野本の話
木曜の午後、事務所の空気は少し重かった。仕事が滞っているわけではないが、どこか噛み合っていない感じがあった。電話のタイミングが重なり、修正の指示が行き違い、些細なことで確認が増える。忙しさというより、流れの悪さに近い。
恒一はデスクで見積もりを作りながら、時折ため息をつきそうになるのを抑えていた。こういう日は、焦ってもいいことがない。目の前の作業を一つずつ処理していくしかない。
「篠崎さん」
後ろから声がした。振り向くと、野本が立っている。
「ちょっといいですか」
「どうした」
「この件、客先の指示がよくわからなくて」
モニターを見ると、修正指示のメールが表示されていた。文章が曖昧で、どこまで直せばいいのか判断しにくい内容だった。
「これ、たぶん向こうもちゃんと整理できてないな」
「そうですよね」
「一回電話したほうがいい。メールでやり取りすると長引く」
「電話……」
野本は少しだけ間を置いた。
「苦手?」
「ちょっと」
「まあ、最初はそうだよな」
恒一は立ち上がった。
「横で聞いてていいから、一回やってみる?」
野本は少し迷ったが、やがて頷いた。
「やってみます」
電話をかける前に、要点を簡単に整理する。どこを確認するのか、どの順番で聞くのか。それを短く説明してから、受話器を渡した。
野本は深呼吸してから番号を押した。呼び出し音のあいだ、明らかに緊張しているのがわかる。
やがて相手が出て、会話が始まった。
最初はぎこちなかったが、要点はきちんと押さえている。途中で言葉に詰まりそうになる場面もあったが、恒一が軽く頷くと、そのまま続けた。
通話は五分ほどで終わった。
「……確認できました」
受話器を置いたあと、野本は小さく息を吐いた。
「ちゃんとできてたよ」
「そうですか」
「今ので十分。あとは慣れ」
野本は少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「電話って、思ってたより大したことないですか」
「大したことないときもあるし、面倒なときもある」
「どっちですかね、今のは」
「大したことないほう」
そう言うと、野本は小さく笑った。
それだけのやり取りだったが、事務所の空気が少し軽くなった気がした。大きな問題が解決したわけではないが、流れが一つ整った。
夕方、仕事が一段落したころ、野本がまた声をかけてきた。
「今日、ありがとうございます」
「別に大したことしてないよ」
「いや……助かりました」
野本は少し言葉を探してから続けた。
「前の会社では、こういうの全部自分でやれって感じだったんで」
「前の会社って、どこだっけ」
「印刷じゃないです。小さい広告会社で」
「へえ」
「営業と制作、両方やらされてて」
「大変そうだな」
「まあ……」
野本は曖昧に笑った。
「結局、合わなくて辞めたんですけど」
その言い方は、特に深刻でも軽くもなかった。ただ、簡単な話ではなかったことは伝わってくる。
「こっちはどう」
「まだマシです」
「“まだ”ってつくのか」
「今のところ、です」
正直な言い方だった。
恒一は少し考えてから言った。
「仕事って、どこもそんなに変わらないと思うよ」
「そうなんですか」
「楽なとこもあるけど、その分別の面倒があるし」
「じゃあ、どうすればいいんですかね」
野本の問いは、軽い雑談の形をしていたが、少しだけ本気が混じっていた。
恒一はすぐには答えなかった。
「どうすればいいかは、俺もまだわかってない」
正直にそう言った。
「ただ、やめるか続けるかを、その場の勢いで決めないほうがいいとは思う」
「勢いで辞めました」
「だろうな」
野本は苦笑した。
「そのときは、それしかないと思ったんで」
「そういうときもある」
「でも、後から考えると、もう少しやり方あったかなって」
恒一は頷いた。
「それはみんな思うよ」
自分もそうだった。入社して間もないころ、辞めたいと思ったことは何度もある。だが結局続けているのは、決定的な理由がなかったからだ。
良くも悪くも、流れに乗ってきた結果だった。
「篠崎さんは、辞めたいと思ったことないですか」
「あるよ」
「でも辞めてない」
「辞めるほどじゃなかっただけ」
「その違い、難しいですね」
「難しいな」
そこで会話は途切れた。お互い、それ以上踏み込む気はなかった。
退社時間になり、恒一は会社を出た。外はすでに暗くなっている。風は少しだけ和らいでいた。
車に乗り込み、エンジンをかける。
野本の話が頭に残っていた。仕事を辞めるか続けるか。そういう選択は、誰にとっても避けて通れないものだ。
そして、それは過去の話でもある。
相馬は、あの工場をどうしたのか。
辞めたのか、続けられなかったのか。
それとも、別の形にしたのか。
古本屋の話では、跡継ぎがいなくて閉めたと言っていた。だが、それがそのまま事実とは限らない。
恒一は信号待ちで前を見たまま、少し考えた。
自分は、あのとき何も知らなかった。
聞こうともしなかった。
ただ、距離ができて、そのまま終わった。
もしあのとき、もう少し踏み込んでいたら、何か違ったのだろうか。
そう考えても意味はないが、考えずにはいられなかった。
アパートに戻り、部屋に入る。電気をつけ、上着を脱ぐ。いつもと同じ動作だが、今日は少しだけ疲れを感じた。
台所で簡単に夕食を済ませ、テーブルに座る。ふと、引き出しに手が伸びた。
地図と、あの紙。
取り出して、並べてみる。
意味はまだはっきりしない。だが、何もないわけではない。
野本が言っていたように、選択には理由がある。表に出ているものと、そうでないものがある。
相馬も、何かを選んだはずだ。
そして、その結果が今につながっている。
恒一は紙を折りたたみ、元に戻した。
すぐに答えが出る話ではない。
ただ、少しずつ見えてくるものがある。
それだけで、十分なのかもしれない。
そう思いながら、恒一は電気を消した。




