第十九話 月のない夜
「……だからあれだよ……つまりはそういうこと」
一通りのプランを伝え終わって一息ついた僕は会話の締め括りにそう言った。この頃にはあの興奮もすっかり静まっていた。
説明にさほど時間がかからなかったことは嬉しい誤算だった。これでゆっくり眠ることができる。……いや、正確には僕はこれから数日此処でじっとしていなければならない。と、いうべきか。
これは世の中には人間に害となる妖怪ばかりではないのだということを証明しなくてはならないのだからどうしようもない。しばらくの間彼女……洩矢諏訪子と同じ屋根の下暮らしていくとは思っていなかったけど。
「……なるほどね。でもそんなにうまく行くと思う?」
「ごもっともな質問だね。でもそこは僕じゃなくて君の技量次第ってところじゃないかな。ただ、あまり心配はしていないけどね」
そう、この作戦の根幹は彼女の技量、つまり信仰の度合いによって左右される。彼女がどういう形で影響力を持っているのかはよく分からない。ただ、この神社には神に仕える者がいない。巫女も、神主も、その他神職につくものの姿を見かけない。これほど大きな神社なのだから一人くらいそういう人がいてもいいと思うのだけれど……
このことが意味することの意味は計りかねるが、一つ確実なのは、そういった神職に着く者がいないと信仰の形は神の意に反して歪なものとなっていくということだ。彼女にはけなさなければ僕をピースにしてもいいと言っている。
(さて、それを彼女がどう捌くかだね)
僕は宗教とかそういうものには疎いけれど、なんとなく思想の共同体のような気がするんだよね。同じような考えのもとで生き方を決定していく。そしてその象徴に神というものがいる。そんな感じだろう。
彼女の発言が民衆の支持を得るためには、それまでの彼女の行いが認められていなければならないだろう。選挙の信任、不信任みたいな感じかな。そこで多くの民衆の信頼を勝ち取った者が強いのは当然だ。それから、選挙にはマニュフェストというものがある。政権公約とかいうやつだ。つまり「私は民衆のためにこんな事をします!」っていうあれね。その内容が実現されればより多くの信頼を勝ち取る。でも、実現されなかったり、全く関係のないことに力を入れたりすると、今度は反感を買う。
神様の場合はこのマニュフェストが信仰によって得られる祝福で、豊作だったり災厄への保護だったりするわけだ。……たぶんね?
まあ真偽はそこに居る神様本人に後で聞くとして、本題に戻ろう。
「それで、やることは分かってるよね?」
「大丈夫」
「よ~し、それじゃあこのアホくさい風習を改革しようか」
景気づけに軽く口から出てきた言葉は、どうにも彼女の反感を買ったらしく、コメカミをヒクつかせながらイライラした言葉が飛ぶ。
「それ、喧嘩売ってる?」
そこから放たれる邪気に圧倒されて、
「いや…違うって……」
反論の言葉も尻すぼみに小さくなっていく。
やっぱり彼女は神様なんだなぁ……と、今更ながら実感する。僕が感慨深く思っていると、
「さぁて!生贄なんて無くしてしおう!」
と、今度は彼女の方が張り切った声を出す。
なんだ、自分で言いたかっただけか。総納得して一人頷き、彼女にグッドサインをおくる。
「おっし、そのいきだ!」
「はぁ?」
「さぁせん」
ふぅむ、女心というものはよく分からない。
「まあいいや後はよろしく僕は寝る」
最後の一言は句読点もなく単調なものとなってしまったけれど、今日はこれでおしまいだ。
マントで身を包み、目を閉じて僕は夜闇に身を落とした……
「やはり少し待った方がいいんじゃないか?」
一人、急ぎ進められる生贄の儀式に足を止めるように進言する若者がいた。
彼は最近になって新たに洩矢の統治に入った村の頭取の息子だ。村長の体調がすぐれないために、代わりに主席を頼まれたのである。
しかしそんな彼の声を聞こうとする者は一人としていなかった。
眉間に皺を寄せ、憤慨したといった顔でまた声を上げる。
「誰かおかしいとは思わないのか」
「若造は黙っていろ!」
一喝した声の主はこの場での最終的な決定権を持つ本国の長だ。自分達の信じている神こそが真の神であり、それ以外は邪神だ、と頑なに信じている一人だ。この席にいる者は大多数がこの考え方を持っている。
他所から来たばかりの自分にとっては正直なところ異常というほかない。父の話を聞く限りでは、かなり強引な方法で引き込まれたらしい。
そんなわけで此処にいるのはとても居心地が悪い。自分をこんな所へ送ってよこした父への苛立ちがつのる。
(まったく、何が大地震だ。そんなものを人質なんかでどうこうできるものか)
喉元にまで上がっってきた言葉を飲み込み、代わりにため息をつく。これまで信仰していた神の御加護は豊作と安住。だが、その為に人質を立てるなんていうことはしたことがない。
(こんなに馬鹿げた神がいるというのならぜひとも会ってみたいものだ)
一人微笑を浮かべながらこの場に居るものを見据える。
彼らによれば昨日のあの地震は何者かが洩矢神とかいう神の逆鱗に触れるようなことをしたからで、早く手を打たなければ今度はもっと大きな地震が起きるのみならず、ミシャグジとかいう神により疫病が蔓延するというではないか。
その時、ふと小屋の外で光る影を見たような気がした。自分の他にあの光を見たものはいないようだ。
妖の類かと思い、懐に手をやり目を鋭くして格子窓を睨む。懐には此処の傘下に入る対価として渡された鉄製の小刀が入っていた。しばらくの間睨み通すも、ついには、「どうした?」と周囲の視線が集まるまでに見えるものはなかった。
「なんでもない」
ここで光るものを見た、なんて言ったらどうなるか……きっと変人扱いされて終わりだ。
(まったく神様とやらは位が高いようで何よりだねぇ……おかげでこっちはこんな面倒くさいことに突合されてるっての)
自分に視線が集まる中、今度こそ確かに、小屋の外で光るものを見た。――あれは見間違いじゃない。確かに、何かがフヨフヨと動き回って、誘ってやがるのか?
全身の毛が粟立つ。鬼火というものを思い出したからだ。
「少し用を足してくる」
そう言い残して小屋を飛び出した。鬼火に誘われて出ていくことは気が引けたが、鬼火が出るということは何かが起きたからに相違なかった。それに一刻も早く外の空気を吸いたいと思っていたから迷うことなく外へ出た。
小屋を出ると、先程光をみた場所の近くまで走っていった。
(何処に行った……)
ぐるりと見回してみても特におかしなものはない。自分の心臓の鼓動がいつもより早くなっていることばかりが月光の中に響く。
流れる雲に月が隠れ、辺り一帯が闇に包まれる。
そんな時だった。
「ちょっといいかしら」
その声を聞いた瞬間に今日一番の不信感を覚えた。こんな夜中に子供の声がする。しかも相手を下に見たような大人びたしゃべり方だ。
まともな子供がこんなふうであるはずがない。
ゆっくりと振り向きながら毅然とした態度で問い詰める。
「魔性の者が何の用だ」
そこには、白い蛇を手懐け、濃い黄金色の目で見下した少女……いや、幼女がいた。怪しさを際立たせているのが、その気味の悪い帽子で、壮大な目玉がご丁寧に睨んでくれている。この闇の中、不思議なほどハッキリとその姿が見える。その事がより一層浮き出すような存在感を際立たせている。
そんな彼女が口を開いた。
「魔性者とは酷い言われようだねぇ。せっかく貴方を見込んでわざわざ赴いたというのに」
やはり癪に触る喋り方で嫌な感じだ。
「なんの目的で此処に来た」
「……その態度を見込んできたんだ」
?
先程から、「見込んで」と何度も言ってくるが、なんのことだ。
「貴方、生贄なんて馬鹿げているし、そもそも神様なんていないと思ってるでしょ」
「!?」
小屋に中で考えていたことが筒抜けなように少女は心境を言い当てた。
「何が目的だ」
再度問いかけるも、その声には明らかに動揺の色が滲んでしまっていた。そして楽しむように彼女は喋りだした。
「生贄、なくしてみない?……」
「……お待たせした」
眉間にシワを寄せ小屋へと戻った。月の光も届かない小屋の中は灯台の照らす光のみが頼りだった。
「なんだ?雑草でも食って腹でも壊したか?」
どっと笑いが起きる。……この屈辱に拳をお見舞いできるとしたらどんなに気が晴れるだろうか。この場はギリギリと歯ぎしりをするに留めて、(これに頼ってみるか?)と、一団の机上に「鉄の矢尻」を置いた。
――途端に空気の気配が変わった。そして、恐る恐るといった声音で口を開く。
「これは……いったい何処で?」
「外で神を名乗る少女から渡されたものだ。なんでも、この国にとって重要なものだとか……」
意味深なことを知っているような口調で発した言葉にはどこか胡散臭さが混じっていた。
しかしこの鉄の矢尻があの少女に渡されたものだということは紛れもない事実だ。そんな様子には目もくれず机上のそれに視線が集まる。
「これは確かに我らにとって重要なものだ。しかし、なぜ今これが……」
血相を変えて落ち着きなく何かを考えている。
「これが一体どういうものなのか、誰か教えてくれないか?(これといって何か特別なものとも思えないのだが……)」
「神の御加護の一つ。何か大きな過ちを犯そうとしている時に何所からともなく現れる、一種の象徴のようなものだ。しかしいったい何を……」
なるほどな。こういうもので将来の指針を示しているというわけか。
……あの神様も周りくどいことしてるなぁ。
「それにしても此処にいるのは能無しのぼんくらだけなのか?どうして誰もその過ちが何なのかに気が付かないんだ」
鬱憤がたまっていたこともあって、かなり皮肉がかった言い方になった。
あぁ、こういう言い方すると……
「なんだ?何か知っているとでも」
予想通り、相変わらず鼻につく言い方で聞き返される。
このままではどう転がってもこいつらとは上手くやっていける気がしない。
「それを持ってきたのは誰だったか忘れたのかよ」
「だからどうした」
ああもう、素直に「そうだった」で済ませればいいじゃないか。何でいちいち突っかかってくるんだ……大した力もないくせに。
「(はぁ)だから、生贄が間違ってるんだっての」
「し、しかしこれは、正規の手段によるもので……」
なんだ?生贄を否定しただけで途端に狼狽したじゃないか。
そういえばあの少女こんなことを言っていたような……「……貴方の一部の発言に一時的に神権を付与するようにしたから……」とかなんとか。話を聞いた直後は何を言っているのか分からなかったが(そもそも本気にしていなかったし)これのことか!
いやぁ、なんだかいい気持ちだな。
「まあその正統な手段ってのはよく分からないが、つまりは人質ってのが馬鹿げてるってことだ」
「……」
なんだかなぁ、黙りこくっちゃて、いい気味だ。
「それから、神様が今後についてアンタに話があるってことで次の新月、亥の正刻に社へ参れとの事だ」
多くの者のが目を伏せる。その姿は、家族の危篤を伝える責務を託されたかのようであった。
――灯台の火が尽きた。
「はぁ……」
あの時、あの妖怪の云うことは面倒なだけだと思った。無駄なことだとも思った。自分の力を過信していた。
でも、実際に足を運んでみて思った。――このままだと諏訪は内部から崩れる。
完全な傲りだった。力さえあれば信仰の方が追いついてくると思っていた。正直この現状には危機感を覚えざるを得ない。もし、あそこで何もしないでいたらどうなっていたか……
神は信仰を糧とし、信仰は神を確固とする。神は万物に対する本質に起因する。なるようになるというのはもうできそうにない。これではあまりにも情けない。
そんなことより今気になっているのは、
「……あんたいつまで寝てんのさ」
この妖怪、実に長いこと寝たままだ。
(あったかい)
膝にのせているとなんだか落ち着くのよね。
このまま永久持続の暖房として使おうかしら。
「ん……おはよう諏訪子」
なぁんだ、起きちゃったよ。もう少し「もふもふ」していたかったのに。それにさり気なく呼び捨てされたし。
「……嫌な感じがする」
「何寝ぼけてんの、早く起きなよ」
僕は今どんな状態だ?
――あたたかい。それから、子どもが覗き込んでいる。あれ、また眠くなってきた。
「起きなってば!」
僕がウトウトしているとうなじをつままれグラグラとゆすられる。
あ、マズい……何か怒られそうな予感がする。
咄嗟に身を捩り、考えるすきもなく押し付けるように質問をする。
「今はあれからどれくらい経った」
「えっ……」
自分が今、獣の姿だということには気づいている。覚醒直後の頭をふるい起こして、眠りにつく前のことを整理していく。
神社の境内でこの幼女神と出会った。そして、なんだかんだあって彼女の国を引っ張り上げる手伝いをすることになって、それで……
僕は彼女の返事を聞くことなく社を飛び出し空を見上げる。
(雲……いや)
空にまばらに散った雲は、月を隠すには薄すぎる。
「……そう、時は来た」
落ち着き払った声に宿った言霊を身に受け、木々たちがざわめく。右に立った脚の見据える先に提灯をかざした六十歳程の男が歩いて来る。
月のない夜には人は何も見る事ができないようである。
こっちは全て観えてるんだけど。その引き腰の歩き方も含めてね。
「よくぞ参った」
一言、単純な歓迎の言葉であった。それに男は膝を付き、頭を垂れ、深い々ゝ会釈の後に、
「このような謁見をたまわり、誠に有難き幸せ」
へえ、意外としっかりしてるじゃん。あのへなちょこ感はだいぶ払拭されたよ。そんなことに感心していると、隣で彼女が毅然としつつもどこか鬱陶しく思っているような声音で、
「面をあげよ」
といい、そっと僕の背を撫でた。
男は顔をあげると、彼女の手を追い、僕と目が合う。
「……して、かなり大きな従獣がいるようですが、こやつは」
従獣……か、そんなつもりは無かったのだけれど、傍から見たらそう見えるか。
僕は少し苛立った節を載せて言う。
「こやつ、という台詞は聞き捨てならないなぁ?」
僕がまだその存在すらも危ぶまれるような弱小妖怪ならまだいい、ただ、仮にも齢千を超える大妖に対する態度としては些か軽薄な発言だ。
身体から発せられる妖力のが少しづつ濃くなっていることには気づいている。しかし、あえて抑える必要もない。
僕が口を利いたことへの驚きか、それともこの身から出る妖力へのだじろぎか、或いはどちらともかは判らない、男は一歩、後ずさりをした。
諏訪子がその姿に眉をひそめて、僕に静止の声をかける。
「それくらいにしておきなよ」
僕は彼女の顔を覗き込み、目配せをして返事を待つ。彼女が静かに頷いたことを確認して僕は妖力を抑え、一歩後ろに引いた。
この意味深なやり取りをあの男も見ていないわけではない。しかしその意味を正確に捉えられているかは別問題だろう。
しばしの静寂が訪れる。
「さて、ここに呼び出したのは他でもない、この国の行く末について其方に話しておく必要があるからだ」
静寂を破ったのは彼女だった。
その声にはやはり言霊が乗っていた。たとえ耳を塞いだとしても、その声は一言も漏らすことなく聞き取れるだろう。まるで全身が耳になったかのような感覚というか、聞かないという選択肢が存在していないような感じ。
なんにせよ彼女は確実にその意思を通すことができるだろう。
「其方はミシャグジの祟りについてどう考えている?」
「――とても、恐ろしいものだと……」
声を発することに抵抗を覚えるような曇もった声は、この後に何が待ち構えているかを考えたくもないといわんばかりである。
神の質疑は続く。
「ではそれを身に受けたことは?」
「一度も、ございません」
絞首台に運ぶ足のように声が重くなってゆく。
「そうか――それではどの様にしてそれを防いできた?」
今度の問いかけに答えるまでに、今まで以上の堅い間があいた。
「……我らは、仰せに従い、生贄を以てそれを防ぎ、神のご加護を賜ってまいりました」
発せられた言葉は、まるで最期の時に仲間を庇い、全てをその身に背負うように、しっかりとした決意を感じるものがあった。
見極めるように鋭い眼差しで男の姿を眺めて、彼女は最後の質問をした。
「――なぜ、生贄を捧げたのか、答えてみよ」
男の口が開き、無言ののまま閉じる。喉元まで出かかった言葉をすんでの所で疑い、口から出る前に飲み込む。これまでのどれよりも単純な質問に、これまでのどれよりも長い思慮の時が必要となった。もどかしく開いては閉じる口が男の葛藤を物語っていた。そして何か合点がいったような表情になり、そしてすぐに歯を食いしばり、身を震わせ、ようやくの思いで男は答えた。
「それは……自らの愚かさを知り、戒めとするため」
「その通りだ」
正解したはずなのに男の顔から緊張は解れず、かえって強くいたたまれない表情となった。
彼女の質疑はまだ続く。
「それは守られていたか?」
「……いいえ」
「現状をどう捉える?」
「……すべては、私の慢心でした」
「其方だけの問題と?」
「その通りで」
すべてを覚悟した――そんな言葉だった。
「ならば其方には責任を取ってもらわねばなるまい」
目を閉じ、頭を垂れ、男は自らの首を差して言った。
「……承知しております」
凛とした、勇ましい佇まいだった。根はしっかりとした男なんだろうということがよく分かる。もし、目標を見誤らなければ……そう思うと惜しくてならない。
諏訪子はそんなことを思いながら目を閉じ、静かにこぶしを作った。
「よし、其方には一切の国事への参加を禁止する。そして、決してこの国を出てはならない」
「……?」
「後継には最近其方が引き入れた処の若者に任せてある。心当たりがあるのではないか?」
「……」
この所業は彼にとってあまりにも残酷だったかもしれない。いっそ殺してくれればという気持ちかもしれない。しかしそれでは意味がない……
「其方はじっくり戒めの意味を考えることだ」
「それはつまり……」
「もう下がってよい」
「……」
――男は山を下って行った。その足取りからは何も感じ取ることができなかった。
姿が見えなくなるほど遠くへ行ったところで僕は人の姿になり彼女の前に立つ。
「ねぇ、ちょっと聞いてもいい?」
「ん?」
緊張も溶けて、ゆったりとした調子で返事をしながら彼女は首輪傾げる。
そんな彼女に負けず劣らずゆったりと僕は聞いた。
「僕のことどう思ってる」
「うーん、そうだねぇー」
一応考えた風に間を作っているが、はじめから答えは決まっているというようにハツラツと答えた。
「変なやつに決まってんじゃん!」
「アハハ(もう聞き飽きたよその台詞)」
カラッカラに乾いた返事でやり過ごす。何度も聞いたとはいえあまり良い心地はしない。まああの場で僕が従獣と思われちゃったことはこの際水に流すとして、
「どうやったら変だとか言われなくなるんだか……」
「ま、嫌なら妖怪らしく人でも脅かすことだね」
「今更面倒な」
僕が愚痴っていると彼女は愉快に笑っていった。
「っならあきらめな!」
「トホホ……」
こんなときに……いや、こんなときだからこそ思うことがある。僕は妖怪なのか、それとも化けることを知った人か……とうの昔に結論をだしていたつもりだったが、僕はまだ心のどこかで迷っている。
妖怪として生きることがすなわち残虐非道の所業とは思わない。ただ、人を憐れむのも、また違うようなきがする。この広い世界の海原で、僕はドコへ向かって舵を切るのだろうか。今はまだ、焦るときでもないような気がする。ただ、いずれは選択を迫られる。それまでに決められるだろうか。
「疲れた顔してどうしたの?」
いけない、彼女に心配をかけているようではだめだ。
一仕事終わってほっと一息つくように、深呼吸をして夜の空気で肺を満たす。
(このこのは、今は忘れていよう……)
「何でもないよ」
「そうでしょうね、これくらいで疲れられたら堪ったもんじゃないから。大体何日寝たまま……」
「はいはい」
彼女の話を上からかき消す。お説教は聞きたくないよ。でも、此処にきて分かった。人々から恐れられ、慕われている神でも、厳しいばかりではない。普段は僕と話す気さくな少女と変わりない。ただ、尊厳だのが邪魔をしているだけ。どうしてみんながみんな友達にはなれないのだろうか。やっぱ複雑なのは嫌いだなあ。
さて、それじゃあ……
「いっちょ二人だけの宴会と洒落こみますか!」
「……のぞむところだ―――っ!!」
ふふふ、今夜は寝かせないぞー!と、僕が意気込んでいると
「ちょっと待って、宴会っていったい何するの」
と聞いてきた。
そんな彼女に僕は軽快に答えた。
「そんなんの酒吞んで騒ぐに決まってんじゃんか!」
「お酒は?」
「それなら大丈夫、ここにあるから」
僕は無造作に懐へと手を突っ込むと、そこから瓢を取り出した。なぜそんなかさばるものが懐から出てきたかっていうと、まあ御札の件と同じような原理で、ちょっと能力と妖術を使って小さな隙間にもそれ以上の容量を得るということをしたわけだ。中にはいつぞや僕が鬼に呑まされ、さんざんな目にあった鬼の嗜み(お酒)が入っている。その時の記憶がないことは幸いなのか、それとももどかしさを倍増させるだけなのか。昔のこととはいえ恥ずかしい出来事は忘れられないものだなぁ。と、思う。
志佳が見たらきっと笑われるだろうな。懐かしい仲間のことを思い出して感慨深く微笑む。
今の僕ならこのお酒にもシラフな顔はできないでも、冷静な判断の維持くらいはできるよ。そのために幾度となく誘われたお酒の誘いを断らなかったんだから。だいぶつらかったけどもし酒に狂っても、鬼の前なら何とかしてくれると思っていたし、前世で高校の部活の顧問に、「上下社会で目上の人に意見を通したいときは、酒の席で酔いに任せて押し付けろ」なんて役にも立たなそうな知識を教わっていたこともあったからね。
何日もそんなことをしていたら少しはお酒にも強くなるってもんだ。
今しがた取り出した瓢はその席のどれかで貰ったものだ。どうにも『いわく付き』のものらしい。長いこと使い続けて付喪神が宿っらしい。そうなっては落ち着いて酒も入れられないのでなんとかならないかと聞いたところ、その付喪神から永く使ってくれた礼に、自分の分身としてくれたものらしい。そんな大事なものをなぜ僕にくれたのかは、聞かないほうが賢明かと思ったから聞いていない。こんなようなものだけど、まあ問題はないだろう。お酒の質も保たれることだし、また付喪神になったりしないから。
「よーし!じゃあ始めるか!」
諏訪子の持ってきた盃に、なみなみとお酒を満たして一気に飲み干した。
「うわっ!なにこれ度数つよ!」
あの瓢、質を保つというより、時間をかけて熟成させるような感じなのか……
――それ以降の事はよく憶えていない。




