捌
「こゆり」
俺が小さく呼ぶと、彼女は驚いたように視線を上げた。
俺の視線とぶつかった途端、周りの音が一瞬消えて、すぐに頬が熱くなる。
「あ、呼び方、これでいいか?嫌なら」
「いいの!……うれしい」
ぎこちない確認に彼女は…こゆりは、慌てて肯定してから頬を染めて言った。
そして俺の頬を包んだままだったことに気付き、ぱっと放すと恥ずかしそうに小さく微笑んだ。
なんだこのかわいい生き物は。
いや人間なんだけど。こゆりなんだけど。
心が宙に浮いていくような感覚に陥る。
だがそれは不快なんかじゃなく、逆に気持ちを高めていった。
「こゆり」
「……はい」
「呼んでみただけ」
「ふふっ」
思うがままに名前を呼んで、こゆりが応えてくれて、笑ってくれて、ふと思う。
これじゃまるでその辺にいるリア充みたいじゃねえか!
急激に恥ずかしくなった。
しかし目の前のこゆりは楽しそうに笑っていて、まあいいかとすぐに思い直す。
店内に流れるジャズがやっと耳に入ってきた。
どっかで聞いたことのある曲だ。
テレビのCMかなんかだったか。
少し冷めた紅茶を飲みながら、記憶を探るために上げた視線をこゆりに戻すと、どこか寂しそうな表情をしていた。
俺は驚いてから慌てて声をかける。
「ど、どうしたんだ?」
すると彼女は瞼を伏せながら、消えそうな声で答えた。
「私、あなたの名前が…わからない」
「え、だって手紙見たんだよな?封筒の裏に書いてあっただろ?俺ちゃんと書いたし」
なんだろう、天然なのか?
なんていう単純なものではないようだった。
「私に渡されるのは便箋だけだから…」
「え」
つまり、事務所側が一通り読んで便箋だけ渡してるってことか?
名前も住所も本人に知らせないために?
なんだよそれ。どっかのアイドルか。
「私のところには世界中のファンの方から手紙が来るの。メールもたくさん頂いてる。だから私が個人の情報を知るのは危ないのだと言われて。メールも、名前を除いてプリントアウトしてから渡されるわ。私は、もっとお話したいのに、返信することも許されなくて…」
俺の戸惑いに応えるように話す内容は、こゆりを取り巻く薄暗い闇を垣間見るようなものだった。
こゆりは個人的にファンと接することを禁じられていた。
確かに世の中には熱狂的なファンがいて、危ない目に遭ったアイドルやなんかの話は聞いたことがある。
だからって、こゆりはデザイナーだろ?
そこまで熱狂的なファンがいるのか…?
と、そこまで考えてから、こゆりの店に行った時のことを思い出す。
本人が現れたことで、店内は軽くパニック状態になるほどに盛り上がっていた。
それだけこゆりの人気はすごかった。
だから俺はあそこから逃げだして……って、それはもういい。
「なるほどな。確かにこゆりの人気っぷりを考えれば、そういう対処もしなきゃいけねえのかもな」
でもその分、この人は寂しさを感じているんだろう。
ふと、雨の日に見た、こゆりの横顔を思い出した。
閉じられた瞼、頬に流れる雨粒。
あれはもしかしたら、涙だったのかもしれない。
「幸弥」
「……え」
「俺の名前。蔵橋幸弥」
「くらはし、ゆきや…くん」
こゆりはその音を確かめるように、そっと俺の名前を呟いた。
彼女の声で呼ばれた俺の名前は、何故だか特別なもののように聞こえる。
胸の奥が、むず痒い。
「ゆきや君…幸弥君…ありがとう。よろしく、ね」
呼ばれる度にくすぐったくてむずむずしながら、俺は蕩けそうな笑顔を向けてくるこゆりに、力強く応えた。
「ああ、よろしく」
→続く