高校の終わり
その日の夜、恒一は仕事から戻ってもすぐにテレビをつけなかった。部屋の明かりだけをつけて、しばらく何もせずに椅子に座っていた。昼間、母から聞いた話が頭に残っていた。
相馬の家。
工場。
高校の後半。
そこまではつながった。だが、その先が曖昧なままだった。自分と相馬がどのように距離を置くようになったのか、決定的な場面が思い出せない。
恒一はテーブルの上に置いていた卒業文集を手に取った。何度も開こうとして、そのたびにやめていた冊子だ。今度はそのままページをめくった。
自分の文章には目を通さず、クラスのページを順に追う。顔写真と名前、その下に短いコメントが並んでいる。見覚えのある顔が多いが、名前と一致しないものもある。十年以上経てばそんなものだ。
相馬のページで手が止まる。
写真の中の相馬は、当時の記憶より少し細く見えた。髪も短く、制服の着こなしもきちんとしている。
ただ、表情は記憶にあるものと大きくは変わらない気がした。
恒一はそのページを見たまま、ゆっくりと記憶をたどった。
高校二年の終わりごろだったと思う。
相馬は、放課後に残ることが増えていた。部活に入っているわけではないのに、教室や廊下に残っていることが多い。恒一が帰ろうとすると、何となく一緒に出る流れになる。
「今日も帰る?」
そんなふうに声をかけられて、二人で校門を出る。特に約束をしているわけではないが、自然とそうなっていた。
帰り道は途中まで同じだった。大きな通りに出る手前で、恒一は左に曲がり、相馬はまっすぐ進む。そこまでの数分間、取りとめのない話をすることが多かった。
勉強のこと、先生のこと、クラスのこと。深い話をしているわけではないが、気を使わずに話せる相手だった。
ある日、恒一が言った。
「最近、残ること多いよな」
相馬は少しだけ考えてから答えた。
「まあな」
「何してんの」
「別に」
いつも通りの返事だった。詳しくは言わないが、隠している感じでもない。
「家、遠いのか」
「そうでもない」
「じゃあ何で」
相馬はそのとき、少しだけ言葉を選んだ。
「帰っても、やることあんまりないから」
恒一はそれ以上聞かなかった。深く踏み込むのは違う気がしたし、相馬もそれを望んでいないように見えた。
その頃から、相馬の様子が少し変わっていた。大きな変化ではないが、どこか落ち着きが増しているというか、周囲との距離を一定に保つようになっていた。
三年に上がると、クラスが変わった。だが、同じ校舎にいる以上、顔を合わせる機会は多い。昼休みに廊下で会ったり、帰りに偶然同じタイミングになったりする。
ただ、それまでのように「自然と一緒に帰る」ことは減っていった。
理由ははっきりしない。どちらかが避けたわけでもない。ただ、タイミングが合わなくなり、声をかける機会が減り、そのまま距離ができた。
恒一はそのことを特別に気にしていなかった。高校三年は受験の年で、それぞれが自分のことで忙しくなる。関係が少し変わるのは当たり前だと思っていた。
だが、ある日を境に、明らかに何かが変わった。
夏前の、蒸し暑い日だった。
放課後、恒一は教室で一人、参考書を開いていた。周りにはまだ数人残っていたが、ほとんどが帰る準備をしている。
そのとき、廊下から少し大きな声が聞こえた。
何か言い争いのような音だった。
恒一は気になって、教室の外へ出た。廊下の角のあたりに、数人の生徒が集まっている。その中心に、相馬がいた。
向かいに立っているのは、同じ学年の男子だった。名前は覚えていないが、あまり素行のよくないグループにいたはずだ。
「だから、関係ねえだろ」
その男子が言った。
相馬は特に声を荒げることもなく答える。
「関係ないなら、やめればいいだけだろ」
「お前に言われる筋合いねえよ」
周りの空気が少し張りつめている。喧嘩になるかどうか、ぎりぎりのところだった。
恒一は少し離れた場所から見ていた。止めに入るべきかどうか迷ったが、動けなかった。
やがて、別の教師が来て、その場は収まった。詳しい事情はわからないまま、騒ぎは終わった。
そのあと、相馬と話す機会があった。
「さっきの、何だったんだ」
恒一が聞くと、相馬は短く答えた。
「別に」
「別にって」
「大したことじゃない」
それ以上は話さなかった。
恒一も、それ以上聞けなかった。
その出来事のあとから、はっきりと距離ができた。
偶然会えば話はするが、以前のように一緒に帰ることはなくなった。恒一から声をかけることもあったが、どこか噛み合わない感じがあった。
受験が近づくにつれて、その距離は自然に固定された。
卒業式の日、二人は言葉を交わしたかどうかも曖昧だった。
写真を撮った記憶もない。
ただ、そのまま終わった。
恒一は文集を閉じた。
思い出したのは、はっきりとした「別れ」ではなかった。きっかけになりそうな出来事はあったが、それだけで関係が終わったとは言い切れない。
むしろ、曖昧なまま距離ができ、そのまま戻らなかった、というほうが近い。
ただ、あのときの相馬の様子は、今になって引っかかる。
何かを抱えていたのは間違いない。
そして、それを周りに説明する気もなかった。
工場のことと関係があるのかもしれない。
恒一は椅子に深く座り直した。
過去は変えられないが、見方は変わる。
今になって意味が出てくることもある。
あのとき、自分は何も聞かなかった。
それが正しかったのかどうかは、今でもわからない。
ただ、その結果として、関係はそのまま終わった。
部屋の時計を見ると、もう十時を回っていた。明日も仕事だ。考えても仕方のないことを、長く考えすぎている気もする。
だが、完全に切り替えることもできなかった。
恒一は文集を引き出しに戻し、電気を消した。
布団に入ると、あの廊下の光景が頭に浮かぶ。声の調子、空気の張りつめ方、自分が動けなかったこと。
今さらどうすることもできないが、あの時点で何かが変わっていたのは確かだった。
そしてその延長に、今の出来事がある。
相馬は、何を伝えようとしているのか。
それとも、何も伝えるつもりはなく、ただ確認しているだけなのか。
答えはまだ見えない。
ただ、過去と現在が少しずつつながり始めていることだけは、はっきりしていた。




