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水面の部屋  作者: antild


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7/13

高校の終わり

 その日の夜、恒一は仕事から戻ってもすぐにテレビをつけなかった。部屋の明かりだけをつけて、しばらく何もせずに椅子に座っていた。昼間、母から聞いた話が頭に残っていた。


 相馬の家。

 工場。

 高校の後半。


 そこまではつながった。だが、その先が曖昧なままだった。自分と相馬がどのように距離を置くようになったのか、決定的な場面が思い出せない。


 恒一はテーブルの上に置いていた卒業文集を手に取った。何度も開こうとして、そのたびにやめていた冊子だ。今度はそのままページをめくった。


 自分の文章には目を通さず、クラスのページを順に追う。顔写真と名前、その下に短いコメントが並んでいる。見覚えのある顔が多いが、名前と一致しないものもある。十年以上経てばそんなものだ。


 相馬のページで手が止まる。


 写真の中の相馬は、当時の記憶より少し細く見えた。髪も短く、制服の着こなしもきちんとしている。

ただ、表情は記憶にあるものと大きくは変わらない気がした。


 恒一はそのページを見たまま、ゆっくりと記憶をたどった。


 高校二年の終わりごろだったと思う。


 相馬は、放課後に残ることが増えていた。部活に入っているわけではないのに、教室や廊下に残っていることが多い。恒一が帰ろうとすると、何となく一緒に出る流れになる。


「今日も帰る?」


 そんなふうに声をかけられて、二人で校門を出る。特に約束をしているわけではないが、自然とそうなっていた。


 帰り道は途中まで同じだった。大きな通りに出る手前で、恒一は左に曲がり、相馬はまっすぐ進む。そこまでの数分間、取りとめのない話をすることが多かった。


 勉強のこと、先生のこと、クラスのこと。深い話をしているわけではないが、気を使わずに話せる相手だった。


 ある日、恒一が言った。


「最近、残ること多いよな」


 相馬は少しだけ考えてから答えた。


「まあな」


「何してんの」


「別に」


 いつも通りの返事だった。詳しくは言わないが、隠している感じでもない。


「家、遠いのか」


「そうでもない」


「じゃあ何で」


 相馬はそのとき、少しだけ言葉を選んだ。


「帰っても、やることあんまりないから」


 恒一はそれ以上聞かなかった。深く踏み込むのは違う気がしたし、相馬もそれを望んでいないように見えた。


 その頃から、相馬の様子が少し変わっていた。大きな変化ではないが、どこか落ち着きが増しているというか、周囲との距離を一定に保つようになっていた。


 三年に上がると、クラスが変わった。だが、同じ校舎にいる以上、顔を合わせる機会は多い。昼休みに廊下で会ったり、帰りに偶然同じタイミングになったりする。


 ただ、それまでのように「自然と一緒に帰る」ことは減っていった。


 理由ははっきりしない。どちらかが避けたわけでもない。ただ、タイミングが合わなくなり、声をかける機会が減り、そのまま距離ができた。


 恒一はそのことを特別に気にしていなかった。高校三年は受験の年で、それぞれが自分のことで忙しくなる。関係が少し変わるのは当たり前だと思っていた。


 だが、ある日を境に、明らかに何かが変わった。


 夏前の、蒸し暑い日だった。


 放課後、恒一は教室で一人、参考書を開いていた。周りにはまだ数人残っていたが、ほとんどが帰る準備をしている。


 そのとき、廊下から少し大きな声が聞こえた。


 何か言い争いのような音だった。


 恒一は気になって、教室の外へ出た。廊下の角のあたりに、数人の生徒が集まっている。その中心に、相馬がいた。


 向かいに立っているのは、同じ学年の男子だった。名前は覚えていないが、あまり素行のよくないグループにいたはずだ。


「だから、関係ねえだろ」


 その男子が言った。


 相馬は特に声を荒げることもなく答える。


「関係ないなら、やめればいいだけだろ」


「お前に言われる筋合いねえよ」


 周りの空気が少し張りつめている。喧嘩になるかどうか、ぎりぎりのところだった。


 恒一は少し離れた場所から見ていた。止めに入るべきかどうか迷ったが、動けなかった。


 やがて、別の教師が来て、その場は収まった。詳しい事情はわからないまま、騒ぎは終わった。


 そのあと、相馬と話す機会があった。


「さっきの、何だったんだ」


 恒一が聞くと、相馬は短く答えた。


「別に」


「別にって」


「大したことじゃない」


 それ以上は話さなかった。


 恒一も、それ以上聞けなかった。


 その出来事のあとから、はっきりと距離ができた。


 偶然会えば話はするが、以前のように一緒に帰ることはなくなった。恒一から声をかけることもあったが、どこか噛み合わない感じがあった。


 受験が近づくにつれて、その距離は自然に固定された。


 卒業式の日、二人は言葉を交わしたかどうかも曖昧だった。


 写真を撮った記憶もない。


 ただ、そのまま終わった。


 恒一は文集を閉じた。


 思い出したのは、はっきりとした「別れ」ではなかった。きっかけになりそうな出来事はあったが、それだけで関係が終わったとは言い切れない。


 むしろ、曖昧なまま距離ができ、そのまま戻らなかった、というほうが近い。


 ただ、あのときの相馬の様子は、今になって引っかかる。


 何かを抱えていたのは間違いない。

 そして、それを周りに説明する気もなかった。


 工場のことと関係があるのかもしれない。


 恒一は椅子に深く座り直した。


 過去は変えられないが、見方は変わる。

 今になって意味が出てくることもある。


 あのとき、自分は何も聞かなかった。

 それが正しかったのかどうかは、今でもわからない。


 ただ、その結果として、関係はそのまま終わった。


 部屋の時計を見ると、もう十時を回っていた。明日も仕事だ。考えても仕方のないことを、長く考えすぎている気もする。


 だが、完全に切り替えることもできなかった。


 恒一は文集を引き出しに戻し、電気を消した。


 布団に入ると、あの廊下の光景が頭に浮かぶ。声の調子、空気の張りつめ方、自分が動けなかったこと。


 今さらどうすることもできないが、あの時点で何かが変わっていたのは確かだった。


 そしてその延長に、今の出来事がある。


 相馬は、何を伝えようとしているのか。


 それとも、何も伝えるつもりはなく、ただ確認しているだけなのか。


 答えはまだ見えない。


 ただ、過去と現在が少しずつつながり始めていることだけは、はっきりしていた。

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