表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/9


「こゆり」


俺が小さく呼ぶと、彼女は驚いたように視線を上げた。

俺の視線とぶつかった途端、周りの音が一瞬消えて、すぐに頬が熱くなる。


「あ、呼び方、これでいいか?嫌なら」


「いいの!……うれしい」


ぎこちない確認に彼女は…こゆりは、慌てて肯定してから頬を染めて言った。

そして俺の頬を包んだままだったことに気付き、ぱっと放すと恥ずかしそうに小さく微笑んだ。

なんだこのかわいい生き物は。

いや人間なんだけど。こゆりなんだけど。

心が宙に浮いていくような感覚に陥る。

だがそれは不快なんかじゃなく、逆に気持ちを高めていった。


「こゆり」


「……はい」


「呼んでみただけ」


「ふふっ」


思うがままに名前を呼んで、こゆりが応えてくれて、笑ってくれて、ふと思う。

これじゃまるでその辺にいるリア充みたいじゃねえか!

急激に恥ずかしくなった。

しかし目の前のこゆりは楽しそうに笑っていて、まあいいかとすぐに思い直す。

店内に流れるジャズがやっと耳に入ってきた。

どっかで聞いたことのある曲だ。

テレビのCMかなんかだったか。

少し冷めた紅茶を飲みながら、記憶を探るために上げた視線をこゆりに戻すと、どこか寂しそうな表情をしていた。

俺は驚いてから慌てて声をかける。


「ど、どうしたんだ?」


すると彼女は瞼を伏せながら、消えそうな声で答えた。


「私、あなたの名前が…わからない」


「え、だって手紙見たんだよな?封筒の裏に書いてあっただろ?俺ちゃんと書いたし」


なんだろう、天然なのか?

なんていう単純なものではないようだった。


「私に渡されるのは便箋だけだから…」


「え」


つまり、事務所側が一通り読んで便箋だけ渡してるってことか?

名前も住所も本人に知らせないために?

なんだよそれ。どっかのアイドルか。


「私のところには世界中のファンの方から手紙が来るの。メールもたくさん頂いてる。だから私が個人の情報を知るのは危ないのだと言われて。メールも、名前を除いてプリントアウトしてから渡されるわ。私は、もっとお話したいのに、返信することも許されなくて…」


俺の戸惑いに応えるように話す内容は、こゆりを取り巻く薄暗い闇を垣間見るようなものだった。

こゆりは個人的にファンと接することを禁じられていた。

確かに世の中には熱狂的なファンがいて、危ない目に遭ったアイドルやなんかの話は聞いたことがある。

だからって、こゆりはデザイナーだろ?

そこまで熱狂的なファンがいるのか…?

と、そこまで考えてから、こゆりの店に行った時のことを思い出す。

本人が現れたことで、店内は軽くパニック状態になるほどに盛り上がっていた。

それだけこゆりの人気はすごかった。

だから俺はあそこから逃げだして……って、それはもういい。


「なるほどな。確かにこゆりの人気っぷりを考えれば、そういう対処もしなきゃいけねえのかもな」


でもその分、この人は寂しさを感じているんだろう。

ふと、雨の日に見た、こゆりの横顔を思い出した。

閉じられた瞼、頬に流れる雨粒。

あれはもしかしたら、涙だったのかもしれない。


「幸弥」


「……え」


「俺の名前。蔵橋幸弥」


「くらはし、ゆきや…くん」


こゆりはその音を確かめるように、そっと俺の名前を呟いた。

彼女の声で呼ばれた俺の名前は、何故だか特別なもののように聞こえる。

胸の奥が、むず痒い。


「ゆきや君…幸弥君…ありがとう。よろしく、ね」


呼ばれる度にくすぐったくてむずむずしながら、俺は蕩けそうな笑顔を向けてくるこゆりに、力強く応えた。


「ああ、よろしく」


→続く

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ