漆
「はぁっはぁっ…ご、ごめんなさい…。はぁ…遅く、なってしまって…」
目の前に、息を切らした彼女がいた。
何故、どうしてここに居るのか、一瞬理解できなかった。
俺は来てほしくなかった。諦めたかったんだ。
なのに。
「たくさん待ったでしょう?本当にごめんなさい…泣かないで…」
言いながら彼女がそっと俺の頬に触れた。
少し冷たい指先が、更に冷たい頬に流れる涙を優しく拭う。
泣いていたなんて、気付かなかった。
ただ、さっきまであんなに寒かったのに、今はマフラーを外してしまいたいくらいに身体が熱くなっている。
言葉がうまく出てこなくて、会ったら何を話そうか散々考えていたくせに、結局何も言えないまま、俺は感情を抑えることもせず泣き続けた。
彼女は静かに、柔らかい肌触りのいいハンカチでそれを拭ってくれた。
本当は諦めたくなんてなかった。
来なくていいなんて、嘘だ。
彼女に会えたことで、本心が冷め切った心を沸騰させていく。
まだこんなにも、あの夏の日に覚えた熱が残っていた。
そのことに驚き、そして同時に俺の心を強く奮い立たせてくれた。
「お手紙、すごく嬉しかった。“空が泣かなくても、雨宿りをすれば現れるだろう。君を想えば夕暮れさえも、時間を止めてくれるはず。月の明けた時から日の暮れる間だけ、笑う空に百合を想う。”……とっても素敵な詩だったわ」
彼女にだけ解るように書いた詩だ。
精一杯頭を捻って考えたお陰か、ちゃんと伝わっていたようで心から安心した。
だがしかし。
俺の涙がようやく止まった頃、彼女が気遣って近くの喫茶店へ連れてきてくれて。
温かい紅茶を飲んだところでほっと息をつき、今に至るわけだが。
「………」
色んな意味で恥ずかし過ぎる。
そのせいで彼女の顔もまともに見れていない。
彼女は来ないんじゃないかと疑ったこと、本人が来てくれた嬉しさの余り泣いてしまったこと、そして目の前で俺の作った詩を暗唱されたこと。
どれもこれも羞恥心を煽るもので、彼女を疑ったことについては罪悪感も沸いてきて。
けど、暗唱できるほどあの詩を読んでくれたのかと思うと、くすぐったい気持ちと嬉しい気持ちが湧き上がってきて――。
「っ、ごめん」
甘い感情に流される前に、謝っておきたかった。
目の前の彼女はずっと黙り込んでいた俺が急に謝ったせいで、驚いている。
目を見開いたかと思えば眉根を寄せ、少し戸惑っているような眼差しを向けてくる。
さっきまであの日みたいな蕩けた笑顔を見せていたのに。
「どうして、謝るの?貴方はなにも悪くないのに…」
悪いのは私だと続きそうな言葉を遮って、俺は言った。
「もう来ないんじゃないかって、疑った。あんたを、信じ切れなかった。ごめん」
寒さのせいだなんて言い訳ができるわけでもなく。
ただ自分の心が情けなかっただけだと、声に苛立ちを滲ませながら頭を下げる俺に、彼女は両手で俺の頬を掬い上げた。
ゆっくりと重なっていく視線が酷くもどかしい。
そうして視線を合わせたまま、彼女は首を小さく振った。
喫茶店のテーブルは小さめで、見つめ合う顔の距離が近い。
心臓がまた、跳ね上がる。
「秋だから…」
「え?」
眉根を寄せたままの呟きに、反射的に聞き返してしまう。
彼女はどこか切なそうに、言葉を紡いでいく。
「秋だから、しかたがないの。冷たい空気は吸い込むと胸を冷やすから、心からぬくもりが抜けてしまって、手のひらからこぼれ落ちてしまう。人恋しい空っぽな胸に外気がしみ込んで、貴方を苛んでいたのよ…。私のせいだわ……ごめんなさい」
言いながら、頭を下げていった。
秋は人恋しくさせる季節だと、昔聞いたラジオで言っていた。
ストリートミュージシャンからのし上がった人気アーティスト。
たくさんの季節と涙を越えて、ここまで来れたんだと声を震わせていたのを覚えてる。
彼女も、俺より多くの季節を越えてきて、俺よりたくさんのことを知っていて、俺が解らなかった正体も、難なく言い当てて。
けど彼女から感じるものはそんな人生の経験なんかじゃない。
もっと純粋な、周りのものをありのままに受け入れて、自分の中でそれを形作っていける柔らかさだ。
この人の世界は日常そのもので、その表現の優しさに、美しさに俺は惹かれた。
それはきっと、他の人も同じなんだろう。
言葉に滲む気遣いが、そっと俺の心を温めてくれる。
謝ってほしいわけじゃない。罪悪感を覚えてほしいわけでもない。
こんな風に、会いたかったわけじゃない。
俺の言葉はちゃんと届いていて、今目の前にこの人は居る。
それで充分じゃないか。