然としない。
心は少し北野を責めたい気分だったが、責めるべき理由が見つからなかった。
「北野さんは何時もだいたい時間通りですね」
微笑みの中にほんの少しの嫌味を込めるのが精一杯だった。ちなみに北野は遅刻したことはない。
「やー、ちょっと前の打ち合わせが長引いてな、間に合わんかと思った」
焦ったわー、と北野は独り言の様に呟いて心の向かいに座る。
注文を取りに来たフジサワにコーヒーとカレーと告げたので、心もココアを注文した。
「お昼まだなんですか?」
「ああ、何となく食べ損ねてな。十津川さんは?」
北野はおしぼりで顔まで拭きながら心に尋ねる。
「適当に食べてきました」
今年で四十にしては爺臭すぎる動作に、心は苦笑いしながら応えた。
「どうせまた朝昼一緒なんちゃうの?何か顔色悪いで。疲れてる?
飲み物だけじゃ足りんやろ、サンドイッチとか軽くつまめる物頼む?」
見破られていた。苦笑いが止まらない。北野との付き合いも長くなってきているので、
生活パターンはすでに把握されている。
この仕事をする様になってから、寝る時間が不規則になっていた心は朝に弱くなった。
起きる時間が昼近いので、一日の食事は二回か一回になっている。
ついでに、不規則な生活以外の疲れの原因もばれたと思ったが、さすがにそこまでは気付いていないようだった。
「さっき食べたばかりなので、ほんと大丈夫です。それにこれもありますし」
つとめて明るい声で、心はフジサワからの『心遣い』を指差した。
「出た、十束センセ限定サービス」
けらけらと北野が笑う。フジサワのことは北野も知っていた。
「いや、いいんですかね?こういうの」
「ええやん、プレゼントみたいなもんやろ?せっかくのご厚意を無駄にしたらあかんで」
「そういうもんですかね?」
「あーそういうもんや」
最もらしいことを言う北野だったかが、心は気付いていた。
「北野さん」
「何?」
「適当に言ってますよね?」
「……ばれた?」
ははは、と笑う北野に、心はため息をつくつもりだったが、つられて笑ってしまった。
興味のある時とそうでない時は雰囲気でわかる。
「ブランド物の財布もらったんと違うし、そこまで気にせんでもええやろ。
ちっと勢いのある奴が持ってきてもお菓子はお菓子。パクッといっといたらええやん」
興味を失いかけていた北野の言葉に、心は思わず吹き出してしまった。
「何、俺今そんなにおもろいこと言った?」
「いや、勢いのあるやつって、言い得て妙だなと思いまして」
会話だけ聞いていると親戚か何かと勘違いしてしまう雰囲気だ。
下手をすれば、年上の編集者が若い作家を弄んでいるように見えるかもしれないが、北野が心をなめてかかっているというわけではない。
あえて砕けた対応をすることによって、心に遠慮させないようにしているのだった。
それに応える様に、心も北野に対して言いたいことは言えるようになっていた。
それは親しさというよりも、仕事をスムーズに進めるための一つの手段だと言える。
信頼と親しさはこの二人の間では比例関係には無い。
互いの家庭事情などプライベートなことに関しては、ほぼ話題にしたことは無い。
ただ、北野の左手薬指にある指輪で彼が既婚者である事は知っていた。
それに対して、北野は自分のことをどこまで知っているのだろうか。
応募用紙に書いたプロフィール以外は、これといって北野には追加の情報を伝えていない。こう付き合いが長くなってくると、それが何となく不公平な気がして、実家の事を伝えようかと思った事もあった。だが、そうするまでには至っていない。無闇に心配をかけるのも気がひけるし、何よりこの絶妙な関係性を崩したくなかった。
透明で向こう側は見えるけれど、確かに適度な距離感をもって隔てているものがある。
それが心にはとても居心地よく感じられた。あまり内面に踏み込まれるのは好きではない。
背後から無遠慮なカレーの匂いが漂ってきた。
噂の勢いのある奴、フジサワが注文したメニューを運んできたようだ。
「お待たせしました」
カレーの横にはスープが添えられていた。通常なら四百円するものだが、これはマスターから北野へのサービスだ。
「おー、いつも悪いな。ありがとさん」
「北野さんは常連ですからね」
フジサワは愛想よく言うと、クルリと踵を返しカウンターの方に戻る。
彼の北野への対応は失礼とはいかないまでも、微妙にそっけない。
「先食っててええ?五分あればいけるわ」
スプーンをお冷につけながら北野が言う。心が口を開く前に、北野はカレーを口に入れていた。
「気にせずゆっくり味わってください」
かなりの勢いで食べている北野に、心は無駄かもしれない言葉をかけた。
「ココア、お持ちしました」
北野の食べっぷりに呆気にとられていると、急にフジサワが視界に入ってきた。
トレーの上には湯気を立てる二つのカップがのっている。
「ありがとうございます」
テーブルに置かれたソーサーの端には、クッキーがまた一つ添えられている。
視線を上げると、フジサワが嬉しそうに笑っていた。
引きつらない程度に笑顔を返して、心はココアに口をつける。いつもより濃い気がする。
心がココアに口をつけるのを確認すると、フジサワはようやく北野の前にコーヒーを置く。
咀嚼中で口を開けない北野は、視線と手の動きフジサワに感謝の意を伝える。
フジサワも営業スマイルで返答し、再び戻っていった。
カレーはすでに半分近く減っていた。
その後も北野はペースを落とさず食べ続け、皿を空にした。
軽く手を合わせ、皿をテーブルの端にやる。
「そんじゃ、遅くなったけど確認さしてもらいます」
心は封筒から紙束を取り出し、北野に手渡す。
データでやり取りすることもあるが、そこまで遠方に住んでいるわけでは無いので、出来るだけ直接会って打ち合わせをしたいというのが北野の意向だった。
紙束を受け取り、表紙部分をめくり始めると北野の目は変わる。その瞬間を見るのが心は好きだった。
文字で紡ぎ上げられた世界に入り込んできた彼の目は、今日は何を見つけるのだろうか。
幾度となく繰り返されてきたやりとりだが、彼の目が、驚き以外ではあまり反応しない心の鼓動を速くする。
店内のBGMが遠くで聞こえる。確か、CMにも使われていた有名な曲だ。
ひらっとページを捲る音が耳に響く。曲名が思い出せない。冷めかけたココアを一口含む。
やはりいつもより濃い。甘さが余計に後をひく。北野がまたページを捲る。
その度に思考がリセットされる。ココアをまた一口含み、濃厚な甘さに辟易する。
「今回は医療モノってことでいいやんな?」
紙面から顔を上げずに北野が尋ねてくる。
「はい、医療ミスに尊厳死を関連させてます」
今作については何回か打ち合わせをしているが、北野はその度に必ず主題を確認してくる。
心は北野の表情を確認しつつ答えた。
「でも、結局尊厳死のために意図的にやったらミスじゃないやん。
殺人罪とか自殺幇助になるんちゃう?」
北野の眉間に皺がよっている。前回も似たようなことを言われた気がする。
今回はどうやらここがひっかかるポイントらしい。
「意図的な医療ミスなんですよ。あくまでも業務上過失致死の範囲です」
「ふーん、意図的なミスな。てことはこの医師は罪にはならんってこと?」
「民事では責任を問われそうですが、刑事事件にはしません。
そして、道義的には罪とは言い切れないはずです。
この医師は過去に患者を苦しませてしまったことがトラウマになってて、
今回似たような状況に陥って、この決断をしたんです」
心はあらためて自分の見解と、まだ北野が読み進めていない先の展開にも触れ説明した。
それを聞いた北野は、「は」と「ほ」の中間の様な吐息の後、再び沈黙してページを進める。
どうやらこの部分はもう少し細かい描写が必要なようだ。
心は頭の片隅にメモをピンで留めた。
口には出さなくても、北野の表情や仕草からは色々なことが読み取れる。
眉間の皺は疑問、指が顎に触れれば要望、視線が止まればそこが気に入った部分だ。
北野の指が自らの顎に触れる。
「ここ台詞がまだ不自然やな、もっと表現変えた方がええんちゃう?」
「はい、もう少し工夫してみます」
しばらく沈黙があり、視線が止まる。三十ページの五行目あたりだろうか。
BGMよりもページを繰る音の方が大きく聞こえてくる。
ページ数が進む毎に北野は無口になっていく。
しかし、彼の仕草や表情は饒舌だった。今回はそれなりに手応えのある反応だ。
北野を観察しながら、心は冷めきってどろりとしたココアを口に流し込む。
最後の一口だった。冷えきった液体とは裏腹に、胸のあたりが熱くなる。
カップをソーサーに戻すと、思いの外大きな音をたててしまったが、北野は紙面から視線をずらさなかった。残りのページ数から判断すると、物語はクライマックスを迎えている。
視線が止まってはまた動き出し、止まる。一瞬眉間に皺が刻まれ、顎に手をやる。
そして再び視線が止まる。また動き出して、止まる。
最後のページが捲られるまで、北野の手は紙面から離れなかった。
きた。
最後まで北野の視線を釘付けに出来たのは今回が初めてだ。
こみ上げてくる昂揚感を抑えながら、心は北野の言葉を待つ。
ふーっという大きな吐息の後、北野が口を開く。
「やられたなあ。十束センセの新境地開拓やん」
「ありがとうございます」
感心したような北野の声色に、心は自然と口角が上がった。
紙束から顔を上げた北野と目が合う。その視線には鋭さの余韻があった。全体的には好感触でも、直すべき点は幾つかある。
「生命維持装置に繋がれた体を卵に例えたのが面白いな。
ただ、この卵は割るものみたいな表現は変えた方が良さそうやな」
「それは卵を割るという行為自体が、一瞬感じる命への罪悪感、そしてここでは
解放という救いに繋がっているので、余計な説明は不要だと思って簡潔な表現にしたんですが」
「確かに誰かの手を借りんと殻の外へ、まあ解放になるけども、それ以外の選択肢も無い訳では無いやろ?
迷った挙句の結果やし、もっとこう葛藤を感じさせるような表現が欲しいんよ。
いくら魂と交信する力があっても、殺してくれって言われて、はいそれじゃあってなる?
例えばこの老人を自分に置き換えた時に、そんな簡単にサクッとやられたら嫌やろ」
北野のスイッチが入ったようだ。反応は良くても、手放しに褒めることは無い。
彼が有能な編集者だということを物語っている。
「当の卵がどう思っとるかはわからんけど、卵って家みたいなもんちゃう?
この場合は体が卵なんやけど、家にしろ自分の体にしろ愛着あるやん。
仕方なしにとはいえ、愛着ある場所から引きずり出された挙句、それを壊されるんやで。
それをこの医師も共有というか理解してるからこそ、もう少しその苦しみを
しっかり表現して伝えて欲しいな」
北野の目が、自らが作り上げた世界以外の、もっと個人的な内面に向けられたとき崖下から吹き上げてくる風にあたったような冷たい焦燥感が押し寄せてくる。
家という言葉につい反応してしまう。
今までも鋭い指摘にひやりとしたことはあったが、ここまで迫られたことはない。
別に聞かれれば話してもいいとは思っている。今がその時なのだろうか。
発言のために息を吸った瞬間だった。
「十津川さん?」
心の告白の前に、変な間に疑問を持った北野が声をかける。
「あ、悪い。今何か言おうとしてなかった?」
「いや、大したことではないので。すいません、もう少し表現見直してみますね」
「ああ、まあ後は十津川さんなりの味付けでまとめてくれたらええんやけどな。
それよりもさっき何言おうとしてたか、めっちゃ気になるわ」
北野の勘の鋭さは恐ろしい。しかし、一度断ってしまったので言い出しづらい。
今日は告白には適さない日だった。そう思うことにして、心は首を横に振る。
「北野さんはいつも鋭いなって思いまして。まあ、いつものことなので口に出すまでもないかなと」
ここで笑って終わらせてしまえば、これ以上追求してくることはないだろう。
案の定、北野は釈然としない表情をしながらも、それ以上は何も突っ込んでこなかった。
すっかり冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干し、北野は荷物をまとめ始める。
「そいじゃ俺そろそろ会社戻るけど、十津川さんは?」
「じゃあ、私も出ますね」
心も身の回りを確認して、手荷物をまとめる。
「ゆっくりしとったらええやん。ここやったら注文しなくても、何か出てくるんちゃう?」
北野の口調は完全にからかっているそれだった。
「あまり長居すると、他のお客さんの迷惑になるので。それに家の方が集中出来ますから」
心がそう言うと、北野は小さく噴き出す。
相変わらず、店内には心と北野以外客はいない。
伝票に手を伸ばしたが、タッチの差で北野がそれを手中に収める。
打ち合わせの時の支払いはいつも北野だった。
「こんぐらい奢ったるって」
経費で落ちるし、と伝票をヒラヒラさせながら北野がカウンターのレジに向かう。
「ありがとうございます、いつか返しますね」
一回一回は少額でも利用頻度がそれなりにあるので、北野への借りはきっとかなりの額になっているだろう。このやりとりも恒例行事のようなものだった。
これに対する北野の返答はもうお馴染みになっている。
「おう、新作の売り上げで返してもらうわ」
レジにはマスターが立っていた。
「今日もごちそうさんでした。いつも悪いですね、榛村さん」
「気にしないでよ、両角によろしく伝えてくれ」
マスターもとい榛村と北野は長い付き合いだという。白髪混じりの短髪に、黒縁フレームの眼鏡奥には柔和そうな目が細められている。
この店のゆったりとした時の流れを体現している様な人物だ。
北野の勤務するシロガネ書房はこの近所で、社長の両角と榛村は旧知の仲だった。
そのような事情もあり、色々と融通を利かせてくれるので、シロガネ書房の社員は基本的に『コロンボ』を利用することが多い。特に北野はこの店の雰囲気が好きらしく、常連の中でもかなり上位に入る利用回数を誇る。
心もフジサワが入ってくるまでは、たまに一人で来ていた。
支払と榛村との雑談が終わったのを確認すると、心は北野の背を追って店の外に出る。
もちろん、榛村に挨拶するのも忘れなかった。
視界の端にフジサワを捉えた気がしたが、そのままドアを閉める自然な動作で背を向ける。
外に出ると、冷たい雫が指先を打つ。少しは弱まった様だが、雨はまだ降り続いている。
横を見ると北野はすでに傘をさしていた。
「じゃあ十束センセ、ベストセラーよろしく頼むわ」
「善処します。一通り仕上がったらまた連絡しますね」
北野が歩き出したのを見送ると、心も傘をさして濡れたアスファルトに踏み出す。
歩けば三十分弱、最寄駅から電車を使えば十分ほどで着く。
少し迷ったが、歩いて帰ることにした。家までの距離で、先ほど北野から受けた指摘を踏まえて物語を脳内で整理したかった。幸い直すところは少なそうたが、帰ったらすぐに書ける状態にしておきたい。
歩きながらの方が考え事は捗る、そう自分に言い聞かせ歩みを進める。
また、電車代すら節約したくなるような事情もあった。
実家の維持費はけして安くはない。いっその事借家として貸し出そうかとも考えたが、知らない人間に思い出の空間を侵食されたくはなかった。
そういえば、そろそろ掃除しないとまずいかもしれない。近日中に一度帰らなければ。
ふと、じんわりと冷たくなる足先が視界を鮮明にした。
足下を見れば、そこには水溜りに波紋が広がっている。かなり大きい。
はっとして足をずらして避ける。
人通りは少ないのでぶつかる事はないが、思わぬところに罠があった。
それもこれもこの雨のせいだ。午後から止むはずの雨が降り続いているのは、自分が北野に実家の事を告げていないせいなのでは無いか。ふと、そんな考えが過る。
告げていれば、何かが変わったのではないか。
天気、関係性、距離感、自分を見る北野の目。
一度考え出すと深みにはまってしまう。家に着くまでに、心は何度も足を濡らした。
結局家について、執筆に集中するまでずっとその考えは思考の中で浮き沈みを繰り返していた。
だらだらと冗長で、ソファ又はラグに寝っ転がりながら読める作品にしていきたいです。