第一話 妖怪
「なんだこれ」
恐る恐る顔を上げた僕の周囲には、それまで何人にも手を加えられていないことを示唆すかのように乱雑に草木が生い茂っている。しかしそれでいて美しい深緑と黄昏色の木々の凛とした佇まいは一種の美徳的なものを想起させる。
そしてそれらの木々が全てを優しく包み込む様に林立している光景はなんとも幻想的であった。
僕から見て正面、少し開けた場所に腕を組み、サンサンと降り注ぐ木漏れ日を浴びながらこちらを見つめている少女がいた。
僕と少女の間を静かに風が吹き抜ける。
少女が口を開く。
「……ようやく起きたか。まったく、おぬしはいつもこうじゃな」
少女はその幼い容姿に似つかわしくない古風なしゃべり方をする。
この少女が何者なのか、僕には検討もつかない。そして、少女がなぜ「いつも」と言ったのか、それから僕がなぜこんなところにいるのかはどんなにまじまじと少女を見ても一向に分からないままである。
先程まで感じていた未知のモノへの恐怖心も不思議と溶け去り、言葉を探すように空いたり閉じたりしている僕の口は意識が追いつくまえに、「きみは、誰?」と尋ねていた。本来ならもっと他に聞くべきことが幾らでもあったとは思う。
ただ、一番すんなり口から出た言葉がこれだったのだ。
僕の質問に少女はかなり驚いた様子であったが、すぐにこう答えた。
「誰とは、おぬしの母親ではないか!」
「……はぁ!?」
一体彼女は何を言っているんだ……?あんな小さい子どもが僕の母親だなんて、そんな馬鹿げた話があってたまるか!!
目の前に繰り広げられる光景と、彼女の言葉がぐるぐると回って、目眩がしてきた。そうして額に手を当てると、一つの考えが頭に浮かんだ。
……そうだ、きっとこれは夢に違いない……そうだそうだ、だからこそこんな現実離れした話がポンポン飛び出してくるんだ。
そうに違いない!
混乱していた頭も一つの解を見つけていくらか冷静さを取り戻した。
ふむ、夢がなかなか自覚できないというのはどうやら本当だったらしい。
……夢かどうかを確かめる定番といえばこれだよな。
少し気が引けるが僕は自分の頬っぺたを摘まんで、ギュ――!っとの限りつよく引っ張る。
どうせ夢だし痛みなんてないはずだ、というのが予想であり理想だ。
「痛いっ!!」
あまりの痛さに思わず大声で叫んでしまう。目から涙がジワーっと溢れてきて、それと同時に「何でもう少し手加減しようとは思わなかったんだ」と、心の中で自分自身を責めたてる。
さらにいうと、夢であることの証明で、これが夢で無いことの証拠を作ってしまった訳だから心の方も泣きたくなる。
僕は最後の希望を込めて少女へ問う……
「冗談……だよね?」
これでもし少女が嘘と言わなかったのなら、僕は一度この少女の話を信じてみることとしよう。
頼む冗談だと言ってくれ……
切実に、そう願った。出来の悪いサブライズならどれほど良いだろうと思った。
「儂は嘘は言わん……ところでさっきのあれは何をしておったのじゃ?」
僕の切実な問を少女は真っ向から否定してきた。
「はぁ、訳が分からないよ……」
心の奥底から出た静かな吐息であった。
「?まったく寝ぼけおってからに、川で顔でも洗ってくるんじゃな」
どうやら少女の中で、僕はただ寝ぼけているだけだと判断されたようだ。まあ無理もないだろう、彼女からしたら自分の息子が突然他人のような態度をとるのだから……
これでもし少女が質の悪い冗談を言っているのだとしたら、これは相当な名演技だと思う。
ハリウッドやら宝塚にでも入ったらいいのではないだろうか。
宝塚の演技を観たことは無いのだけれど……
はたしてこれは現実なのか?はたまたただの幻覚なのか……
ああ、僕はいったいどうしちゃったんだよ。
そんな絶望にも似た感情が全身に重くのしかかる。
依然としてその場を動かないでいる僕に対して小女は、
「ふむ……妖怪としてから間もないからの、いろいろと勝手がわからなんじゃな」
と、独り言のように呟いてうんうんと頷いている。
あぁ、まったく何がどうなっているんだか、さっぱり見当もつかない……
はじめ……起きた直後と比べれば少しは冷静に考えられるようになってきた。だが……それでもまだ彼女の言っている言葉の意味が素直に受け入れられない。
ただ一つ、判っていることがあるとすれば、此処が僕の知らない何処か田舎の山奥である事だけは確実だろう。
その他はサッパリ検討もつかない。
分からないことはいくら考えても余計に訳が分からなくなるだけだという主義の僕はとりあえずそれを一旦放っておいて、今の状況の整理をするために少女に気になったことを聞いていく。
「妖怪って何?」
別に妖怪自体を知らないわけではないが少女の言う妖怪がほんとに僕の知っているようなものなのかすら分今の僕にはからないから――すでに僕の常識では通用しないものが多々あるうえに、今は少しでも情報が欲しかった――だがら一応聞いておかないといけないだろう。
認識の相違を避けるため、とかいっておけば賢く聞こえるかな?
僕の質問が相当あほらしかったのか、少女は少しあきれたようにこう答えた。
「何とはなんじゃ、おぬしが妖怪であろうに」
「……」
(いまなんて言った。なんか僕も妖怪とか言わなかったか?!それは一体どういう……)
少しとはいえ晴れかかっていた頭の混沌がまた振出しに戻ったように、寸分の先も見えないような靄に埋もれたような気がした。
彼女がいう妖怪が何であれ、今もっともその言葉が似合うのはこの少女の方だし、まさか僕がその妖怪ということはないだろう。
「まだわからんようじゃな、では一からでは教えるとするかの」
黙っている僕の心を図ってか少女はそう話し出す。
どうやら妖怪について教えてくれるらしい。願ったり叶ったりというか、ここは素直に彼女の話を聞くとしよう。
「……妖怪とはな、簡単にいえば人間の恐怖が実体化したものなんじゃ」
なるほど、って事はあまり良いものではなさそうだな。
ということは僕は違うか……(汗)
だってそうじゃないか。僕はこれまで間違っても他人から怖がられるような事をした覚えはないし、たとえ僕に非があったとしても、実体化するほどではないだろう。
そんなことを考えている間も彼女は説明を続けている。
「……にも、動物が長い時を生き、自然に妖力を得て妖怪になることもあるのじゃが、その場合でも人の恐怖心無しでは弱い妖怪は消えてしまうじゃろう」
「なんか色々大変なんだね」
「さよう、さて、これから話すのがおぬしにかかわってくるのじゃが」
「ほう」
これまでのは違うのか……?
「動物の妖怪の場合、その子も妖怪になる場合があってじゃな、殆どの場合は普通の動物として生まれるのじゃが、時折親の力を受け継ぐことがあるのじゃ、して儂のような妖力の強い妖怪ほどその子が妖怪になる可能性が大きいのじゃな!」
「えっへん」と言う声が聞こえてきそうな感じで胸を張り、しれっと自分を自慢した彼女だったが、ここで少し目が泳ぎ、何かを躊躇うように一息おいてから話し始めた。
「じゃがおぬしは儂の力を受け継がなかったのじゃ……儂はそれが許せなかった…儂ともあろう者が自分の子を妖怪として産めぬなど、断固として許せなかったのじゃ。だから、だからの……儂が後から力を分け与えたのじゃが、その……な、なにぶんこのようなことは初めてだったからの…少しばかり力を多く与えてしまったのじゃ……」
尻すぼみに小さくなっていくその声に、初めて自信のない色が滲む。
だからこそあえて強く、
「はぁ、なんかプライド?みたいなものがあって、自分の失態が許せなかったから帳消しにしようとしたけど、それも失敗したと、そういうわけか」
と言う。
『グスン』と縮こまる彼女をみて、少し強くあたりすぎたかという罪悪感がこみ上げる。――これではまるで僕が意地悪をしているみたいじゃないか……
「でも、力を多く与えたところで、何か悪いことでもあるの?」
彼女のため、というより自分のために話題を転換する。
少女は少し考え込み、
「それはのぉ、これは儂の推測なのじゃが、おぬしが儂の力を抑え込めるようになるまで、おぬしは不安定になると思うのじゃ」
と言った。
『不安定』という言葉が気にかかるが、彼女はそれに関心を示したふうではなく、あっさりと流して、「他にも……」と話を続けた。
彼女が話を続けている間に、僕はどうして自分が此処に居るのかを考えていた。
もしあの子の言っていることが本当ならば、あの子は本当に僕の母親ということになる。そしてそれは自分が小女のいう「妖怪」であるということでもある。
ここにきて僕は初めてしっかりと少女を見た。赤茶けたセミロングの髪からちょこんと出ているのは、少し丸みを帯びた三角の獣耳で、それはどう見てもヒトのものではないし、彼女の後ろから見え隠れしている身の丈ほどもあろうかという長い尻尾も、さも針金で作られた偽物では無いことを示すかのように左右にゆらりゆらりと揺れている。服装に関して――僕は着物には詳しくないが――は、下は狩衣のようにも見えるけど、でも上は紬と小紋の中間といったところで、動きやすさと気品を合わせもった感じがする。
色は朱色をベースに縁は、黄緑色で仕切られ、袖先は真紅の市松模様になっている。肩から腰にかけて着物に合わせて斜めに入っているもみじ模様は秋を彷彿とさせる。肩には地面に付きそうなほど長い赤茶の毛皮のマントのようなものが紐で縛って着けてある。全体として今まで一度も見たことがない組み合わせばかりだ。
少女の事をしばらく観察している中に、ふと僕は自分はどうなのかが気になり側頭部、ヒトであれば耳のある場所へと手を伸ばした。
しかし、というかやはりそこに耳はなく、かわりに少し上にのほうに手を添わせていくと、今まで感じたことがないでっぱりがあった。こそばゆいような感覚を忍んで手の感覚でその形を確かめると、それなあの子の頭にあるのと同じような獣耳と容易に想像がつく形をしていた――それに自分の耳といえどなかなかの触り心地。服装に関しては少女の着物を男物にしたようなものだが、どこか地味で、少女の着ている物のような華やかさが無い。
そうしているうちに、少女が話し終え、改めてこちらに向き直った。
「ふむ……やはりおぬしは常に人の形をとるのだな」
「えっ、どういうこと?それが普通じゃないの?」
不意に飛び出した言葉に、獣耳を弄ぶ手を止め、思わず聞き返す。
「そうじゃ、本来、人の形をとれる妖怪は長く生きてそれなりに力を蓄えたもののはずなのじゃ」
「……」
「もっとも、それは儂のような生まれ方をしたものの話じゃ。おぬには関係ない話かもしれぬ」
彼女も首を傾げて不思議がるばかりだ。
気持ちを切り替えるように踵で地を打った彼女は真っ直ぐな眼差しでこちらを見つめて、
「じゃが、そんなことはどうでもいいのじゃ、おぬしには教えねばならないことがたくさんあるようじゃからの。さあ、はじめるぞ!」
そう言うと少女は飛び上がった。
「えっ、ちょっ、何を始めるのぉぉぉわっと、なんだよ、あれ!!」
少女は空中で自分の周りに炎球を出し始めたのであった。
(おいおい、何がどうなってるんだよ……)