プロローグ
そのとき、僕は空を飛んでいた。
好きなように空を駆け、世界が流れていく様子も見えないほどに速く飛ぶことだってできる。そんな空の中を、僕は後少しで届くと胸を高鳴らせ、飛び続ける。
なにに届くのかは自分でもわからない……ただ、どうしてもそこへ行かなければならないというある種の使命感のようなものを受けて飛び続ける。
後、少しで……
「…やく……」
遠くで誰かの声が聞こえる。
「きる…」
空を飛んでいるというのに、まるで地震でも起きたかのように世界が揺れた。霧の彼方から聞こえてくるような声は続く。
「…ゃ……」
次の瞬間、世界が暗し、新たな光が瞼を焦がす。
夢が終わり目が覚めた。
うららかな日差しがまぶた越しに赤い光を届け、朝の訪れを告げている。
また朝が来た……
あまり乗らない気持ちで、夢の事などすっかり忘れ、ただ、ボーっとして時が流れるのを感じる。そうしているうちにまた居心地の良い眠気に襲われる。
朝は…苦手だ。目を開けたその瞬間から今日という一日が始まるからだ。楽しくもあるが、気怠く、目を閉じてしまいたくなる、そんな一日が。僕を引きずり出すのはいつも母さんの仕事だ。
……この部屋に目覚まし時計は無かった。何故ならそれが僕にとってなんの意味もなさないものだからだ。幼い頃は確かに使っていたし、それで起きられていた。ただ、それに慣れるうちに、いつの間にか目覚まし時計の最初の一節を聞くかどうかで時計の頭を叩いて二度寝へと入ってしまうようになっていた。
無意識のうちに行う動作としてはあまりにも洗練されすぎていると云えようか。――眠気のせいかおかしなことを考える。
目覚し時計がいつの間にやら母さんにすりかわるのは当たり前のことだった。
ただ、目覚し時計が母さんに変わったところで朝が苦手だということに変わりはない。
だから、「後ちょっとだけ寝かせてよ」と、『つい』言ってしまう。これはこの家の日課の一つとして確立された動作の一つである。
寝起きの悪い僕を母さんが起こしに来る。そしてそれを拒む僕はいつもそれを渋って母さんに叱られる。
毎度、毎度、毎度。
今回だっておんなじ、きっといつもみたいに母さんに叱られるだろう。
「何を言っている!」
ほら、やはり叱られた……
「早く出て来て術の一つでも覚える努力をしたらどうなんじゃ!」
眠気に押されて母さんの声が奇妙な抑揚を持っているような気がする。
でも、なんだかおかしい……どこか、いつもの母さんとは決定的に違うような、そんな気がする。
気持ちの悪い違和感と、眩いばかりの朝日も相まっ……て…………ここで初めて、ことの異常さにはっきりと焦点があってきた。
おかしい……僕の寝ている部屋は北向きのはず、たとえカーテンを全開にしても朝日なんて入ってくるはずが、無い。思い起こしてみれば、起きてからというものずっとこの日差しにあたっていた。
寝起きにしては冴えている事に自分でも驚き、先程までどこか上の空だった脳みそが、さもターボをかけたかのように急回転する。
ひとまず、目を硬く閉じ今の状況を理解しようと奮闘する。
そうしていくうちに今日が休日で、普段ならもう少し寝ていても何も言われないはずだということに気がついた。
今日は何かあっただろうか?
少し混乱してきたている僕に、
「早く起きろといっておるのじゃ、わからんのか!」
というお叱りの言葉が飛んでくる。この時点であらかたの眠気がとんだ僕は、先程感じた違和感の正体に気が付いた。
(声が、違う。それに話し方だって……)
「いつまでそうしているつもりじゃ。早く起きんと儂の炎で火炙りにするぞ」
やっぱり違う。初めて聞く声だ。これは一体誰の声なんだ!?
眠気などはもう彼方の空だ。そして僕は得体のしれない恐怖に駆られた。
今までとは違った意味で目が開けられくなる。
しかし、あの発言を聞く限りいつまでもこうしている訳にはいかない。僕は上体を起こそうと布団へ肘をつく……
『カサリッ』
まるで落ち葉でも踏んだときのような軽い音が立つ。
僕は恐る恐る目を開けた。
それは紛れもなく落ち葉の音であった。僕が今まで布団だと思っていたものは落ち葉を集めただけのものだったのである……
(一体……これは……)
僕はにわかにはこの状況を理解することができなかった。
ただ呆然として、地面の落ち葉を見つめる。僕が今まで寝ていた場所が少しへこんでいるだけでこれといって気になる点はない。
その中から一枚つまんで、握りつぶしてみる。それは間違いなく本物だった。
いったい何が……此処は何処だ? どうしてこんなところに……!?もしかして攫われた!?いやいや、そんな馬鹿なことがあってたまるか!昨日は普通に家で寝たはずだ!
……しかしこの状況は……
様々な憶測が頭の中を交叉する。しかしどれもこれもありえないことばかりで欠論が出ないまま時が経つ。
「何をしておる」
完全なる堂々巡りの袋小路にハマっていた僕に、何処からかそんな声がかかる。
さっき僕のことを起こした声だ……
僕はその声の主が気になり、声のした方へ目線を運ぶ。
そのあと僕が見た光景は、想像したどんな事象をも遥かに飛躍したものだった。
「なんだ……これ」
まず僕の目に飛び込んできたものは、うっそう茂る緑。そこから溢れる光の筋に中てられて苔むした岩や倒木やらが不思議なほどハッキリとした陰影をつけて散らばっている。
それらが少し開けた所の中心に、じっと、一人の少女が眼を光らせてこちらを見つめている姿があった。
そして今日の出来事の中で最も信じがたいことが、彼女のその容姿であった。
最近ではもう見かけることのない着物姿のその少女の頭には、確かに獣耳が見えており、少女の後ろには、その身の丈ほどもありそうな毛皮のマントが揺れているのであった。