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手と手

 こんな夢を見ている。空をふわふわと舞い飛ぶ夢だ。


 ユウヤは空を漂う。穏やかな春の日差し。緑豊かな草原、木々。小川のせせらぎ。風は柔らかで、陽光は雲も風も人々も、それにユウヤも等しく照らし、暖かい。


 ……ねえ! ねえって!


 天から声が振って来た。それは天女のように甘ったるく、女性的で、おっぱいの塊みたいな声だ。聞く者にとっては天使のささやき。しかれど、心地よい睡眠を邪魔されたユウヤには雑音でしかない。

 ただし、ユウヤがよく聞く声でもあった。


「ねえってば!」


「んが」


 ユウヤは夢から覚めた。頭をブンブン振った。それからすぐ隣のおっぱいに気付く。


「なんだおっpシオリか」


「なんだって何ヨ。もー。ずっと寝ちゃってサ」


「あー。そうだっけか。あれ。誰もいない」


「当たり前でしょ。講義はとっくに終わってるもん。みんなもう帰っちゃったヨ」


「んー、そうか」


 ユウヤはのんびりと背伸びをする。ここでようやく頭からボンヤリが抜けた。


 大学の、午後。最後の一コマが終わったのだ。それもとっくの昔に。時計を確認すると、終了からかれこれ30分は経っている。大学生なんて講義に興味のない者が大半だ。時間を潰して単位を取る。その程度にしか考えない。そして定時を迎えればこれ幸いとばかりに帰り出すのが常だった。


 ユウヤもご多分に漏れずその一人。講義中からついまどろみ、夢の世界の住人となっていた。もともとあまり興味のない話であった。それが中途半端に起こされた。


 ユウヤは自分を叩き起こしたおっp……シオリに尋ねる。


「シオリは帰ってなかったのか」


「だってユウヤが寝っぱなしなんだもの。ほっとけないじゃないの」


「ほっといてくれていいのに。いてっ」


 シオリに背中を、ぱしりと、はたかれる。本当は全然痛くないが、シオリが殴るモーションをしたので流されて言ってしまう。


 シオリはシオリで笑っている。ユウヤがその暴力に抗議しなかったのは、自分の寝顔の隣で微笑む彼女の姿が目に浮かんだからだ。


「ほっといたらユウヤはコロニーが落ちるまで寝ちゃうじゃないのよ」


「〝この世が終わるまで〟ってか?」


「うん、そーそー。さ、帰ろ。ユウヤ、親の手伝いがあるんでしょ。晩ご飯どっかで食べて行きましょ」


 シオリは立ち上がる。おっぱいが上下に揺られる。おっぱいに引っかかっていた長い黒髪が、春の小川のようにサラサラ流れ降りた。


 おせっかいだな、とユウヤは思う。それに巨乳だとも思う。


 シオリはそういう人種なのだった。持ち前の世話焼きとおっぱいで数々の男子を虜にしたとユウヤは聞いているが、これまた持ち前の正義感からそれら全てを断っている。


 理由は簡単で、仕事がこなせなくなるからだという。つまりは委員長の仕事のことだが、成績も容姿もおっぱいも良いシオリは教師からの信任が厚く、ユウヤの記憶にある限り、小学校からずっと、シオリはそうしたまとめ役を頼まれたり、あるいは買って出ていた。


 頼まれたり買って出たからには成し遂げなくてはならない。シオリは昔からそう言っていた。


 そして高校を卒業し、委員長という役職が形骸化した、大学という機関に入り、ついに一人の男に告白した。そしてオーケーをもらい、付き合い始める。告白した理由は簡単で、きっと、お節介な委員長は危なっかしい不良生徒を放っておけなかったのだろう。こんな講義中に寝るような不良者を。つまりはユウヤと恋人となって、今に至る。


 そのときのことを今でもユウヤは思い出す。告白し、オーケーしたと思ったら、すぐさまシオリはこう言った。


「ユウヤはさ、親が共働きだから。 だから、わたしがご飯とか作るネ」


 どういう理屈でそうなるのか不明だが、とにかくシオリはその言葉通り、ユウヤの朝食から夕飯までを作って来るのだった。もともと同じジャパンコロニー出身だ。住宅も近く、しかも年齢が同じ。ユウヤの親があまり家におらず、食事がもっぱらデリバリーであったから、シオリはたびたび食事を作りに来るのだった。


 昔からそうなのに、今さらそんなこと改めて言われてもな、とユウヤはそのとき思った。これまでとそう変わらないじゃないか。


 そう言おうと思ったが、シオリのあまりの嬉しそうな物言いと笑顔と上下するおっぱいに、ただうなずくのみであった。同時に、彼は殆どのクラスメイトの男子を敵に回した。そして今に至る。


 今に至るまで、シオリは料理に洗濯、掃除と甲斐甲斐しくユウヤに尽くし、ユウヤにとっては、何故シオリが自分のためにそこまでするのか腑に落ちない部分もあった。

 これまで恋人のいたことがないユウヤだから、あるいは恋人とはそういうものだと言われたらそれまでだが、それにしてもシオリのそれは格が違うと思っている。親にさえここまで面倒を見てもらったことはないのに、他人であるはずの自分に、シオリは本当に甲斐甲斐しい。尽くしていると換言さえ出来る。


 他人に尽くす。その気持ちにいまいちピンと来ないユウヤにとっては、シオリの笑顔が少々眩しい。その眩しさに釣られるように席を立てば、当然のように彼女が右腕に纏わりついた。


 柔らかい。シオリファンクラブの男子学生に聞かれたら殺されそうな感想を、ユウヤは抱いた。


「なぁ、当たってるんだけど」


「当ててんのヨ」


「何だ、わざとか」


「ユウヤが目を覚ますまで、どれだけ待たされたと思ってるの」


「当てつけかよ」


 校舎から出れば、人工の空が茜色に染まろうとしている。見慣れた夕焼けの景色に変貌しようとしている。


 校舎から出てしばらく歩く。レンガ敷きの歩道は校舎から真っすぐ伸びている。左右は植え込みになっていて、等間隔でベンチが置かれている。ベンチの数と等しいだけ立てられた街灯に、まだ火は灯らない。


 やがて歩道は途切れた。ここから先は下り階段だ。レンガ敷きで、中央と隅に金属の手すりがある。


 ユウヤはシオリのおっぱいとと共に階段を降りながら、目の前の風景を眺める。大学は小高い丘の上に建っている。大学が終わってから、この下り階段から景色を眺めるのが、目下ユウヤの楽しみであった。


 まさしく絶景だった。


 前に広がる土地はとにかく広い。さすがジャパンコロニー唯一にして最大の土地だ。老人たちはこの土地をカントウ平野と呼ぶ。そんな地名はジャパンコロニーにはない。この平野は、日本平野というのが正式名称だ。それなのに老人たちはカントウ平野と呼ぶ。わざわざ地球の地名を冠していることを、ユウヤは気にかけていた。


 土地は緑豊かで、くねくねと走る川が青色の蛇のように土地を横断している。道路には半自動走行の自動車が走っている。碁盤目状に引かれた道路は幅があり、決して渋滞を起こさせない。

 

 そうでなくとも最近は人が減っていた。土地は、奥に真っすぐ広がり、それだけでなく視界の左右への広がりも大きい。首を精一杯曲げて、ようやくその全容がつかめる。その両端をたどっていくと、やがて上方へと湾曲を描き、視界に収まりきらない巨大な岸壁となる。首をぐいっと上に向けると、その岸壁はさらに上方へと続き、今度は内側に収束をして、最後には頭の上でつながる。


 老人的な言い方をすれば、ちくわ型の土地。あるいはトイレットペーパーの芯のような土地。どちらのたとえもユウヤにはピンと来ない。

 ちくわが何のことか分からないし、トイレットペーパーでは少々下品だ。


 宇宙に浮かぶここジャパンコロニー。ユウヤとシオリの生まれ故郷であり、育ち故郷だ。筒状の内側に土地があり、人々はそこに暮らしていた。


 こうしたコロニーが他にもいくつもあってシャトルで行き来できるとか、筒状の外形が回転することで重力を生み出しているとか、コロニー内の環境は地球にそっくりだとか、授業でよく聞く。

 それらは一般常識だ。人類のゆりかごたる地球が、新種の菌とその副産物たるヘドロ物質に覆われ、死の星となったことなど。そして今や数を減らしつつある人類が、何とかして再び地球に戻ろうと努力を重ねていることなど。


 いつか還る、〝その日〟を目指して、各コロニーは各地域ごとの環境を再現していた。ここジャパンコロニーならばジャパンという島国の気候を再現しているというが、住んだことのないユウヤには再現できているのかどうか分からない。

 もとより親が研究所勤めで忙しい。両親は地球の出身だというが、あまり話をした記憶がない。


 今見ている茜色の空にしても、二十四時間サイクルで描かれる風景に過ぎない。それにコロニー内に大雨は降らない。せいぜい霧か小雨模様が関の山だ。

 こうした「天候」も地球を模しているという。ユウヤは真上を見た。首を垂直にもたげると、うっすらとかかる雲の、そのまた向こうの彼方に、反対になった土地が見える。文字通りこことは「反対側」の土地だ。


 地球は球形だから真上を見ても空しかない。授業でそう教えられる。そうするとどんな風景になるのだろうか。ユウヤはたまに思う。親が生まれ育った土地という点においては興味はないが、こことは別の風景がある。しかも球形の土地。地面に物を置いたら転がってしまうのだろうか。夕焼け空はコロニーと本当に同じなのだろうか。カミナリとかヒョウとか、よく分からない天候もある。


 見たい。そう思いつつも、どこか具体性を帯びない考えであると思ってしまう。なぜならば、地球などとは、どこか遠い惑星のことなのだから。


 ユウヤは、まだ不機嫌そうなシオリに言う。


「牛丼奢るからさ。機嫌直してくれよ」


「わーい! ユウヤ大好きー!」


 パッと機嫌を直すシオリ。右腕の柔らかさが、たゆんたゆんと喜びを表現する。


 チョロいな。シオリファンクラブの男子学生に聞かれたら二度殺されそうな感想を、ユウヤは抱いた。




×××××




 階段を降りきって正門をくぐると、整備されたバスロータリーがある。自動車と同じく半自動走行のバスは、定刻通りに運行されていた。


「ユウヤどこ行くの? そっちは……ハッ。まさか、ひと気のない暗がりにわたしを連れ込んで……。ま、まだ心の準備が」


「何を言ってやがる。あそこだよ」


 ユウヤの指差す先にはタクシー乗り場があった。これまた半自動のタクシーが待機している。ユウヤたちがタクシー乗り場に近付いたことをセンサーが捉えたらしく、タクシーのうちの一台が音もなく動き寄って来る。


 乗り場、という立て看板のところで寸分違わず止まると、運転席にいた運転手が降り立って、タクシーの扉を開ける。


「イラッシャイマセ、ご主人たま!」


 きんきん響くアニメ声。運転手は女性……どころか、少女。十代半ばか、あるいはそれよりも低い。中学生くらいか、それ以下だ。


 減りつつある人口を補い、人類を手助けする存在。半自動アンドロイド。通称「ドール」と呼ばれる存在。こうした運転業のみならず、大学でも清掃用ドールが働いているし、これから向かう飲食店にもそれ専用のドールがいる。


 半自動の半、とは、見た目だけが人間であり、実際は機械みたいなものであることと、マザーコンピューターに制御されてはいるが自らの思考を持っていることを意味する。

 あんなアニメ的な美少女もいまや人類に不可欠な存在だった。


「さあ乗ろうか。ん? ちょっと待てシオリ、なんでそんなゴミを見る目を向ける」


「うげー。だって何あの運転手。男ってああいうのが好きなの? キモいったらありゃしないワ。機械にまで萌えを求めるなんて」


 あからさまな暴言だった。

 しかし運転手の少女はニコニコ顔を崩さない。営業スマイルというよりも心からの笑顔。見た目は完璧に人間の少女だ。こちらに向かって優雅に腰を折るその仕草は、人間よりも人間らしいと言えるかもしれない。


「あれはたかがアンドロイドじゃねえか」


「そのたかが、に欲望を求めるのネ」


「その方が客が増えるんだとよ。飯に行くんだろ? モール街は歩いて行ったら遠いし、バスの時間はまだだ。タクシーのが早い」


 するとシオリは腕に力をぎゅっと込め、おっぱいの感触をさらに強くユウヤに与える! そして、ユウヤの耳元にフッと温かな風が吹いた。


「わたしとドールとどっちが大事?」


「へ。お前何を言って」


「で、どうなのヨ」


「それは……」


 シオリの胸の感触。ただの脂肪塊がどうしてこうも下半身を刺激するのか。ユウヤは己の分身がジワジワいきり立つように感じた。おっぱいぼいんで、ガッキーンして、ピュッピュする寸前。

 ユウヤは痴態を演ずる前に、毅然と言い放つ。


「もちろんおのおっぱいだよ」


 シオリは気色満面。コロニーの始まりだとばかりに喜びを表現する。


「うん、まあ合格かな。欲を言えば、即答して欲しかったけど」


「何故お前に合格不合格を決められねばならんのだ。ドールにまで嫉妬しなくたって、お前を世界で一番大切に思ってるっつーの」


「うへへー」


 だらしねえ笑顔を見ると、ユウヤは不純な気持ちを抱いた自分が情けなく思える。毎日ご飯を作ってくれる幼なじみに、これ以上のエロスを期待していいのか。


「ご主人たま、行き先はどちらになさいますか?」


 運転手のアンドロイドは、ユウヤたちの愛の囁きを前にしても、完璧な営業スマイルを崩さなかった。





×××××




 徒歩でモール街にたどり付き、目に入った牛丼屋で食事を済ませた二人は、シャトル乗り場を目指している。


 コロニー内の移動は、近場ならバスやタクシーが使われる。そしてやや遠ければシャトルを用いるのが普通だった。


 宇宙に浮かぶ各国のコロニー同士もまたシャトルでつながれている。年寄りじみた言い方をするならば、まるで近所のコンビニに行くかのように、コロニー間の移動が可能だった。


 人口減少に伴い、コロニー内では教育機関の合併が進んでいた。小学校が数を減らし、いつしか小中合同学校が珍しくなくなった。

 併行して大学の合併も進んでいた。コロニー内の遠いところからシャトルを利用して通学する大学生は珍しくない。ユウヤもその一人だった。


『18時30分発、ジャパン工業コロニー行きシャトルは間もなく出港致します。ご利用のお客様は、14番ゲートよりご搭乗手続きをお願い致します』


 まるで人間の少女と聞きまがう華麗な声が響く。

 ジャパンコロニー中央宇宙港。ジャパンコロニーと他の宇宙コロニーとを結ぶシャトルが発着を繰り返す宇宙港だ。ここから発車するシャトルに乗ればアメリカコロニーに行けたり、あるいはヨーロッパーコロニーに行けたりする。


 いかにも人でごった返しそうな場所である。大昔、まだ人類がコロニー住まいを始めた頃は往来の人々で賑わっていた。


 それが今は昔。ユウヤとシオリ以外に人影は少ない。そればかりか、ジャパンコロニーただ一つの中央宇宙港だというのに規模はものすごく小さい。駅前のバスターミナルとそう変わりない。30名乗りのシャトルが5台も停まれば、それでいっぱいになってしまう。

 今の人類にはそれで充分だった。


 人類が地球を脱出、生存圏を確保する手段として製造されたコロニー。製造コストと日数を削減するため、全てのコロニーは同一規格、同一規模で造られた。つまりはコロニーごとに違いがない。

 生きるのが精一杯だった時代、コロニー間を行き来するのは一部閣僚や国際結婚をした少数の人々に限られていた。そして時が下り、人類が落ち着きを取り戻し始めた頃、コロニー間で人々の移動が活発になり始める。


 すると今度はエネルギーの問題が出て来た。コロニーの電力は太陽光発電を主軸にし、人類が暮らすには充分過ぎるほどの電力を供給する。だが、娯楽や快楽のためには不充分だった。かつての地球での暮らしのごとく、欲望のままエネルギーを消費すれば、いかに無限の太陽光発電といえども破綻する。


 破綻を回避する手段として選ばれたのが自己完結型の生活だった。すなわち、たいていのことならばそれぞれのコロニーで済ませられるようにすること。


 ジャパンコロニーを例に挙げると、ハワイのダイヤモンドヘッドやカメハメハ大王像、万里の長城、エジプトのピラミッド、バビロンの空中庭園……。およそ一般人が訪れたい場所の全てがコロニー内にあるためわざわざ他のコロニーを訪れる必要がなくなった。というよりも、他のコロニーに依存せずとも生きられる仕組みが整い出した。


 コロニーを地球の大陸ごとに分けたのは、混乱を避けるためだった。それがいつしか、人類が一度に絶滅するのを防ぐためとの解釈が生まれ始める。ヨーロッパコロニーのことわざを借りれば、「卵を一つのカゴに入れない」のだ。

 買い物途中で転んでも全ての卵が割れぬよう、分けて運ぶ。そうした解釈が進み、各コロニーでは自活可能な仕組みが円熟していった。


 こうしてコロニー間を結ぶシャトルの需要は減り、そのうちに人口減少が始まり、コロニー同士の関係が希薄となり、シャトルを利用する人間の数が減り出した。

 結果としてジャパンコロニー中央宇宙港は、人類が宇宙で生活を始めた頃……ユウヤの親たちが若かった頃の規模……極めて小規模だった頃に逆戻りしていた。


 閑散としたジャパンコロニー中央宇宙港。いつ廃止になってもおかしくないさびれっぷりだが、廃止になることは絶対にない。なぜならばここはジャパンコロニー唯一の宇宙港だからだ。体裁上、どれほどの赤字が積み上がろうとも廃止は有り得ない。


 ジャパンコロニー中央宇宙港に、シャトルの出港を告げる放送が鳴り響く。動く歩道で腕を絡ませていたユウヤとシオリは、その無機質な声にピクリと耳を動かした。


「やべえ、ちょっと急ぐぞ。あれを逃すと工業行きは一時間後だ」


「あ……」


 ユウヤは慌てたようにシオリの腕を振りほどき、動く歩道上を早足で歩き始める。温もりを失ったシオリの右腕は、ユウヤを求めて数秒間空中を彷徨った。


 ユウヤの背中が遠ざかっていく。人が行き交う宇宙港の出発ロビーに、その光景は小さなシミを作った。

 シオリは半ば無意識に、その名を呼んでいた。


「ユウヤ!」


「ん? どうした?」


 ユウヤは呼びかけに対し足を止め、振り返る。背格好は変わったが、その仕草は昔から変わらない。

 片眉を訝しげに上げるその顔は、何故かシオリの網膜に最も強く焼き付いた表情だった。


 シオリは胸にじんわりとした温かさが広がっていくのを感じながら、再度ユウヤの手をとる。武骨だが、それでいて滑らかな、シオリがよく知っている手だ。


「えへへ、呼んだだけー」


「なんだよそれ」


 蕩けてしまいそうな笑顔で手の感触を確かめるシオリに、ユウヤは呆れ声で返す。シオリはいつもこうだ。二人っきりのときだけ、こうしてユウヤを困らせることをよくやる。

 ユウヤはユウヤでそれに応じる。むやみに怒ったり、無視したりしない。今もユウヤは呆れ声を出しつつも、顔は決して怒っていない。


「ほら、早く行くぞ。ったく。元はと言えば、お前が牛丼おかわりしてるからギリギリの時間になったんだからな」


 口調は乱暴だが、あくまでも冗談めいた感じだ。

 一方のシオリもそれを分かっているらしい。愛嬌ある黒い眼をいたずらっぽく細める。


「なにヨ。美味しいものを食べたいだけ食べるのがこの世で二番目の幸せって、何で分からないかなぁ」


 何故食べた分の脂肪が全て胸に蓄えられるのか、いつかその謎をきっと解明する。ユウヤはそう心に誓った。


「分かった。分かったから」


 シオリにとって一番の幸せが何なのか、それは聞くまでもないことだ。もしかするとそれは、シオリのことを世界で一番大切だという発言に対する、ささやかなご褒美なのかも知れなかった。

 少しだけ体温が上昇したユウヤは、その原因から顔を逸らすように14番ゲートへと足を早めた。


 今度は、しっかりと互いの手を握ったまま。

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