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発達障害の僕と支えてくれるかよちゃん  作者: TSUBASA
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重度の発達障害である僕の生い立ち

この話は実話、つまりノンフィクションです。


僕は生まれつきの病気【発達障害】と、発達障害による合併症【精神障害】にかかってます。


発達障害の詳しい病名は

アスペルガー症候群

注意欠陥多動姓障害

学習障害


精神障害の詳しい病名は

うつ病

統合失調症

自律神経失調症

チック症


さらには

睡眠時無呼吸症候群

又、脳波を調べてもらった結果、てんかんの可能性大という事を医師に伝えられました。


これ以上合併する病気がないくらい、合併症だらけ。

そして、たちの悪いことにこれらの病気すべてを合わせ持った僕を他人から見たら、全く分からないということです。

見た目も知的にも健常の人とかわらないから、人に僕の病気すべてを話したところで、

全く分かってもらえない

ただ、だらしないだけ

怠けてる 等…

だから、すごく生きづらい。本気で死にたい、何回も自殺しようとしたこともあります。薬を20錠くらい一度に飲んだこともあるし、飛び降りようとしたこともあります。だけど、そう簡単に死ねない現実。

度胸がないと言われればそれまでだけど、薬を大量に服用しても終いには吐くだけで、その後はめまい、ふらつき、身体が重い、意識が朦朧…最悪の状態です。

飛び降りようとしても、自分の家族のこと、やり残したこと、あれもしたかったこれもしたかったという後悔の念。だからあと一歩が踏み出せない。


人間の体とは簡単には死ねない体になってるんですよね。


僕にはお嫁さんがいます。

名前はかよちゃん。

僕よりも18歳年上だから、年上女房(笑)

いつもお茶目でおっちょこちょいで、自分のことより家族の心配ばかりしてて…

でも僕のことが大好きで、いつも一番に僕のことを考えててくれる

とっても素敵なかよちゃんです。


でも、そんなかよちゃんに僕の病気の事でたくさん悲しませたこともあるし、迷惑かけてきたし今でもかけてる。


仕事でも長続きしたことがなく、転々とするばかり。

理由は、人間関係がうまくいかなかったり、環境に馴染めなかったり、仕事の休みがなく寝る時間も2~3時間くらいしかなくトラックで寝泊まりという時期が1ヶ月くらいあって、その後に仮眠してもしても眠気がとれなくて、運転してる最中居眠りしてしまって、ガードレールを突き破り、奥の道路より低くなってた草むらにトラックごとダイブ。

身体は無傷でしたが、トラックのキャビンは全損…ということもありました。(生きてるのも不思議なくらい凄まじかった)


僕のようなここまでひどい発達障害、精神障害にかかっていると、本来は、自分が世帯主になって養うのではなく、実家に帰るか、養ってくれる人の下でゆっくり静養しながら生きていかないといけないと僕は思ってます。

しかし、現実は…

ほかに頼る人もいないし、実家はといえば、母親はお金を持っている限りあちこち遊びほうけて家のことはそっちのけ。父親にきちんとした栄養のとれた食事を準備してあげることのなく、スーパーで買った惣菜(コロッケ等)のみ、ラーメンやうどん、焼きそばのみ等。

外ではこれまでも今でも他に男を作って、お金のある限り遊び惚けて…

そんな調子だから僕としては一切信用できない。


父親はこんな僕のことや、そんな母親のことなどいろんなことで悩み、ついには色んな宗教や宗教紛いのことに手を出し、何十万何百万と騙し取られ、母親からも嘘をついていいように言われ、素直にお金を渡し、あれよあれよとお金が減っていき、せっかくもらった退職金も底をつき、仕事以外は常に家に入り浸りの毎日。


家の身内は、父親方も母親方もみんな、出来の悪い子はとてもだめな奴、出来のいい子は良い奴っていう家系なんです。


だから母親のことなど一切信用できないから、もし実家に帰ったところで、僕たちがいないときになにをされるか分からないから、新築で二世帯住宅でも立て替えない限りはとても実家に帰ることなんて出来ない。


あっ言ってなかったから僕の生まれてからの事をお話ししていきますね。



僕は昭和55年7月生まれ、生まれた場所は福岡県北九州市の門司港レトロの近所の産婦人科病院でした。

約3400㎏くらいで何一つ不自由のない健康な男の子として生まれてきた。

そう思ってました。


僕は2、3歳位の時は当時生きてた父親方のじいちゃんが、僕は汽車や踏み切りがすごく好きだったから、近くの踏切まで乳母車を使ってよく散歩に連れて行ってもらってました。


僕の父親方のじいちゃんはまだ仕事をしてたときに、職場で片腕を誤って切り落としてしまって、義手をはめていたから、特に思い入れがあり強く記憶に残ってます。


僕が4歳の時に、母親方じいちゃんが大正琴を演奏してる姿を見てすごく興味がわいてたのでしょう。じいちゃんが演奏してる姿を僕がわくわくしたような顔で真剣に見ていたそうです。

そこでじいちゃんが少し僕に大正琴をさせてみたところ、一回目は曲を聴いて同時に演奏してる姿を見て、二回目になんとなく演奏してみて、三回目には一曲弾けていたそうです。

これが後の僕の音楽への道の原点になりました。


僕が小学校1、2年生位の時に理由がないのにとにかく集団生活、学校が嫌いで、大泣きして(なになに君がいじめる)って嘘をついたりして少しでも学校に行くのを拒んでいました。

ふざけたガキでしょ(笑)


今思えば、僕の発達障害の症状で思い当たる一番幼い年齢がこの頃だと思います。


それと同時にこの頃、学校の休み時間に学校のグラウンドに出て、バスケットボールのゴールにぶら下がれるような鉄棒があって、それにぶら下がって遊んでたら手を滑らせて頭から落ちて、ちょうど頭の落下地点にコンクリートのブロックがあって見事に激突。

後頭部から血がすごい勢いで出てきて、先生に病院に連れて行ってもらい、3針くらい縫いました。

痛みは全然無かったです。


小学校5、6年生になってクラス内でクラブを作ろうという話になり、僕が提案して作ったクラブの名前が【音楽クラブ】

しかし1人も賛同してくれる人が居なくて、結局音楽クラブのメンバーは僕一人。(笑)

でも不思議と寂しくもなかったし、クラブを抹消して誰かが作ったクラブに入ろうとは全然思いませんでした。むしろ誇りでした。【一人ででも活動するんだ】みたいな感じで。


その後、小学校を卒業して次は中学生。

この中学生活からが僕の人生にとって最も過酷になっていくとは、この時には思いもしてませんでした。













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