古い記憶
水曜の朝、恒一はいつもより少し早く目が覚めた。布団の中でしばらく天井を見てから、体を起こす。寝不足というほどではないが、頭の奥に何か残っている感じがあった。昨日、あの場所へもう一度行ったことと、古本屋で見た写真が、完全には消えていなかった。
支度をして家を出る。空は晴れていたが、風は冷たい。季節が進んでいるのか戻っているのか、よくわからない気候だった。
会社に着くと、すでに半分ほどの社員が来ていた。事務所の中は、朝特有のまだ動ききっていない空気が漂っている。
「おはようございます」
挨拶をして席に着き、パソコンを立ち上げる。メールを確認しながら、今日の予定を頭の中で組み立てる。午前中に外回りが二件、午後は見積もりと修正対応。特別変わった一日ではない。
だが、仕事のことを考えていても、意識のどこかに別の線が引かれている感じがあった。
相馬製作所。
あの空き地。
手書きの地図。
それぞれが単独では意味を持たないが、並べると無視できなくなる。
朝礼が終わり、恒一は営業車に乗って外へ出た。最初の訪問先は市内の小さな印刷物代理店だった。注文の確認と納期の打ち合わせを済ませると、特に問題もなく終わった。
二件目のあと、時間が少し空いた。時計を見るとまだ十一時前。昼には早いが、会社へ戻るには中途半端な時間だった。
恒一は少し考えてから、車の進路を変えた。
実家のほうへ向かう道だった。
特に約束があるわけではない。ただ、昨日から母のことが少し気になっていた。相馬の名前を出したときの、あの一瞬の間。気にしすぎと言えばそれまでだが、引っかかりが残っていた。
住宅街に入り、見慣れた道を進む。実家は二階建ての古い家で、外壁はところどころ塗り直されているが、全体としては年月が出ている。父が生きていたころからほとんど変わっていない。
車を路肩に停め、玄関の前に立つ。インターホンを押すと、少しして母の声がした。
「はい」
「俺だけど」
「あら、どうしたの」
扉が開き、母が顔を出した。
「仕事は?」
「近くまで来たから」
「珍しいわね」
そう言いながらも、母はすぐに中へ入るように促した。
家の中は変わっていなかった。玄関の匂い、廊下の軋み、居間の配置。どれも記憶とほぼ同じだ。違うのは、そこに父がいないことくらいだった。
「お茶入れるから、座って」
恒一は居間の椅子に腰を下ろした。テーブルの上には新聞と、読みかけの雑誌が置いてある。生活の気配はあるが、どこか静かすぎる感じもする。
母がお茶を持ってきて、向かいに座った。
「で、どうしたの」
「ちょっと聞きたいことがあって」
「何」
恒一は少し言葉を選んだ。
「相馬って覚えてる?」
母はすぐに答えなかった。湯のみを持ったまま、少しだけ視線を落とす。
「覚えてるわよ」
「家に来たことあったよな」
「何回かね」
「どんなやつだったか、覚えてる?」
母は考えるようにしてから言った。
「静かな子だったわね。あんたと違って」
「どういう意味」
「別に悪い意味じゃないわよ。落ち着いてたってこと」
その言い方に、少しだけ含みがあるように感じた。
「家のこととか、何か聞いたことある?」
「家?」
「うん。工場やってたとか」
母はそこで、はっきりと顔を上げた。
「……どこで聞いたの」
「ちょっと調べてたら」
嘘ではないが、詳しくは言わなかった。
母はしばらく黙ってから、息をひとつ吐いた。
「やってたわよ。金属の工場」
「やっぱり」
「昔の話だけどね。あんたが高校のころには、もうだいぶ厳しかったはず」
「知ってたんだ」
「そりゃね」
母はそう言ってから、少しだけ言葉を続けた。
「一度だけ、お母さんと話したことがあるのよ」
「相馬の母親?」
「そう。学校の帰りに、あの子が具合悪くなって、家まで送っていったことがあって」
恒一は記憶を探ったが、その出来事は思い出せなかった。
「そのとき、少し話してね。大変そうだったわよ」
「何が」
「仕事もそうだし、家のことも」
母の言い方は、具体的ではなかったが、重さはあった。
「それって、いつ頃?」
「高校の後半だったと思う」
それはちょうど、工場がなくなる前後の時期と重なる。
「そのあと、どうなったかは知らないけどね。あんたも、そのうち会わなくなったし」
恒一は頷いた。
「そうだな」
母はそれ以上深くは話さなかった。聞けば答えるが、自分から広げることはしない。昔からそういうところがある。
しばらく沈黙が続いたあと、母が言った。
「急にどうしたの」
「ちょっと気になって」
「今さら?」
「そう」
母は小さく笑った。
「そういうこと、あるわね」
否定も肯定もしない言い方だった。
時計を見ると、そろそろ会社に戻る時間だった。恒一は立ち上がった。
「じゃあ、また来る」
「今度はちゃんと時間作って来なさいよ」
「わかってる」
玄関まで見送りに出てきた母が、最後に言った。
「変なことに首突っ込まないようにね」
恒一は一瞬、足を止めた。
「変なことって」
「何でもないわよ。ただの言い方」
母はそう言って、すぐに話を切った。
外に出ると、昼前の光が少し強くなっていた。車に乗り込み、エンジンをかける。
相馬の家は、やはりあの工場だった。
そして、当時すでに厳しい状況にあった。
それだけでも、見えてくるものがある。
会社に戻る途中、恒一はぼんやりと考えていた。高校の後半、自分と相馬のあいだに何があったのか。なぜ、自然に離れたとしか思えないまま、関係が途切れたのか。
何かきっかけがあったはずだ。
ただ、それをはっきり思い出せない。
人の記憶は都合よく整理される。面倒な部分は曖昧にして、納得しやすい形に変えてしまう。
もしかすると、自分は何かを意識的に忘れているのかもしれない。
会社に戻ると、いつもの仕事が待っていた。電話が鳴り、データの確認をし、見積もりを作る。日常は変わらない。
だが、頭の中では少しずつ線がつながり始めていた。
相馬の家。
工場。
高校時代の終わり。
まだはっきりとはしないが、ただの再会の話ではない気がしていた。




