弟は、嫌です
一途な正樹の、長い片思い
初めて会った時の印象は、なんだか感じの悪い先輩。
レベルの高い大学に通う、俺よりも背が高くて、美人で、ちょっと刺のある話し方をする人。
俺を見る目は、困った子供を見ているみたい。
カチンとはきたけど、女性は誉めとけばなんとかなる。幸い、彼女は褒めるのに困らない位の女性。『モデルみたい』って言われて気分の悪い人はいないだろう、と思ったのに。
あからさまに不機嫌になった。
え? 新人の高校生相手にそんなに睨んじゃう?
若干引き気味の俺に投げつけられた言葉は、ひどく冷たくて、彼女が傷ついたんだろうってことが伝わってきた。女の子を傷つけることに慣れていない俺は、完全ビビった。でも、何に傷ついたのかも、どうしていいかもわからなくて、とりあえず思いついた、気づかないフリ。
俺の作り笑顔にホッとした表情を見せた彼女を、可愛いと思ったのは今でも内緒。
だって、刺のある言葉に気がついていたことを知ったら、彼女はまた傷つくから。
そんな出会いが信じられないぐらいに、彼女は俺を思いやってくれた。
同じ時期にバイトに入ったお兄様達が俺の事を好き放題に言っているのなんて、当然俺も知っている。でもそんなの慣れっこだし、気にもならない。男の嫉妬なんてしている方が損をするって、知らずに大学生にまでなっちゃったんだなぁ、なんて可哀そうに思っていたぐらい。
それなのに、俺の耳に入らないように、シフトをずらしたり、俺とお兄様方が一緒の時は守るように俺とずっと一緒にいたり。言われた俺よりもずっと気にして、『正樹クンは、仕事できるからねぇ』なんて困った顔で笑う。『大丈夫ですよ~』と笑って見せても、痛そうな顔をしていたこと、本人は気づいていないんだろうな。
しっかり者の千夏に困った顔をさせるのは、俺だけ。
俺の悪口を言っている大学生。年上ってだけで、仕事なんか全然できない。一緒のシフトに入った時は、全力で仕事を奪って、他のバイト仲間にも社員にも高校生の俺の方が仕事ができるって証明してやったら、居ずらくなったのだろう、さっさと辞めていった。
これで千夏さんも俺を対等に見てくれるはず、と思ったのに待っていたのはまさかの子供扱い。勉強とか身体とか、別に心配されなくても大丈夫だから!
完全に腹を立てた俺がしたのは、仕事以外では交流を持たない。反抗期の子供みたいだけど、でも今彼女と同じ空間にいたら、焦って苛立って、無理にこっちを向かせようと必死になっちゃう自信がある。必死になれば、今のこの位置にはいられない。もう少し、彼女が俺を男として見てくれるようになるまでは。
同じ大学に入れば、隣に並ぶ自信はあった。彼女だって、俺に惹かれている。そう思っていたのに、千夏さんは俺を男として見てはくれなかった。何度も伝えた『好き』はいつも流される。でも、知っている。彼女は人の真剣な気持ちを流したりは出来ない。その気がないのなら、はっきりと断わるはず。流しているのは、受け止めることができないから。受け止める気がないんじゃぁなくて、受け止められない。
「千夏さん、今日のお昼何食べます? 」
「今日シフト一緒ですよね? 一緒に行きましょう? 」
「お祭り、一緒に行きませんか? 」
いつもいつもまとわりつく俺に、柔らかく、でもきっぱりと拒否を続ける。
「今日は家に帰って食べるの。正樹クンは、正樹クンの好きなもの食べなよ」
「終わらせたいレポートがあるから、先に行ってて」
「別のバイト入れているの。ごめんね」
だからと言って、俺が嫌いなわけじゃないと思うのは自惚れなんかじゃない。複数で遊んでいるときは、俺が隣にいても嫌がらない。そもそも本気で嫌がっているなら、柔らかく断る必要なんでない。
「千夏さん、なんで俺と二人出かけるの嫌なんですか? 」
「……正樹君なら、一緒に出掛けたがる女の子、たくさんいるでしょう?」
「俺の事、嫌いですか?」
「……」
「彼氏とか、彼氏もどきとか、いるんですか? 」
「……いない」
「好きな人、は? 」
「……」
「いないですよね? 俺、これでも人の視線とか見てればわかるんです。千夏さん、そういう目で男の人見ていないですもん」
「そう、いないの。正樹君も含めて、好きな人なんていない」
あ、失敗した……。
言われた俺より、言った千夏さんのほうが傷ついている。つくづく、人にきつい事言うの慣れていないんだろうな、と思うと申し訳なくなる。でも、俺はそんなことじゃ引いてあげない。
「好きじゃなくても、別にいいですよ」
「……私よりも背の低い男も、年下もあり得ない」
そこ来たかぁ。まぁ、わかってはいますけど……。
165㎝の俺と、170㎝を越えている千夏さん。並べば姉弟に見える事も、彼女が弟扱いしていることも、気づいてはいるんだけどさぁ。まだ10代とはいえ、俺はたぶんこれ以上伸びない。歳の差なんて、もっと絶対近づけない。彼女の望む、横に並んで釣り合う男にはなれない。
そんな努力のできない事を理由にされても納得なんかしてやらない。
だからと言って、あんまりしつこくしても、逆効果だよなぁ。
「わかりました、諦めます。でも、バイトは一緒だから、ちゃんと後輩として面倒見てくださいね」
にっこり笑った俺に、心底安心した顔の千夏さんが、切なかった。
「千夏さん、内定決まったって? おめでとうございます。皆でお祝いしましょう? 」
「皆でバイト卒業の、送別会もしますから開けといてくださいね」
なにも二人で会う事にこだわる必要なんかない。千夏さんを誘うときは複数で予定を入れる事にした。単純な千夏さんは、俺の『諦めます』宣言をすっかり真に受け、俺に彼女ができたなんて噂もしっかり信じて、俺の事は『飲み会の企画が好きな後輩』と認識を改め、社会人になってからも俺が幹事をする飲み会に顔を出してくれる。もちろん、人数は多くても俺は必ず千夏さんの横。周りも巻き込んで会話しているように見せても、他の男を威嚇して、大好きな姉を守る弟の役目をキープ。
そんなことは気づけない千夏さんは、すっかり警戒心なんて解いて、俺を弟みたいと認識して、気をゆるして二人で呑みに行くことも増えてきた。
「正樹は、可愛いねぇ~」
酔っぱらった千夏さんから、そんな言葉をいただいたのは大学3年生の秋。しっかり者の彼女でも凹むことはあって、就職してからは何度か凹んだ様子の彼女と一緒に呑みにさそわれるように。愚痴ることのない彼女は、俺の横で黙って呑み続ける。俺は、最近の大学の様子やバイト先に新しく入った新人の話など、一人でしゃべり続ける。懐かしむようにニコニコと笑って聞いて、時折、俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。そうしながら、帰る頃には少し元気を取り戻すのが、いつもの流れ。
いつか、彼女に愚痴を言われるようになりたい。
俺の就職が決まった時、千夏さんはあまり喜んではくれなかった。最近起業した会社、社員の年齢も若くまだ本当に軌道に乗っているとは言い難い。『大丈夫なの? そこでいいの? 』心配そうな千夏さんの顔が悔しかった。
この会社を選んだ理由は、早く千夏さんに追いつく為。
社会人になって3年目を迎えた千夏さん。前向きな努力のできる彼女に、経験も収入も追いつくには安定した仕事なんて言っていられない。少しぐらい無謀でも、追いつけるならそれでいい。
結果、俺は同期にも先輩にも恵まれて、『大人の余裕』なんてものも身に着けていけた、はずだったのに。
社会人も2年目になれば、後輩もできて少しだけ給料もあがる。千夏さんと二人で食事に行っても俺が出す割合を少しづつ増やしていった。そろそろ、男として見てくれるんじゃない?
改めて伝えた『付き合ってほしい』に千夏さんは心底驚いていた。考えてなかった、彼女が居るんじゃなかったのか、とパクパクと動く口に、もう溜息しかでない。
「待ちますから」
最初から、即答なんて期待していません。男として、見てもらえればそれでいいんです。
そう思っていたのに……。何度誘っても、何に誘っても、断られる日が続くうちに後悔が押し寄せてきた。なんで? なんで?同じ言葉ばかりが頭をめぐって、何も考えられない。苛立って、切なくて、毎日が、つまらない……。
「正樹クン、可愛いよねぇ」
大学時代の友達に誘われた合コン。時々数合わせに参加することはあるけれど、そこに出会いを求めたことは一度もない。むしろ、なんでこんなところに来る女の子に興味を持てるのか不思議で仕方がなかった。それなのに……。
ゆるい巻き髪に、甘い香りの香水。水仕事とかしないんだろうな、綺麗に整えられた指先。
今回の合コンで一番人気の彼女が、やたらと俺に話しかけてくる。誘った友達からも、さっさと抜けていいぞ、と耳打ちされた。
そうだよな。もう、いい加減報われないのも疲れた。
「……でようか? 」
テーブルの下で指先に触れると、嬉しそうにうなずいた。そうか、こんなに簡単なことなんだ。
俺、ここ何年か完全に損していたよな。
「正樹は、呑んだ後は必ず家に来るよね」
甘ったるい声が耳をくすぐる。いつまでたってもこの甘い声と香りには慣れない。
合コンで知り合って、その日に彼女の家に行き、毎日のように連絡が来る。面倒だと思う日もあるけれど、女の子と連絡を取るのはそれほど苦手じゃない。見た目も可愛いし、手放すのはもったいないし、適当に返していて気がつけばもう数カ月。
千夏さんを誘って断られた後は、たまらなくなって一人で呑んで、彼女の家に来るのが習慣になっている。
「嫌? 」
呑んだ夜にしか会いに来ない俺を、彼女がどう思っているかなんて考えたこともない。だって、これでいいんでしょう? 別に、俺じゃなくても……。
俺も、千夏さん以外なら誰でも一緒だし、お似合いなんじゃない?なんて。
「会えれば嬉しいよ? 」
「ありがと。俺も、会えて嬉しい。いつも忙しくて、ごめんね」
甘えるように彼女の胸にすり寄ると、甘い香りが強くなる。女性らしい、甘い香り。千夏さんなら、絶対に身につけない香り。
「正樹、私の事好き? 」
甘ったるい声が絡みつく。いつもなら、こっちも甘い言葉を返すことぐらい何でもないのに、俺の口をついて出た言葉は
「わかんない」
一瞬、時が止まって、空気が凍り付いた。やっちゃった……。
「俺、なにやっているんだろう……」
「なんだ、今頃気づいたのか? 」
仕事が終わらない金曜日。事務所での独り言なんか放っておいてくれて構わないのに、後ろから声をかけてきた徹は、何故か呆れ顔。転職組だから年は少し上とは言え、同期入社の徹。イケメンで、仕事ができて、でも少し人間嫌いで、面白いヤツ。千夏さんも誘って、一緒に呑んだことも何度かある。
「なんで、焦っちゃったのかなぁ。失敗した……」
会社の側の駅で何杯目かのビールを飲み干し、机に伏せった俺に盛大に溜息をついた徹。年下の同期がこれだけ凹んでいるんだから、ちょっとくらい気づかってくれても良くないか? まぁ、わかってて呑みに来たんだけどね。
「それでも、あの女がいいのか? 」
呆れたような言葉。きっとこいつには考えられない執着なんだろうなあ。
「……うん」
「なんで? 手に入らないからか? 」
こいつは、遠慮って言葉を知らないのか?
「違う。なんでかわかんないけど、千夏さんじゃなきゃ嫌だ」
そう、甘ったるい香りの女の子。俺の事を好きで、可愛くて、それでも彼女を好きだとは思えない。大事にしたいとは思えない。そう思えるのは、千夏さんだけ。
「ふぅん」
「弟としては好きだけど、男としては好きになれないってヤツなのかな」
それなら、そう言ってくれたらいいのに。
徹は黙って呑み続けている。
「気持ち悪い……」
寝たり起きたりを繰り返して、起きだしたのは夕方近く。昨日、あれからどうやって帰ってきたんだろう。愚痴って、面倒見させて、悪かったなぁ。減っていない財布を眺めながら、面倒見のいい同期に感謝した。ごめん。ちゃんと、しないとな。
ー千夏さん、今日会えない?-
―今そっちに向っている。具合はどう?-
は? なんで? え?
誰かと間違えているんじゃないかとか、呑みすぎて記憶がないまま何か連絡したのかとか、思いつくままに携帯の履歴を調べていると、着信が2件。留守電には、心配する千夏さんの声。
状況を把握するまえに、チャイムがなった。
「千夏、さん?」
「うん。具合どう? 徹からかなり酔ってたって聞いたから、心配しちゃって」
徹……。ありがたくって、涙がでるよ。休日出勤だったらしくスーツを着た千夏さんの手には、ミネラルウォーターにコーヒー、カットパイン。本当に心配して、とりあえず買ってきたって感じ。
「上がって……」
まだ春には遠い。部屋に充満した酒の匂いを追い出そうと、窓を全開にしていた部屋は冷え切っていて、外にいるよりもさらに寒そうに、腕をさすっていた。
「ごめん。すぐ着くから」
窓を開けたままヒーターをつけると可笑しそうに笑って、もったいないよと注意された。ああ、やっぱり俺は弟なんだろうなぁ。
「俺、弟みたい? 」
「……そうかも」
「じゃぁ、最後にするから、もう一回だけ言ってもいい? 」
「……」
「俺、千夏さんが好きだよ。俺の事嫌いならそう言って。そしたらあきらめる。
人の目気にしているならそう言って。デートとかしなくてもいいよ。
見られるのが嫌なら、外では離れて歩く。一緒に暮らそう?せめて家の中では俺の隣にいて」
「……」
「気持ちを、教えてくれたらそれでいい」
紅い光の中、長い沈黙が続く。何度も手を組み替える千夏さんに、もう駄目なのかなぁと思った、のに。
「私で、いいの? 正樹なら、もっと選べるでしょう? もったいないよ」
ああ、もう。この人は……。
「俺が、千夏さんがいいって言っているんです」
頬を挟んで、無理やり目を合わす。初めて見た、泣き出しそうな顔。
「正樹に会えない間、ね、寂しかった」
いや、俺は誘い続けていましたけどね。会うのを拒否ってたの、そっちだし。
必死に涙をこらえる姿に、それ以上の言葉はもう無理だと悟った。泣き出しそうな千夏、寂しかったの言葉。もう、充分。
社会人3年目を迎える頃には、二人で暮らす部屋を探しに行こう。