第二十一話 短い時、長い時
つれないやつだ……
私が多くを語らないように、彼の話す言葉からは本性が読み取れない。本人に自覚があるかは別として、なんの裏表もない話にさえ、奇妙な違和感を残す。それをそういうものだと割り切ってしまえば普通の気さくで話しやすい少年と変わらない。私だって気がつけば手放しにただ会話を楽しんでいることがよくある。
それでもいいのではないだろうか……と、思うこともある。
だから彼が皆から懐かれるのはそういう理由かもしれない。
しかし、一度心の奥に覗く暗がりを知ってしまうと、それを完全に振り払うこともできない。皆を守る立場の者として、その言葉の裏には何があるのかと、考えずにはいられない。――嘘をついているのではないことは分かる。ただ、全てを語っているとも思えない。
山並にそびえる木々の一本に体を預け、すっかり暗くなった夜空に輝く無数の星を眺めながら、漠然とそんなことを考えていた。時折「すぅ……」という寝息が、心地よさそうに聞こえてきて、つられてこちらまで眠くなってくる。
(こうしてみると、本当にただ愛らしいな)
静かに、膝の上で眠るそれを撫でながら、心の中でそうつぶやく。……見ると、それは艷やかな赤茶の毛玉……もとい套逸の変化した姿。一体いつの間にこんな芸当を覚えたのやら。この前まではこんなことができる素振りさえなかったのに、急にこれだ。――もしかしたらこれすらも今までたぶらかしていたことで、実はこっちが本当の姿かも……そんな思考がふっと沸いて消えた。
そんなことまで疑ってしまっていると思うと、自分が情けなく感じた。
目を閉じて、静かな闇に身をゆだねると、秋の宵の寒さの中で膝と掌に感じる温もりに導かれるように、眠気にさいなまれた。
――結局何も話せずしまいだったな。
「……またかよ」
目が覚めたら目の前にサキの顔があった。僕は現在進行形で鼯鼠の姿に変身中……そしてあろうことか僕の身体には彼女の手が回され、僕は全身で彼女の体温を感じていた。
(これは不覚……)
つい甘えてサキの膝の上で寝るなんてどうかしてた。
自分の倫理観の足りなさに愕然としつつ、昨晩の出来事を思い出す。
姿を変えられるようになってからというもの、夜間はよく鼯鼠の姿ですごしている。秋も深まって、日中はとても過ごしやすい気候で、景色もきれいなのだけれど、夜になるとさすがに肌寒い……というか寒い。人の姿では、動物としての毛皮要素の大半があのマントに集約されているせいで、マントを被っている部分はいいにせよ、露出している顔などは、どうしても温度の変化に弱い。反面、鼯鼠の姿になってしまえば全身体毛で覆われていてなんとも快適。
よって、そのときもそれは例外でなく……というより壁も何もないだけいつも以上に必要に駆られて、彼女の前で姿を変えて見せた。
話を聞くうえで、姿形はたいして問題でないような気がしたというのもある。
変身するときにどんな姿になるかはある程度融通が利く。いつもならば落ち着ける、普通の鼯鼠と同じような見た目になっているところを、この日ばかりは少しモフモフさをアップした感じに変身してみた。変身の直前、サキを見ているとあまりにも寒そうな服装をしているのに気が付いて、それが気がかりで僕は思い付きでそんなことをしてみたのだ。
彼女は心底驚いたというように目を見開いて、興味津々に僕の姿を観察するので、僕はこそばゆいような、恥ずかしいようなそんな気持ちを誤魔化すように彼女に近づいて、撫でてくれと身を寄せた。
……
「ふえぇっ!?」
思わずそんな情けない声が漏れたような気がする。彼女が真っ先に手を触れたのが耳だったからだ。『さぁーっ』とすくうように耳の付け根から先端へ撫で、そして顎の下へと伸びた手によってくすぐられるようにされると、悔しいくらいに気持ちよくて、無意識のうちに首が伸びる。その熱が冷めぬまま、彼女は僕をサッと持ち上げると、ゆったりと膝の上に下してまた撫で始めた。
彼女の温もりが身体に伝わり、僕は至福の境地でされるがままになっていた。
とてもじゃないが同時に他のことを考えるとかそんな次元のものじゃあなかった。あれはもうプロだよ戦犯だよ卑怯だよ……
疲労困憊していた心が安らぎを感じているのを実感しながら、僕は彼女に弄ばれ、そのまま寝落ちした。
その結果がこの抱き枕状態。一体あの後何があった……こうなるとわかっていれば、僕は絶対に彼女に毛を貸そうだなんて思わなかったことだろう。
――いや、本当にそうだろうか……あの気持ちよさを知ったうえで、本当にの状況を回避しようという結論に至るだろうか。――僕には自信がない。
それにしてもあの反則級の技を彼女はいったいどこで身につけたのだろうか――もしや昨日あの場にいた他の同族(動物系妖怪)たちもサキの餌食に……し、信じられない。あの真面目一択で通ってきたようなサキに、ケモノを玩ぶ趣味があったとは……こ、これは危険だ……彼女には十分に用心しなくては、やがては彼女なしでは生きられない体に……!!
閑話休題
この状況、改めて振り返るまでもなくかなりやばい。まだ日が昇る前、彼女は起きてくる様子もなかった。
下手に動いて彼女を起こすことになったら、いろんな意味で誤解と反撃の応酬を受けることに……そしてもっと悪いことに、僕は前科持ちだ。しかもその相手があろうことかこのサキなのである。
何という運命のいたずらか、何という不幸な体質か、僕は史上稀に見る大失態を2回も、それも同じ相手に対してしでかすとは……こんなことがあってたまるか!
しかし現実に彼女は僕を抱きしめ離さない。ヒトはこれを運命だというのかもしれない。ただ、僕にはそうは思えない。これは単なる偶然だ…それ以上のものは何もない。
僕はどうしたものかと密かに頭を抱えた。彼女が手を放してくれるのを待つという手もある。ただ、それだと彼女が目を覚ますまで手を放さなかったときに彼女になんと説明したらよいものか。かといってこの場を抜けだせる方法も分からない。能力を使ったとしても、この場から離脱することはできないだろう。遠い昔、能力を駆使した転移術を完成させ、使ったことがあった。しかしそれを行使するには莫大な妖力ないし力が必要だ。かつてそれを使えたのは、本当に稀で、特異的な条件が偶然にも揃っていたからである。いま、何の準備もなしに行使できるほど簡単なものではなかった。一度くらいであれば無理に体を飛ばすこともできるだろうが、その場合妖力切れで数日は身動きが取れなくなることを覚悟する必要があるだろう。
ぶっちゃけ僕はそれでもいいのだが、その間、僕の体が無事でいるとも、思えなかった。
長い年月を妖として生きるうちに、それまで妖力といいうものは漠然とした概念のように思っていたものが、不意に確固とした存在のように感じるような瞬間があった。そてその感覚が身に馴染んでくると、妖力というものの具体的な上限のようなものが感覚として分かるようになった。それと同時に、妖術を使うときの消費量なども、術式や経験からある程度は解るようになってきた。その結果、『出し入れを操る程度の能力』という能力の行使は、単純な妖術の使用に比べて圧倒的に妖力を消費することが判っている。何事もコツをつかめば効率が良くなるように、あらゆる術式はその熟練度によって使用する妖力量も、効力も変わってくる。だから、普段何気なく使う、耳隠しに始まる隠遁術なんかは素早く、造作もなく使えるようになったが、転移術のような大型術式は、その使用頻度も低く、妖力消費もハンパじゃないことは変わらないわけだ。
おまけに僕の妖力総量は年の割に多くない。妖狐や化狸と比べれば、生まれてまだ百年と経たない若造と、単なる力量だけなら対等という始末。情けないが、こればっかりは努力ではどうにもできない以上、工夫をして優位性を保たないとなめられてしまってかなわない。
もっとも、僕のもう一つの能力、『命を読む程度の能力』――これは命を観る程度の能力がいつの間にやら発展したもの――は、そもそもアシスト特化で、何かを生み出したり、奪ったりするものではなかったためにか、いろいろ懸念対象外だ。故にこの場はで役に立たないのもまた事実だが……
――そこで考案したあの御札も、この姿では取り出せないという迂闊さ。詰めが甘いとは、まさしくこのことなのだろう。「――まったく、おぬしはいつも抜けているからのう」そんな懐かしい声がどこからともなく聞こえてきたような気がした。
あの頃は、無茶をしたり、なんかがむしゃらに楽しかった。細かいことは覚えていなくても、残されたその断片は、僕が生きる糧となっている事実は揺らがない。
まあ、手詰まりたまからといって過去の思い出に浸るのもこれくらいにして、いい加減まじめに考えないといけないと、自分の脱線癖に頭を悩ませる。そもそも何か考えるときに次々と関連する事柄が浮かんできて、僕を本題から遠ざけようとするのが悪い。
……そう考えている今も脱線中であることにはなかなか自分では気付けないものだ。
そして、いくつもの迂回路を確実に通りながら、最終的にたどり着いた答えは……
(狸寝入りで万事OK)
という何ともみっともなく、同時に僕らしいと思えるものであった。
まず、彼女を起こして事情を説明するというのは速攻で却下された。今この状況で彼女を起こして、果たしてなんと説明したらよいのやら、まったく僕には分からなかった。傍目から見れば僕に非があるはずはない状況であるとはいえ、この瞬間だけを切り取ったら、怪しいこともまた事実。それに寝起きで彼女がまともな思考をしてくれるかが心配だった。勘違いで即KOとかは絶対にごめんだ。
次に無理やり振りほどいで駆け足で逃げるというのも、同じ理由で却下。逃げるという行為がつくだけ余計に危険ともいえる。となれば、取れる方法は彼女が起きてくるまでじっと耐え忍ぶ。そして、その時に僕が起きていたことが知れれば、さらなる誤解が蔓延する。
よって、狸寝入りこそこの場の最善策であり、それ以外に道はない。
と、かこつけているものの、実際には、この状況に甘んじて、彼女のぬくもりや、目を閉じると分かる彼女の心音、呼吸の度に膨らみ縮む胸の動き、優しく包み込む手の感覚を全身で感じて、まるで母親に抱かれていたころのような深い安心を、手放すのが惜しかったというだけなのかもしれない。
――ずっと忘れていたこの気持ちは、とても暖かかった。
○
目が覚めた時、套逸は見ているこっちがほほえましい気持ちになるほど、気持ちよさそうに眠っていた。彼を起こさないように、そっと手を添えて起き上がると、木々の間から黄金に輝く朝陽が眩しく目にかかった。
外で眠った割に体が冷えていないのは套逸を抱えていたからだろうな。
不意に套逸がなぜこの姿になったかがわかったような気がして、その報われない優しさが、きっと彼の良いところなんだろうと思う。
昨夜は、私としたことが不覚にもあのもふもふの中に埋もれてみたいという欲求に勝てず、彼を抱きかかえたまま眠ってしまった。彼が先に起きていなくて本当に良かった。もし彼が起きていたら……状況の説明の前に大変な誤解が生じかねないところだった。
しかし彼のおかげで久しぶりに快眠できた。今度また頼んで一緒に……いや、だめだな。彼も一端の男だ、つい我が子を見るような目で彼を見てしまうが、彼だってきっとそんなことは気恥ずかしくて嫌がるだろう。そこは大人として、しっかりわきまえておかなければいけない。
でも……たまには頭を撫でるくらいはしてもいいかな?本当はあのもふもふの尻尾に抱きついてその柔らかさを全身で味わいたいところだけど、さすがにそれは大人げない。
(さて、そろそろ朝の稽古を始めるとするか)
日課として朝起きたらまず真っ先にこぶしを振り、精神統一をするというのは欠かせない。 それをしてようやく一日が始まるというものだ。しかしそのための準備運動も外すことはできないな。
立ち上がり、腕を回して身体をほぐしながら、今日一日の予定を確認する。
昨日のうちにやっておきたい仕事もあったのだけれど、套逸が来たことで中断したままだ……彼の要件を聞いてから片づけておかないといけない。或いは、彼のが聞きたいと言っていたことも、この仕事に関係があるかもしれない。もっとも、もしそうだった場合彼にはいろいろと手伝ってもらいたいことがある。
ふぅー、と深呼吸をし、肺の中の空気を改めると、まっすぐに拳を突き出した。さぁ―……、という風が巻き起こり木々の子杖を揺らした音を聞きながら、片の脚を引き、逆の拳を突き出す。心身一体となり心と体の調和に空気の流れさえも取り込み自然と一体になる。そうした中で、なんということもなく無我の境地へと片足を踏み込む。もはや目を開いているか閉じているか、そんなことは関係なく空気の流れその総てが自らのに味方する。囚われていたしがらみから解放され、緩やかな流れと同化する。
それは一種の神技のようでもあった……
風を感じて目を覚ました。
(いけない、狸寝入りのつもりが本当に眠ってしまった)
寝ぼけざまに上体を起こすと、息をすることさえも忍ばれるような透き通った気配を感じた。見ると、その気配の正体はサキが太極拳のような流線的であり、同時に空手のように真摯な鋭さを併せ持った、独特な体術に没頭していた。
それが異質ともいえる存在感を放つのは、きっとその一途な集中の果てにのみ覗きみることのできる、森羅の理を体現しているのではないだろうか。彼女の命の脈動のつつがなさを、自分自身と鑑みるとついため息が出てしまいそうなほどちっぽけなもののように感じた。
吐息の代わりに、「すーごいなぁ」と自分でも聞こえないほど小さな声で呟いていたことには、ついには気づかなかった。それほどまでに、彼女のその雰囲気に圧倒されていたのだ。
風前で灯台の火がそうするように彼女の姿が揺らいだ。人の姿に戻るときに生じた空間の淀みがそれを起こしたのだ。普段なら気にならないそれも、彼女の前では悪事を働いたように思えて、ひとり罪悪感にさいなまれた。後ろめたくなるようなことは何もしていないはずなのにどうしてだろうか。そんなことを考える余裕があるだけ、僕は存外自由奔放なのかもしれない。
そうして冷静に自分を肯定しているうちに罪悪感も消え、落ち着いた気持ちで今朝のこと、そして昨日聞きそびれたことを考えていた。
この状況で改めて振り返ってみると、もしあの時彼女を起こしていたとしても、彼女はたいして気にも留めなかったのかもしれない。そんな気がしてきた。しかしそれももう後の祭りで、真偽を確かめるすべはないし、それに今この上なくうまくいっているのだからこれ以上どうこう考えるだけ時間の無駄だろう。
きっと彼女だってわかってくれる。
僕は地面に寝ころび、あごに手をついて彼女のことを見ていた。
……
少しすると彼女は一連の動作を終えてふぅー、と吐息するように肩を落とした。そしてやおら目を開くと朝日の眩しさに目を細めた。僕は頃合いというように立ち上がると、彼女のそばに寄った。
「おや?」
彼女は僕を見て少し不思議そうな表情をした。
「その姿に戻ったのか……」
「まあね」
なんだか心底残念だとでもいうような言い方に、僕は苦笑い交じりに答えた。
意図して戻ったわけではなく、習慣として日中の姿に戻ったというだけだったのだが、彼女の反応を見るに正解だったかもしれない。もっというと、彼女の前で不用意に鼯鼠の姿になることは自殺行為ということだ。
そうして何ともいえない空気が流れた後、僕は話題を変えるように、
「そういえば今日は何か予定があるの?」
そう聞いた。
自分ではなかなか自然な感じに話をそらせたような気がする。「そうだなぁ」と、彼女は考える間を埋めるようにゆっくり言ってから、「ああ、いくらかしなければならないことが残ってる」といった。
「まあ、そっちの用事を先に済ませられるなら、そのほうが助かるよ」
彼女はそう付け足すと、僕に無言のまま発言権を譲った。
やっぱり僕と違っていろいろやることがあるんだなぁとすこしうらやましく思いながら、彼女のためにもなるべく早く話にけりをつけなければと思った。
早速僕が事情を話し始めると、彼女は真剣に僕の話に耳を傾けた。折り目を見つけて「なるほど」や「つまりはこういうことだな」など、いろいろと話に前のめりで質問とかをしてくれたので、話している側としてもとても話しやすかった。はじめは他愛もない世間話はしないつもりだったが、それでもつい関係のない近況まで話していた。特に詰まることもなくすらすらと話ていく中で、諏訪子のことや、洩矢のこと、それから最近はあまり外に出る機会がなかったことなどを話していった。
そして、耳にした噂では大和の神というのが何やら勢力を拡大しているらしいというが、そのことについて何か知らないかと、必要な要件をすべて一口で言い切る勢いで話し終えた。久しぶりに心行くまま話ができて、僕は満ち足りた心地で息をついた。割とハイペースな話し方だったにもかかわらず彼女は最後まできっちり聞ききった。
僕が素直に感心していると、彼女は浮かない顔で話の整理をするように頬をさすりながら何かを頷いて話し始めた。
「套逸の話は大体わかった、一部神様と親しげに接していたような言い方をしているのが気になったが、それであの神気の理由もわかったし、それに私のほうもいくつか役に立つ情報が手に入ってよかった」
「それはけっこう」
「それから、気にしていた噂というのは本当だ。旅人が、そう話をしているのをうちの仲間が聞いていた。まだこの付近で何か大きなことは起きていないから皆さほど問題視していないが、私も何とはなく気にかかっていたんだ。大和の神々ともなれば、それこそ強大なものだ。いまいる土地神や野良神であれば大したことはないのだが、曰く人に味方してきたそれが、その力を振りかざし人の敵たる私たち妖怪に対抗するともなればこちらとしても黙ってはいられなくなるからな」
冷静に思うところを述べた彼女は言い切ってから何かを考えるように目をつぶった。
やはりサキは話の本筋がよくわかっている。それだけでも此処に来た価値があったというものだ。
「もっとも、神とやらがその力を人のために使うということは、人が神を崇め、何かしら神の望む対価の支払いを必要とするはずだ。神が直接妖怪に干渉するということはないはずだが、それでも巫女のように神の力の一端をその身に宿した人間となれば話が変わってくる。それだけでなく最近では妖怪退治を専門とする人間がいるということも問題だ。信仰や修行によって、人の身でありながら大層な術を扱う彼らに、それまで優位を保ってきた妖怪側が押されかけている。人間のほうも生きることに必死だからな、強力な妖怪がいる場所には、それこそ強大な力を持った人間が寄ってたかって大妖怪の討伐に乗り出しているんだ。そのせいで新参者は迂闊に人里近くへ降りることもままならない。……そうやって多くの仲間がやられた」
……彼女が語った話はつい最近のことかもしれない。ただ、それはいつの時代も成り立ってきた、人と妖怪の関係そのものであったのかもしれない。僕が人と仲良くやっていく術を考えていく間に、多くの人間が妖怪によって屠られ、多くの妖怪が人によって倒されてきたという歴史と事実であった。彼女はそれを目の前で目撃してきた。大切な仲間が討たれる瞬間を見てきたのだ。
僕が話をしていたときに、彼女が顔を雲らせた理由が分かった。人に恨みを持つ彼女の前で、僕はあろうことが人とうまくやっていけそうだとほざいたのだ。普通に考えたらものすごく相手の機嫌を損ねるし、憤慨されて当然なのだ。しかし彼女はそのことには触れず、重要なことだけを浮き彫りにして話を進めた。その時の感情で相手のことを考えずにくっちゃぺっていた僕とは大違いだ。
彼女が僕を責めなかったのは、僕の目指しているものが、僕の母さん、華飛天が周囲を気にかけず、憑かれるように考えていた理想像そのものであったからだろう。母さんは確かに一時はそれを実現していた。しかしそれも人間によって裏切られた。それでもなお、母さんはあきらめてはいなかった。
――サキと母さんは気心の知れた仲だった。母さんの願いを、密かに応援していたのもまた、サキだった。今は、どうなのだろうか……
僕は下を向き、ボソリとつぶやいた。
「ごめん」
心からの言葉だった。無神経にいろいろ言ってしまったのだ。これでは足りないと思う。
彼女は肩を落とすと呆れたとでもいうように首をふっていった。
「なにを謝っているのさ、套逸は、謝ることなんてない。あなたはあなたで頑張っているんだから、それでいいじゃないか」
何をとは言わなかったかもしれないが、それでも彼女が言おうとしていることは痛いほど伝わってきた。
こんなところでも、彼女は一言も僕を責めなかった。そのことが、すすきヶ原を風か抜けるように、静かなさざ波となって僕の心を通り抜けた。
「そう、かな……」
「ええ」
「このままでもいいのかな」
「もちろん」
「じゃあ」
「なんでも、だよ」
彼女の言葉が嬉しかった、自分で自分を否定しかけていた僕は、彼女の有無を言わせぬ言葉に励まされて顔を上げた。味方が一人いると思うと、気持ちがずーっと楽になった。
母さんもこんな気持ちだったのかな……
なんとなく、無邪気に笑えるのはずごいことなんだなぁ。と思えた。でも、彼女がいれば、僕は笑えると思う。信じてくれている人がいるから。
それに、僕は知っているはずだ……いや、僕しか知らないはずなのだ。人間であれ、神様であれ、ひいては妖怪であっても、表層の上澄みを丁寧に退かして内側を見れば、そこにあるものは皆同じだということ。すれ違う役回り同士だから気が付かないだけで、同じ仲間だと思って接することができれば、きっと上手く行くということ。
僕しか知らないことだから、僕は僕なりの方法でやるしかない。当たり前のことだったはずなのに、目の前のことばかりに集中していたばかりに忘れていた。
初心に帰り、心を洗われたような気持で頷いた。
「そうだね」
僕は無知だったかもしれないが、それでも信念を曲げてしまったら、この世界に僕を生れさせた彼女に合わせる顔がない。
「うん……よし、それじゃあ本題に戻ろうか」
そのためにも、しっかりとやるべきことをしなくてはならない。――いつでも自分を貫き通して。
「少し聞いておきたいんだけど……サキは仲間を奪った人間が憎い?」
僕がそう聞くと、彼女は自問するように目を泳がせ、そして噛みしめるように、「……ああ」と答えた。
「それじゃあ、すべての人間に責任があると思う?」
「いいや」
今度の問いにはすぐに首を振って否定した。彼女は言葉をつづけ、
「彼らにも営みがある。非力でも、そこで精いっぱい生ている生き物を否定することはできない」
「よかった」
套逸はきっとそう言ってくれると信じていたというように、ニタッと笑っていた。
遠い昔に、私はずっと華飛天の味方でいることを決めた。妖怪でありながら人を好いた彼女に共感したわけではなかった。ただ、一つの信念によって周囲から否定され続けてきた彼女を自分と重ね、そばで見ているうちに、放ってはおけなくなっただけだった。……そして、共に同じ時を過ごす中で、私たちは意気投合し、その中で私は彼女が人間を……人を好きになった理由をその身で感じて、気づいていった。
――人は、私にとってとても無力な存在だった。私はその存在を気に留めることもなく己のために利用してきた。ただ暇つぶしに人の子を攫い屠っていたことすらもあった。思えば、華飛天との出会いはその時で、それを止めさせたのも彼女だった。そしてそれは同時に、私が初めて人の痛みを知った時でもあった。この出会いがなければ、私は今も人のことは虫けらのようにしか思っていなかったのかもしれない。
彼女は本当に等しく全ての生き物に接していた。私に人の心を諭した彼女は、『否定される』孤独を身にまとっていた。力ですべてを制してきた私は、自分から『否定する』孤独を感じていた。
両者が出会うのはある種必然だったのかもしれない。彼女に出会い、心を入れ替えると誓った私は、彼女の語る人という生き物についてを聞いていた。彼女の語りを聞けば聞くほど、人間が決して無力な存在ではないこと、妖怪が知らない何かを持っていることに気が付いた。
しかし、私にはどうしても人間を好きになることができなかった。人という生き物が希薄なものではないことが分かればわかるほど、あまりにも複雑な思いの交差や、お互いを思いやる心の深さ、命の儚さを知ることになる。彼女が人を好きな理由はきっとこういうことだろう。しかし人はそれほどまでに素晴らしいを持っているにもかかわらず、互いに争うことをやめない。嘘をつき、騙し、強がり、欺瞞を重ねて生きていく。なぜ、彼等は素晴らしいものを持ちながら、それを伸ばす努力をせず、怠惰に流されてしまうのか、そのことが不可解で、腹立たしかった。
華飛天は、それを人の未熟さといい、人間が人たる証だといった。
しかし私には、ただでさえ短く、尊い命であるのに、なぜ……と思わずにはいられない。
彼女にそれを聞くと、決まって悲しげな眼をして、何も答えずに話題を変えるのだった。彼女がどんな気持ちでいたのかは、今でも分からない。
ただそれでも、人は過ちの数だけ学んでいるのだと云う彼女の言葉は、今でも胸の内で確かに意味を成している。
私は人好きになることはできないが、彼等を否定することもできない。それは何も知らなかった私がしてきたことだから……
「それじゃあ……」
套逸の声に彼女の声が重なって聞こえてくるような気がした。
「なんとか融和の道を探さないとね!」
套逸はやはり、彼女の息子なのだと、そう思った。
この場では初めてとなります、ノブです。
これまで読んで頂いて本当にうれしく思います!!
今回はちょっと補足があってこの場をお借りしました。
気づいた人もいるやもしれませんが、鬼子母神についてです。
お察しの通り、作中では鬼子母神の成立ちについて、現実とは大きな相異があります。
詳細は自力で調べていただくとして、実際は人の子を攫っていた鬼を、御釈迦様が諭し、子を守る神となる誓いを立てたんだそうです。
今後も現実を尊重しつつも、若干の自己流解釈が混じっていくことはご了承を。
さて、ここまでいろいろ書いてきたのは他ならぬ読者の皆様のおかげです。
これからも末永く、どうかよろしくお願いします。




