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東方鼯鼠転空記  作者: 平成の野衾(ノブ)
世に放たれし空の色
17/30

第十五話 過去夢みしか

 僕は生きるということの大変をここにきて初めて実感した。


 何とも云い表せない寒気に肩をさすり、縮こまって足元へと視線をやると、まず「紅い」着物の帯が緩み、だいぶはだけていることが眼に入ってきた。その着物の帯をこれでもかというくらいにきつく締めなおした僕は、着物の腹部を貫くようにして空いた穴が露になったことで事の重要さを実感する。


 はぁ、と、ため息が出た。


 これは単に怠惰な気持ちから発した諦めの現れではない。むしろ気持ちを切替えて前を向くためのもの。

 ……これだけのことがあったのだ、ため息の一つや二つ、ついておかなければ心が保たない。

 一通りの動作を終えた僕は後ろを振り返る。

 そこには、先程僕の着物をこんなふうにしてくれた張本人が、身動き一つせず、静かに、横たわっている。


 さて、どうしてくれようか……きっと彼は所謂いわゆる歴戦の勇者といった立場なのではないかと直感的に予想がつく。

 そうでなければあそこまで身軽な立ち回りはできないはずだ。それにあの目を見れば誰でも気づく筈だ……そんな彼にとって妖怪という存在はただの排除すべき敵ということだ。それ故に僕等の価値はそこいらの地を這い回る虫けらと同等、ないしそれ以下なのだろうと想像もつく。だからこそ何ら手加減なしに切りつけることができたのだろう。しかし彼を戒めることはできない。何故なら僕等という存在そのものが彼らにとっての脅威でありこう立ち回るのも自然なことだ。


 だから僕はあえて「奴等」ではなく「彼等」と呼ぶ。


 自らの恐怖が作り出した偶像に翻弄され、抗うことでより相手を強くする事を知りながら抗うことを辞めない人間に敬意を表して。

 そんな中で着々と強くなってきた相手に対して勝利を収めることができたのは今回僕の技量が上回っていた……のではなく、そこにいる母さんのお陰である。もしあのとき母さんが何もできずにただただその成り行きを呆然と眺めていただけだったとしたら……きっと僕は今こうして立っていることはできなかっただろう。 改めてあのときのことを考えてみると、その状況がいかに現実離れしていたのかが感じられ、ただただ戦慄する。


 彼が生きている可能性はないだろう。そう判断した理由は彼の周りの地面を見れば一目瞭然、そこが僕の着物と同じ色に染まっているところを見ればわかる話だ。

 普通の人間があの量の失血に耐えられるはずはない。

 あえて確認することもないだろう。


「何をしておるのじゃ?早く行かなくても良いのか?」


 僕はこの場の凄惨さをしばらくの間考察していたが、母さんのその一言で此処に来た理由を思い出され、


「あっそうだった! それじゃあ早く……」


 先を急ごう。と、言いかけたのだが、その言葉を呑み込み、


「いや……」


 と、一度仕切り直して、


「母さんは此処にいてくれ」


 と言い直す。


 当然母さんからは「なぜじゃ?」など、何かしらの疑問符を投げかけられるのだろうと勝手に想像していたのだが、母さんからの回答は存外あっさりとしたものだった。


「そうか、まあ頑張ってくるんじゃな」

「なっ……」


 それだけ?!


 率直な感想を述べるとそのような感じであった。

 文字に起こしてみると言葉の程度が伝わりずらいことがあるが、今回のこの発言もそういったものの部類に入るのかもしれない。

 そのあまりにもあっさりとした返答に僕は彼女が笑顔さえ見せているように感じられた。

 突き放されたような感覚に捉われ、ショックを受けたことをあえて隠しはしない。

 もしこのタイミングでなかったならば、きっと僕はしばらくの間言葉を失っていたことだろう。


「……それじゃあ、こっちは任せたよ…」


 必死に平静を取り繕って放った言葉に、


「任せておれ!この華飛天がおぬしが帰るまで此処を守ってくれようぞ!」


 と、一分の不安も感じさせないハッキリとした返事をした。


「はは、頼もしいな」


 そんな彼女とは正反対に、僕は乾いた笑いをすることが精一杯であった。

 この場での会話はそれで最後となった。






 気持ちを切り替え足を動かす。

 向かう先は勿論あのロケットだ。


 ……


 ……


 ……あそこに、きっとあのときの少女がいるはずだ。


 ……あそこに、きっと僕の話を聞いてくれる人がいるはずだ。


 あの人たちなら僕の話を聞いてくれるはず、あの人たちならこんな虐殺を止めてくれるはず、あの人たちなら……


「……きっと何もしてくれやしないさ」


 !?


 あと一歩、もう少しでロケットに手が届く……そんなタイミングで何処からともなく曇った男の声が木霊・・する。

 そう、木霊したのだ……この広い大地で、僕はまだロケットはおろか、建物にすら足をつけていないというのに……


「だ、誰だ!」


 慌てて足を止め、そう叫ぶ。

 周囲からは何者の気配も感じえない。

 不安に駆られて今さっき通ってきた場所を振り向くも、やはり誰もいない。


 な、なんだ……何が来る?


 姿が見えないものに対して、僕は緊張を募らせ体を固くする。

 全身に張り巡らされたあらゆる神経を研ぎ澄まし、その者の居場所を探ってゆく。けれど、いくら粘り強く探りをかけても、やはり何の気配も感じえない。

 ますます全身に力が籠ってゆく。


 その時であった、またも何処からかあの声が聞こえてくる。


「俺のことを忘れたか?」


 今度は先程よりもハッキリとした声であったが、それでもいったい何の話をしているのかは分からない。

 僕はこんな声の人を知らないし、第一に僕が都に来たのはこれが二回目、数年前に初めて来たときだって、僕と面識を持った相手なんで八意さんに玄武さんしかいないはずだ。


 その他に僕と面識がある人なんて……居るわけが……


「あのときはよくも恥を晒してくれたな!」


 あれ?そういえばこの感じ何処かで……


「あー!」

「思い出したか!」

「うん、あの動けることに気が付かなかった阿保アホの児だ!」

「ッキ、キサマ!またその話を……ええい!こうなったらとっとと成敗してくれるわこの妖怪が!さぁ、かかってこい!」

「いや、だから見えないんだって(笑)」

「あっ……」


 これだから阿保の児なんだよ。


「よし、これでどうだ!」

「おー、久しぶり、前に戦ったよね」


 懐かしいな。あのときはホントビックリさせられたよ……だってさ、突然、何の前触れもなく、ただすれ違っただけで正体を見破られるんだもの、完璧に化けているつもりだったから、正直、そんなことできるのかよ!って言ってやりたい気分だったなぁ。

 今思うとまだまだ未熟だったと思う。

 気配や見た目云々をどうにかしたところで妖怪であることの本質は隠し切れない。だからセンスがある人には一発で見破られるというわけだ。

 あのときの記憶から考察するに彼もまた、僕と同じで未熟であったのだろうと思う。未熟ゆえの慢心にお互い翻弄されたわけだ。

 さて、どこまで成長したのか見ものじゃないか。


「今日はあのときの決着をつけに来た!今度こそお前を退治してくれるわ!」


 その気合は相変わらずか……


「はぁ、それ今じゃないとダメ?」


 急いでるんだ。


「ダメだ」


 まあ、知ってた。しかしダメだと言われてそこで黙って引き下がる訳にはいかない。

 これは自分だけのの話ではないのだ。


「さらばだ!」


 そういうなり僕は懐から一つの巾着を取り出して彼のほうへ投げつけた。

 しかしその袋は彼のもとへ届くまえにあっけなく撃ち落されてしまう。


「へっ、その程度か!」


 弾幕展開! 心の中でそう叫ぶと同時に緑と茶色の無数の光弾が撃ち落された袋の中から飛び出し僕と彼の間に壁を創る。


「なに!」


(ふう、仕込んでおいて正解だったな)


 よく見るとその中心には葉切れのようなものがみてとれる。

 ……ようなものといったが実際にあれが落ち葉の切れっ端そのものである。

 発光しているものの正体はそれだ。どこにでもある落ち葉に少しばかり妖力を染み込ませただけのもの。簡易版の妖力石(葉)といったところだ。今の僕の力では石のような構造的にしっかりとしたものに妖力を染み込ませるのは酷だ。だからこそ拾い集めていたわけだな……ただ落ち葉のように脆いものになら僕でも簡単にできるのだ。効果や安定性には欠けるけど、手軽さでいったらこれ以上のものはない。


 いままで足止をくらっていた僕はまっすぐロケットの入り口と思しき場所へと走ってゆく。


「まっ、待て……くそっ!」


 後ろから悔しそうな声が響く。

 よし、まだ気づかれてははいないようだな……


 この時点でもう気付いている人がいるかは分からないがあれは本当に足止めにしかならないのだ。

 なぜならあれはただ光ってふよふよ(・・・・)と浮いているだけだからだ。素手で弾けば簡単に散ってしまう。見かけ倒しもいいとこだ。


「このまま行けば!」


 あと10メートル……こんな距離あっという間に……


 7、6、5……余裕だな……


 3、2、1……よし!


『ブォン』


 ……僕は足を止めた。そして絶望した。


 10メートル………………入り口までの距離だ。


 気のせいかと思い走り続ける。

 するとまた、


『ブォン』


 と、いう音と共に距離が開く。


「そ、そんな……近づけない……」


 ここまで来て最後の最後、あの場所にすら脚をつけられずに終わるとは思ってもいなかった。頭が真っ白になった。

 地に膝をつき僕は何もできないまま、
















 ロケットが飛び立つのをただ見ていた。

















 どうやら僕はまんまと彼等の策略にのせられたようだ。

 僕が初めてあの都に足を踏み入れたその瞬間からこうなることは決まっていたのだ。




 飛び立ったロケットから何かが投下された。




 あのとき、僕に妖怪が人間に恨まれているという印象を強く植え付ける。

 あのとき、僕に彼等のずば抜けた科学力を見せつける。

 あのとき、僕に信頼を持たせる。




 その何かがあと少しで地面に到達する。




 彼等は、僕が華飛天の息子であるということを利用したのだ。

 彼等は、僕が一人で此処に来るように仕向けたのだ。

 彼等は、僕が動揺するように仕向けたのだ。


 すべてが偽物まやかしだった。


 もう何も考えたくない……






 思考を放棄した僕の頭のように、世界が白一色の光に包まれた。


























「またこんなところに来ておったのか……」


 ああ、母さんか。

 少し遠くからそんな声が聞こえてくる。


「すぐ戻るよ」


 そっけない返事をして、僕はあの日の回想に一度区切りをつけた。

 川に突っ込んだ足でゆっくりと水を漕ぎながら河原へと向かう。



「過去を思い返すのは構わんが、もう少し今をみたらどうじゃ」


 下駄を履いている僕に対して、母さんが常々気になっていたのだが、とでもいうふうに話しかけてくる。


「そんなことはわかってるよ」


 何気なく返事をしたつもりが、どこか乱暴な言い方になってしまった。


 わかっている、わかっているのだ……だが、どうしても、ふと気がついたときにはあのときのことを考えている。




















 世界が、白に染まった。


 僕は固く目を閉じ、その時を待っていた。

 しかしそれは一向にやってこない…………いや、あっけなすぎて感覚すらないのかもしれない。

 薄っすらと、恐る恐る目を開ける。

 頭を垂れていたせいで地面が見える。


(助かった…のか……)


 安堵して、今度こっしっかり目を開き頭を上げる……目先一メートルほどのところに半透明の分厚い壁が、幾何学模様の淡い光を放ってその先の視界を遮る。


 パキパキッと音を立て、ヒビが入り、全体が少しずつこぼれ始める。

 僕はその正体を知っている。

 結界……しかし今僕の目の前で崩れ行くそれ既には本来の役割を全うしていない。もはや自然に消えてゆくのを待つだけの物体にすぎない。


(僕はこれに守られたというわけか……)


「母さん……」


 初めに浮かんだ単語はそれだった。


「…ッ!」


 後ろを振り向いた僕は息を呑み、駆け出した。


「母さん……母さん!ねえしっかりしてよ!」


 倒れている少女の体を揺さぶる。返答は、無い。


 嫌だ!……そう思う度世界が滲んでゆく。


「ねえ……ズズ」


 なおも彼女は沈黙を守り続ける。


「ねえってば!……華飛天!!」


 涙が頬を伝い零れる。


 ……ピチャっと彼女の頬に落ちた雫は溶けるようにして消えてゆく……


 そのとき『ピクリ』と、彼女の耳が動いたような気がする。

 そして、


「……冷たいわ」


 小さく、しかし僕にははっきりとそう呟いたのが聞こえた。


「よかった……」


 そう言葉が出ると涙が止まらなくなって、何も見えなくなって、うれしくなって彼女のことを抱きしめた。

 彼女の体は想像以上に軽くて抱き上げた僕が反動で逆に倒れてしまった。


 自然と彼女が僕に乗っかる容になった。


 その時、『パリン!』というガラスが割れるような音とともに結界の残骸が霧消した。

 視界一面に夕暮れのような黄昏の空が広がる。


「うおっし、やっと割れ……あんたたち何やってんの?」


 ちょうど死角になる場所から聞き覚えのある女性の声が聞こえる。


「こ、これは違う!違うんだっ」


 慌てて這い出そうとするも、母さんを蹴り飛ばすわけにもいかず、そして弱っている母さんの為に不用意に身動きが取れない状況になっていることに気が付く。

 相手の顔は見えないが見えないからこそどんな目で見られているのかが不安になって仕方がない。


(なんとか誤解を回避しなければ!)


 こうなったら口問答に頼るしかない……

 真っ先に思いついたことがそれであった。

 ああ、情けない。


「落ち着いてくれ、これは違うんだ、これは、たまたま、そう、たまたまこうなっただけなんだ!……」

「……」

「そ、その、浅紀よ信じてくれ、僕が今までそんなことしたことないだろ?」

「……あるじゃないか」

「え……?」


 あぁ!そうだった!前に酒に酔ってそれでサキに……あああぁぁぁ!なんであのとき僕は酒なんて呑んだんだぁぁ、なんでよりにもよってサキなんだぁぁァァァァ……


 完全に背水の陣は打ち破られ、僕は海に突き落とされた……一人だけど。


「な、何でもいいから母さんを早く」

「言われなくともわかってる」


 こんな危険な奴とこのままにしておけるか、という感情がありありと感じ取れるトゲトゲとしたその口調に、僕はもうただただ動かず喋らず以外にこの状況を回避する方法がないことを悟った。

 僕からみて足元からフェードインしたサキによって母さんが持ち上げられる。


(よ、よし、これで取り敢えずは自由に動きが取れる)


 そう思ったのも束の間、自由になった僕の懐に鋭い蹴りが入る。


「グファッ」


 悶絶して縮こまる僕に、これもまた見知った少女の声で、「あんたこんな状況でよくあんなことできるよね」と言われる。

 蹴りを入れたのは彼女のようだ……ただの勘違いだというのになんてひどい仕打ちだろうか。

 果たしてこれは平等なのだろうか?いや、絶対にそれはない(断言)


 しかし、彼女の言った、「こんな状況」という言葉が気にかかる。

 僕は上体を起こす。


 ……


 漸次、絶句した。


 そしてようやく出てきて言葉は、


「……死の星だ」


 という抽象的なものだけであった。


 誰も一言も口を動かさない時間が数時間も続いた……少なくとも僕にはそう感じられた。


 わかっていた。想像できていた。だが、実際にその光景を見るのと頭で考えるのは全くの別物だ。


 あまりにも悲惨すぎる。あまりにも……






 その時であった、突如として押し寄せた激しい頭痛が僕を襲った。

 何かの映像の断片が津波のように押し寄せる。

 それは何者かの「記憶」のようであった。様々な映像に音に感覚に……すべてのものが一緒くたにごちゃ混ぜになって僕の脳に流れ込む。

 限界を超えた情報量に頭痛がさらに酷くなる。

 

 目眩がする、膝をつく、もはや頭痛にかまっている余裕もなくなる、世界が暗幕によって覆われる……


 ……僕は記憶の中にいた。








 自分の意志では動けない。そんな状況で出来の悪い映画のように継ぎ接ぎだらけの映像が延々と見せられる。

 要点ほど忠実に、細部ほどべた塗りで構成されたその様は、あたかも怒号のような情報を一連の順序をもって伝達していく神経の一部筋を外から眺めているようであった。


「どうしてこんなことに……!」


 一人の少女が地に膝をつき泣いて何かを揺さぶりながらそう叫ぶ。何を揺さぶっているのかは分からない。

 僕はこの人を知っている。しかし誰なのかが解らない。

 声を掛けようとしたがどうしても声が出ない。声を出そうとすればする程息が詰まる。

 苦しい……息ができないこと以上に心が苦しい。

 この感覚は一体……



 場面が変わる。



 一面の白色、ピッピ……と繰り返される電子音。その音をベースにこの記憶は構成されている。なんてことない音のはずなのに憎悪の混じった嫌悪を感じるのはどうしてだろうか。


「異常なし……」


 どこからともなくそんな声が聴こえてくる。


 何のことだろうか、僕は一体どこにいるのだろうか?

 前にも此処に居たような気がする……


 何者かの人影がこちらに向かって歩いてくる。目の焦点が合わずすべてがぼやけて見える。

 その者が僕の顔を覗き込み、何やら光るものを目の前で振った。

 目が焼けるかと思うほどの閃光が飛び込んでくる。目を閉じようにも一切の自由がきかないのでそのまま耐えることしかできない。

 明るさに目が眩んでいる間に人影は消えていた。



 場面が変わる。



 今度も先程と変わらないように思われる映像が続く。


 また場面が変わる。


 しばらくは全て同じといってもいい程に似通った映像が続き退屈さが増していく。



 場面が飛ぶ。



 今度は今までとは打って変わって焦点がはっきりとした中でこの状況を見ることができた。

 今までの繰り返しから抜けられたというのに眠気がして耐え難い。しかし、それを我慢する。


 相変わらずピッピ……と繰り返される音、しかし今回は一切の声が聞こえない。その代わりに初めから光が揺れている。

 少し慌てた風にその光が消え「大変!早く先生を!!」という声がして、駆け足気味の足音がそれに続いた。


 僕は眠気に身を任せ意識を放棄した。



 またも、場面が飛ぶ。



 今度は場所が変わったようだ。どこかの一室のようだが昼間だというのにカーテンが閉め切られ薄暗く、どこか陰気な雰囲気を感じる。


 一見すると誰もいないこの部屋だが、部屋の隅、窓から一番遠い場所に置かれたベッドから、すすり泣くような声が聞こえる。

 ベッドの横に置かれた小机の上に乱雑に投げ捨てられたスマートフォンだけがこの部屋で煌々と光りを放っている。

 部屋の入口に立っていた僕はまずその机に向かい画面をのぞき込んだ。ロック画面に並ぶ通知の数々、それらはほとんどSNSのもののようだ。そこに次々と流れてくる言葉はどれもこの端末の持ち主を中傷するものばかりで、中には暴力的な内容のものも含まれていた。僕はその画面を机に伏せ、これ以上の通知が見えないようにする。


 スマートフォンを裏返した音に気が付いたのか、すすり泣きが消え、「誰」と、布団で曇った、けれども突き刺すような言葉が発せられる。その声はまだあどけなさの残る少女のものらしかった。

 年は……中校生くらいといったところか。


「僕だよ……」


 そうやさしい口調で言っているところから判断して知り合いらしいことがわかる。


「また来たの」


 相変わらずトゲのある口調で布団の中からそう問うてきた彼女に対して、僕はベッドに腰を下ろしながら「幼馴染じゃないか」と、返した。


 この少女とはどうやら幼馴染という関係のようだが、傍観者としての僕はいくら思考を巡らせても彼女が一体どんな人物なのかわからない。

 ただ、今の状況を考察するに、虐めを受けている彼女に僕が幼馴染として度々会いに来ているという構図だろう。


「ふん、あなたなんて来なくても私を大丈夫だって言ってるでしょ」


 彼女の言葉にはいつもトゲがある。ただ、そのトゲトゲしさも言葉を重ねるうちに薄れていく。

 そんな彼女に僕は、


「そんなこと言って、嬉しそうじゃないか」


 と明るい口調で答える。


 彼女からの返事はなかった。ただ、いくらか布団が軽くなったような気がした。

 僕は明るく言葉を続ける。


「ほら、いつまでそうしているつもりなんだ?たまには顔を見せてくれよ」


 ……


「今日は学校で面白いことがあったんだ。数学の先生覚えてる?ほら小学校の先生だった……」


 僕は話し続けた。彼女の顔は見えなかったが、きっと聞いてくれているのだと信じて、話し続ける。


「……それでそのコンビニで……」


 時には身振り手振りも交えて話し続けた。


「クスクス」と、彼女の笑い声が聞こえた気がした。ただの空耳だってだけかもしれない。けれど、僕にはしっかりと彼女か笑ってくれた声が聞こえたのだ。


 僕は話し続ける。時間がたつのも忘れて彼女に話し続ける。


「……おしまい。どうだった?面白かっただろう?」


 壁に掛かった時計が『ボーン』と音を鳴らすのと同時に僕は話を切り上げた。

 結局最後まで彼女の顔は布団に隠れたままだった。


「また明日、今度はもっと面白い話を持ってくるよ」


 そう言い残して僕は立ち上がり、この部屋を後にした。



 また、場面が変わる。



 今度は何処かの開けた畑道のようだ。その道をゆっくりと、僕は「今日はどんな話をしようかな……」と、軽く目を閉じて今日起こった面白い出来事を思い出しつつその道を真っ直ぐに歩いていった。


『プーー!!』


 突然鳴り響くクラクションの音。


 ハッとして目を開けた時にはもうすべてが遅かった。


『ドン』という鈍い音。『キー』と鳴るブレーキの音。そのすべてがゆっくりと感じられ、仰向けに空を見ながら頭を打って黒に消えた。










 ピッピ……と繰り返される音。

 場面が戻った。

 またあの繰り返しが続く。


「大変!早く先生を!!」


 世界が暗転する。












「どうしてこんなことに……!」


 さらに場面が戻った。


 今度は初めのときよりも緻密にその情景が描写される。


 少女が何かを揺さぶっている。


「ねえ、起きてよ!ねえってば!」


 彼女はさらに激しく何かを揺さぶり続ける。

 僕は彼女に近づいて行った。

 そのとき、グラリとその何かが傾き、こちらにその姿を露にする。


「ハッ」と思わず息を呑んだ。叫んだ。叫んで発狂して頭を抱えて縮こまった。何の声も出やしなかったが喉は焼けるように痛い。


「何か」は僕であった。焦点の合わない虚ろなその目からは生気が感じられない。その首も少女のなすがままに揺れてあらぬ方向へ曲がっている。


 それは僕の屍であった。

 耳もない、尻尾もない、正真正銘人間だったころの自分が、今、何の心も持たずにただそこにあった。


 少女がそれを揺さぶるのを止めた。そして、


「この世界がいけないんだ……」


 と、小さく呟き、立ち上がり、後ろを振り向いた。僕はそのとき初めて彼女の顔を見た。


 僕は彼女を知っている。彼女は僕の幼馴染であり、虐められて不登校になり、けれども少しずつ前に向き直っていったあの少女であった。

 そんな彼女が、今、何かの決心をした様に胸に手を当て、目を閉じ、何かの呪文を唱えように一言。


「次元を司る程度の能力」


 それですべてが終わった。


 記憶の波が引いてゆく。

 僕の意識は現実の世界へと引きずられていった。






 これで、すべてが分かった。

 僕がなぜあの世界へと行くことになったのか。

 そして、この世界で何をしなければならないのか。


「彼女を、探さなければ……」




 命を視る程度の能力




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