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水面の部屋  作者: antild


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9/13

父のこと

 金曜の夜、恒一は珍しく早めに帰宅した。仕事が順調に片付いたわけではないが、週の終わりで無理に詰める必要もなかった。明日に回しても問題のないものは、そのままにしてきた。


 部屋に入ると、少しだけ空気がこもっていた。窓を開けて換気をし、上着を脱ぐ。台所で湯を沸かしながら、冷蔵庫の中身を確認する。母からもらった惣菜はもう残っていない。結局、簡単にインスタントのスープとパンで済ませた。


 食事を終えたあと、何となくテレビをつける。バラエティ番組が流れていたが、内容は頭に入ってこなかった。リモコンでチャンネルを変えても、同じような感覚だった。


 しばらくして、恒一はテレビを消した。


 部屋が静かになると、冷蔵庫の音と、外を通る車の走行音だけが残る。こういう時間になると、普段は気にしないことが浮かびやすくなる。


 テーブルの引き出しを開け、地図と紙を取り出す。ここ数日、これを見ることが習慣のようになっていた。


 ——来たなら、これで十分だと思う。無理に探さなくていい。


 短い文章だが、読むたびに少しずつ意味が変わる。最初は曖昧にしか感じなかったが、今は「何かを知っている人間の言葉」に思える。


 相馬は、何を知っていて、何を言わなかったのか。


 恒一は紙をテーブルに置いたまま、ふと別のことを思い出した。


 父のことだった。


 直接つながる話ではない。だが、工場という言葉を聞いてから、どこかで引っかかっていた。


 恒一の父は、町工場で働いていた。


 大きな会社ではなく、十人もいない小さな工場で、金属部品の加工をしていた。仕事の内容を詳しく聞いたことはないが、旋盤やフライス盤を使う仕事だったはずだ。


 子どものころ、一度だけその工場に連れていってもらったことがある。


 中は油の匂いが強く、機械の音が絶えず響いていた。父は作業着を着て、他の人と同じように動いていた。家で見る姿とは違って、無駄な動きがなく、言葉も少なかった。


「危ないから、そこから動くな」


 そう言われて、恒一は隅のほうで座って見ていた。機械が動くたびに金属が削られ、細かい切りくずが飛ぶ。単純な作業の繰り返しのように見えたが、父たちはその中で何かを調整しているらしかった。


 帰り道、父は特に仕事の話はしなかった。恒一が何か聞いても、「まあ、いろいろだ」としか答えない。


 家では、父はあまり多くを語る人ではなかった。怒ることも少なかったが、積極的に話すこともない。母が家のことを回し、父は仕事をしている。そういう分担が自然にできていた。


 高校に入るころ、父は工場を辞めた。


 理由ははっきり聞いていない。景気が悪くなったのか、人間関係の問題だったのか、それとも別の事情か。いくつかの話は耳にしたが、どれが本当なのかはわからない。


 そのあと、父は別の会社に勤めた。今度は工場ではなく、配送関係の仕事だった。朝が早く、帰りも遅い日が多かった。


 生活は大きくは変わらなかったが、父の様子は少し変わった気がする。以前より疲れて見えることが増え、家で過ごす時間も減った。


 恒一はその変化を、深く考えたことはなかった。ただ、「そういうものだ」と受け止めていた。


 大学に進学して家を出てからは、父と顔を合わせる機会も減った。帰省しても、会話は多くない。仕事の話もあまりしないまま、時間が過ぎる。


 父が倒れたのは、恒一が社会人になって三年目のときだった。


 突然だった。脳の病気で、病院に運ばれ、そのまま意識が戻らなかった。


 見舞いに行ったとき、父はすでに言葉を話せる状態ではなかった。目は開いていたが、焦点が合っているのかどうかもわからない。


 何を話せばいいのか、わからなかった。


 結局、恒一はほとんど何も言えなかった。


 数日後、父は亡くなった。


 恒一はテーブルの上の紙を見たまま、しばらく動かなかった。


 父のことを思い出すのは久しぶりだった。意識的に避けていたわけではないが、日常の中で使う場面がなかった。


 工場という言葉が、少しだけ記憶を引き戻した。


 相馬の家も工場だった。規模や状況は違うかもしれないが、似たような環境だった可能性はある。


 もしそうだとしたら、あの頃の相馬が何を考えていたのか、少しは想像できるかもしれない。


 家の事情。

 仕事のこと。

 将来のこと。


 高校生には抱えきれないものを、すでに抱えていたのかもしれない。


 恒一は、そのことを知らなかった。

 知ろうともしなかった。


 ただ、一緒に帰って、他愛もない話をして、それで十分だと思っていた。


 それが間違いだったとは思わない。だが、足りなかった可能性はある。


 時計を見ると、もう十一時を回っていた。明日は休みだが、あまり夜更かしする気にもなれなかった。


 恒一は紙と地図を引き出しに戻し、立ち上がった。


 洗面所で顔を洗い、歯を磨く。鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらない。ただ、目の奥に少しだけ疲れが残っているように見えた。


 布団に入ると、すぐには眠れなかった。


 父の顔を思い出そうとするが、はっきりとは浮かばない。断片的な記憶だけがつながらずに残る。


 工場の音。

 油の匂い。

 短い言葉。


 それだけでも、十分なのかもしれない。


 人のことを完全に理解することはできない。家族であっても、それは変わらない。


 相馬のことも同じだ。


 知らなかった部分がある。

 今も知らないままの部分がある。


 それでも、少しずつ見えてくるものはある。


 恒一は目を閉じた。


 答えを急ぐ必要はない。

 ただ、見ようとしていること自体が、今までとは違っていた。

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