金木犀は初恋の香り
太ももの上に本を乗せて読書をする少女と、ただただぼーっとしている少年がいる。
「……あの花なんていう名前だっけ。オレンジ色で、すごい香りの強い」
「もしかして、金木犀のことかな?」
「あぁ、そうそれ」
ここは、様々な植物が生い茂る緑の楽園―――植物園。規模は小さく、それゆえにこの植物園には客が少ない。
とても静かで、のどかな空間。人気がないことで初めて生まれるこの強みは、少数であるがリピーターを生み出していた。中央の広間にあるベンチに座る二人も幾度となくこの場所に足を運んできている根強いファンである。
「あの花の匂い嗅ぐと秋って感じするよなあ」
「そうだね。金木犀の香りは秋を告げるとも言われるし。ところで、君は金木犀の香りは好きかな?」
「んー、まぁ好きだよ。ちょっと鼻につくときもあるけどいい香りなのは間違いないしなあ」
「そっか。男子は金木犀の香りが嫌いなイメージがあったんだけど、修正しないとね」
「単純に花に興味ないだけじゃね?」
「そうかもしれない」
くすくすと笑いながらも、その視線は太ももの上にある本に向けられている。会話をしながら本を読むなんて器用な奴だと感心する。
色素の薄い茶色の髪は、光の加減で淡い金色にも見える。同様に色素の薄い瞳や、甘い声色も相まって、まるで天使のようだ。それぐらいに、目の前の少女の造形は整っている。
この場所で彼女とは何度も会ったし、何度も話した。
休日にこの場所に足を運ぶのも、必ずと言っていいほどにいる彼女に会うためだと言っても過言ではない。その証左に、植物園にいるというのにまったく動かず、ベンチに座っているだけである。
「君は、金木犀の花言葉を知っているかな」
「知らないな」
「『謙虚、謙遜』―――だよ。金木犀のあの艶やかな香りに比べて、花が小ぶりで控えめであることに由来するそうだ」
「へぇ」
もっとも、彼女の話が面白いというのも大きな理由ではある。植物が好きであるから植物園に足を運んでいるのだから、植物に詳しい彼女の話を聞くことは、植物を好きであることに反しない。
時折、鯛焼きを食べただとか秋は焼き芋だとか雑談を交えつつ―――その日を終えた。
× × ×
金木犀の香りがする。
学校の帰り、下駄箱で靴を履き替え、校舎の外に出て思ったことはそれだった。グラウンドの端に金木犀が生えていたはずだ。発生源はそれだろう、と当たりをつけ、誘われるように歩いて行った。
遠目にもわかる、フェンス越しに見える鮮やかな金木犀―――そして、その手前に見える見知った顔が二つ、見知らぬ顔が一つ。
「お、葉介じゃん」
見知った顔の一つである、クラスメイト兼友人の浩隆が俺を見て声を上げた。
ここで無視して通り過ぎるのもなんだか感じが悪いし、浩隆の傍にいる二人の女子生徒にも興味があるので、無言で近づいた。
「紹介するよ。こいつクラスメイトの日高葉介。で、こっちの子たちは後輩の―――」
「花って呼んでくれればいいよ」
浩隆の声を遮るように、見知った顔の片割れ―――植物園の彼女、花が口を開いた。
「あ、私高梨鈴です」
「あぁ、よろしく。―――で、お前何してんの、練習は?」
サッカー部員の浩隆は、本来グラウンドで練習をしているサッカー部の連中と一緒になっていなくてはおかしい。なんでこんな端で女子と会話しているのか。
「いやぁ、この子たちが俺のファンだっていうからさあ」
だからなんだというのだろう。
しかし、なんというか、意外だ。花……ちゃん? はこういう男を追っかけるのに興味がないと思っていた。
「言っておくけど、ファンなのは鈴だけで私は違うよ? 私は金木犀を見に来ただけだから」
「なんだ、お前もか」
「というと君もかな?」
「まぁな」
脳内で花ちゃんとか呼んでみたけど、でもやっぱり名前は呼びづらい。というのも、名前で呼ばないことに慣れきってしまっているからだ。植物園に通い、そこで花と出会ってから約一年。それだけ経つというのに、同じ学校に通っていたことはおろか名前まで今の今まで知らなかった。
平然としているが内心は動揺しっぱなしである。
なんでこいつここにいるの、という感じだ。
「なんだ、知り合いなのか?」
「学外でちょっとな。まさか後輩だとは思わなんだ」
「私も君が先輩だとは思わなかった。むしろ年下だとさえ思っていたよ。敬語でも使おうか?」
「いらんわ」
「だろうね」
いつも通りのすまし顔でくすくすと笑う。
「鈴、ちょっと私は席を外すよ。君もついてきてくれ、ちょっと話がしたい」
「あいよ。浩隆、じゃあな」
「ういうい。あとで話聞かせろよ」
「気が向いたらな」
先行する花に着いて行くも、すぐに立ち止った。先ほどいたところから目算で十メートルといったところか。ここには、フェンス越しではあるが目の前に金木犀があった。
「うん。やっぱり綺麗だね」
「けど、ここまで近くにあるとちょっときつい」
金木犀は遠くにいても感じることができるほど強い香りを持つ。そのため近付きすぎると匂いにすこし酔ってしまう。
「それは確かに。でも、金木犀の花言葉には『初恋、や陶酔』というものもあるんだよ。初めての恋というものは鮮烈で、知らず酔ってしまうものだ。もしかしたら、金木犀の香りで初恋を思い出した人が多くいたのかもしれないね。だとすれば、秋を迎え、金木犀の香りが大気に満ちるたびに初恋を思い出し、浸るのかもしれない。素敵だね」
「初恋ねえ。お前には初恋の相手とかいたのか」
「さぁ? そういう君はどうなんだい?」
「知らねえ。好きだった人はいたのかもしれないけど、よく覚えてないし。恋愛感情だったかどうかもわからん。ただの友愛だったような気もするなあ」
「ふんむ。LikeとLoveの違いというやつかな。確かに明確な違いというものを口で説明するのは難しいかもしれないね。私にもよくわからない」
「俺らは金木犀で初恋を思い出すことはなさそうだな」
「そうだね。……でもきっと、君とこうして話したことは思い出せるんじゃないかな」
「……恥ずかしくない?」
「……ちょっとだけ」
でもまぁ、この時間を思い出すことができる香りだっていうなら、それもいいかもしれないな。
なんて、そんなことを思い、少しばかり気恥ずかしくなる。
この感情を誤魔化すように口を開く。
「そういえば、話がしたいって結局何だ」
「あぁ……そうだねえ。そういえばそんなこと言ったっけ」
「なんだ、何もないのか」
「何か話したいと思ったのはそうなんだけど……何が言いたかったのか、忘れてしまったな」
「そうか」
「そうだよ」
「あっちは何話してるんだろうなあ」
「ふむん。ろくなことじゃなさそうだけどねえ」
先ほどから無視をしてはいたが、そう距離が離れているわけではないのでちらほらと二人の声が聞こえる。
内容まではわからないが、葉介、と自分の名前が時折聞こえる。となれば、俺たちのことを話していることは間違いないだろう。
「先輩」
一歩踏み出して、くるんと振り返る。
色素の薄い茶髪が日の光を帯びて、蜂蜜色に煌めく。
「これからよろしくね」
そう言って―――儚げに微笑んだ。
「……どう? 今の私可愛くなかった?」
「今の台詞がなければ完璧だった」
「えー」
軽口を叩き合いながら、未だに葉介だの花だのとしゃべっている友人たちの下へ二人は歩いて行った。




