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水面の部屋  作者: antild


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6/13

古い記憶

 水曜の朝、恒一はいつもより少し早く目が覚めた。布団の中でしばらく天井を見てから、体を起こす。寝不足というほどではないが、頭の奥に何か残っている感じがあった。昨日、あの場所へもう一度行ったことと、古本屋で見た写真が、完全には消えていなかった。


 支度をして家を出る。空は晴れていたが、風は冷たい。季節が進んでいるのか戻っているのか、よくわからない気候だった。


 会社に着くと、すでに半分ほどの社員が来ていた。事務所の中は、朝特有のまだ動ききっていない空気が漂っている。


「おはようございます」


 挨拶をして席に着き、パソコンを立ち上げる。メールを確認しながら、今日の予定を頭の中で組み立てる。午前中に外回りが二件、午後は見積もりと修正対応。特別変わった一日ではない。


 だが、仕事のことを考えていても、意識のどこかに別の線が引かれている感じがあった。


 相馬製作所。

 あの空き地。

 手書きの地図。


 それぞれが単独では意味を持たないが、並べると無視できなくなる。


 朝礼が終わり、恒一は営業車に乗って外へ出た。最初の訪問先は市内の小さな印刷物代理店だった。注文の確認と納期の打ち合わせを済ませると、特に問題もなく終わった。


 二件目のあと、時間が少し空いた。時計を見るとまだ十一時前。昼には早いが、会社へ戻るには中途半端な時間だった。


 恒一は少し考えてから、車の進路を変えた。


 実家のほうへ向かう道だった。


 特に約束があるわけではない。ただ、昨日から母のことが少し気になっていた。相馬の名前を出したときの、あの一瞬の間。気にしすぎと言えばそれまでだが、引っかかりが残っていた。


 住宅街に入り、見慣れた道を進む。実家は二階建ての古い家で、外壁はところどころ塗り直されているが、全体としては年月が出ている。父が生きていたころからほとんど変わっていない。


 車を路肩に停め、玄関の前に立つ。インターホンを押すと、少しして母の声がした。


「はい」


「俺だけど」


「あら、どうしたの」


 扉が開き、母が顔を出した。


「仕事は?」


「近くまで来たから」


「珍しいわね」


 そう言いながらも、母はすぐに中へ入るように促した。


 家の中は変わっていなかった。玄関の匂い、廊下の軋み、居間の配置。どれも記憶とほぼ同じだ。違うのは、そこに父がいないことくらいだった。


「お茶入れるから、座って」


 恒一は居間の椅子に腰を下ろした。テーブルの上には新聞と、読みかけの雑誌が置いてある。生活の気配はあるが、どこか静かすぎる感じもする。


 母がお茶を持ってきて、向かいに座った。


「で、どうしたの」


「ちょっと聞きたいことがあって」


「何」


 恒一は少し言葉を選んだ。


「相馬って覚えてる?」


 母はすぐに答えなかった。湯のみを持ったまま、少しだけ視線を落とす。


「覚えてるわよ」


「家に来たことあったよな」


「何回かね」


「どんなやつだったか、覚えてる?」


 母は考えるようにしてから言った。


「静かな子だったわね。あんたと違って」


「どういう意味」


「別に悪い意味じゃないわよ。落ち着いてたってこと」


 その言い方に、少しだけ含みがあるように感じた。


「家のこととか、何か聞いたことある?」


「家?」


「うん。工場やってたとか」


 母はそこで、はっきりと顔を上げた。


「……どこで聞いたの」


「ちょっと調べてたら」


 嘘ではないが、詳しくは言わなかった。


 母はしばらく黙ってから、息をひとつ吐いた。


「やってたわよ。金属の工場」


「やっぱり」


「昔の話だけどね。あんたが高校のころには、もうだいぶ厳しかったはず」


「知ってたんだ」


「そりゃね」


 母はそう言ってから、少しだけ言葉を続けた。


「一度だけ、お母さんと話したことがあるのよ」


「相馬の母親?」


「そう。学校の帰りに、あの子が具合悪くなって、家まで送っていったことがあって」


 恒一は記憶を探ったが、その出来事は思い出せなかった。


「そのとき、少し話してね。大変そうだったわよ」


「何が」


「仕事もそうだし、家のことも」


 母の言い方は、具体的ではなかったが、重さはあった。


「それって、いつ頃?」


「高校の後半だったと思う」


 それはちょうど、工場がなくなる前後の時期と重なる。


「そのあと、どうなったかは知らないけどね。あんたも、そのうち会わなくなったし」


 恒一は頷いた。


「そうだな」


 母はそれ以上深くは話さなかった。聞けば答えるが、自分から広げることはしない。昔からそういうところがある。


 しばらく沈黙が続いたあと、母が言った。


「急にどうしたの」


「ちょっと気になって」


「今さら?」


「そう」


 母は小さく笑った。


「そういうこと、あるわね」


 否定も肯定もしない言い方だった。


 時計を見ると、そろそろ会社に戻る時間だった。恒一は立ち上がった。


「じゃあ、また来る」


「今度はちゃんと時間作って来なさいよ」


「わかってる」


 玄関まで見送りに出てきた母が、最後に言った。


「変なことに首突っ込まないようにね」


 恒一は一瞬、足を止めた。


「変なことって」


「何でもないわよ。ただの言い方」


 母はそう言って、すぐに話を切った。


 外に出ると、昼前の光が少し強くなっていた。車に乗り込み、エンジンをかける。


 相馬の家は、やはりあの工場だった。

 そして、当時すでに厳しい状況にあった。


 それだけでも、見えてくるものがある。


 会社に戻る途中、恒一はぼんやりと考えていた。高校の後半、自分と相馬のあいだに何があったのか。なぜ、自然に離れたとしか思えないまま、関係が途切れたのか。


 何かきっかけがあったはずだ。

 ただ、それをはっきり思い出せない。


 人の記憶は都合よく整理される。面倒な部分は曖昧にして、納得しやすい形に変えてしまう。


 もしかすると、自分は何かを意識的に忘れているのかもしれない。


 会社に戻ると、いつもの仕事が待っていた。電話が鳴り、データの確認をし、見積もりを作る。日常は変わらない。


 だが、頭の中では少しずつ線がつながり始めていた。


 相馬の家。

 工場。

 高校時代の終わり。


 まだはっきりとはしないが、ただの再会の話ではない気がしていた。

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