もう一つの手がかり
火曜の朝、恒一はいつもより早く会社に着いた。特に理由があったわけではないが、目が覚めてしまったのでそのまま起きてしまった。こういう日は、無理に二度寝をするより動いてしまったほうが楽だ。
事務所にはまだ松木しかいなかった。
「早いね」
「ちょっと目が覚めちゃって」
「年じゃないの」
冗談とも本気ともつかない口調で言われ、恒一は苦笑した。
「それはまだ早いでしょ」
「どうだかね」
松木はそう言って帳簿に目を戻した。軽口は叩くが、それ以上踏み込んでくることはない。この距離感が、恒一にはちょうどよかった。
席に着き、メールを確認する。不動産会社から返信が来ていた。見積もり内容で問題ないとのことだった。正式発注ではないが、ほぼ決まりと見ていい。こういう時は素直にうれしい。大きな案件ではないが、確実に一つ積み上がる。
朝礼が終わるころには、いつもの顔ぶれが揃っていた。寺尾が機械の音を気にしながら話を聞き、村瀬は手帳に何かを書き込み、野本は少し遅れて入ってきて端に立つ。特に変わったことはない。日常の繰り返しだった。
午前中は、前日からの続きの案件処理に追われた。学校関係の印刷物は締め切りが近く、修正のやり取りも細かい。電話とメールが途切れず、気がつけば昼になっていた。
昼休み、恒一はコンビニに向かう途中で、少し遠回りをした。特に用事があるわけではない。ただ、昨日から同じ動線をなぞるのが少し窮屈に感じた。
通りを一本外れると、古い商店街がある。シャッターの閉まった店も多いが、いくつかは今でも営業している。その中に、小さな古本屋があった。以前から存在は知っていたが、入ったことはなかった。
足を止めて、少し迷う。昼休みは長くない。だが、どうしてかそのまま通り過ぎる気になれなかった。
恒一は店の引き戸を開けた。
中は薄暗く、紙の匂いが強い。棚は天井近くまで本で埋まっていて、通路は人一人が通れる程度の幅しかない。奥にはレジと、年配の店主らしき男が座っていた。
いらっしゃい、とは言われなかった。こちらを見るでもなく、新聞を読んでいる。
恒一はゆっくりと棚の間を歩いた。文学、歴史、雑誌のバックナンバー。特に探している本があるわけではないが、こういう場所では目的がないほうが気楽だ。
しばらくして、地元の資料らしきコーナーに目が止まった。古い市史や写真集が並んでいる。その中に、見覚えのある風景の表紙があった。手に取ると、数十年前の町の写真を集めた本だった。
ページをめくると、白黒の写真が続く。今とは違う街並み、今はもうない建物。橋や川の写真もある。恒一は無意識に、その中に旧新川橋の写真を探した。
数ページ進めたところで、それらしい写真が出てきた。まだ新しい橋ができる前の姿で、周囲の建物も今とは違う。橋のたもとには小さな工場が並んでいる。
恒一はそこで手を止めた。
写真の端に、見覚えのある名前が小さく写っていた。
看板に書かれた会社名だった。
——相馬製作所
一瞬、読み間違いかと思った。もう一度目を凝らす。確かにそう書いてある。はっきりとした字体で、建物の壁に掲げられている。
心臓が少しだけ速くなる。
偶然かもしれない。相馬という名字は珍しくない。しかし、場所が一致している。昨日行った工場跡地と、ほぼ同じ位置だ。
恒一は本を持ったまま、店の奥へ歩いた。
「これ、いつ頃の写真ですか」
店主に声をかけると、男はゆっくり顔を上げた。
「どれだ」
恒一はページを見せた。
「ああ、それか。昭和の終わりくらいだな」
「この工場、今はもうないですよね」
「とっくにないな。だいぶ前に潰れて、そのまま更地だ」
「相馬製作所って」
「聞いたことあるのか」
「名前だけ」
店主は少し考えるようにしてから言った。
「小さい町工場だよ。金属加工か何かやってたはずだ。社長が亡くなってから、跡継ぎがいなくて閉めたって話だったな」
「いつ頃ですか」
「もう二十年近く前じゃないか」
それ以上詳しいことは知らないらしかった。店主はそれだけ言うと、また新聞に目を落とした。
恒一は本を棚に戻したが、その場からしばらく動けなかった。
昨日の場所。
手書きの地図。
そして相馬という名前。
つながっていると考えるのが自然だった。
相馬亮介。
相馬製作所。
単なる偶然にしては出来すぎている。
店を出ると、外の光が急に明るく感じられた。昼休みの時間はもう半分以上過ぎている。急いでコンビニで弁当を買い、会社へ戻った。
席に着いて食べながらも、頭の中ではさっきの写真が繰り返し浮かんでいた。もしあの工場が相馬の家と関係しているなら、あの地図の意味も変わってくる。ただの場所ではなく、過去とつながる場所になる。
午後の仕事は忙しかった。電話が重なり、来客もあり、考える余裕はあまりなかった。だが、完全に忘れることもできなかった。
夕方、ようやく一息ついたとき、恒一は野本に声をかけた。
「この辺で、昔工場あった場所って知ってる?」
野本は少し考えてから答えた。
「北のほうにありますよね。空き地になってるとこ」
「そこ、何の工場だったか知ってる?」
「さあ……子どものころからもう何もなかったんで」
「そっか」
無理もない。野本はこの町の出身だが、世代が違う。二十年前の話を知っているとは限らない。
仕事を終えて会社を出たあと、恒一は少しだけ車を走らせた。昨日と同じ場所に向かう。特に何かするわけではない。ただ、確認しておきたかった。
旧新川橋の近くに車を停め、歩いて神社の裏へ回る。夕方の光の中で、空き地は昼間とは少し違って見えた。影が長く伸び、雑草の色も暗い。
フェンスの前に立ち、中を見渡す。
何も変わっていない。
ただの空き地だ。
だが、今はそこに「何もない」とは言い切れなかった。かつて何かがあった場所だとわかってしまったからだ。
恒一はポケットから、あの紙を取り出した。
——来たなら、これで十分だと思う。無理に探さなくていい。
あの言葉の意味が、少しだけ変わる。
探すな、というのは、場所のことではなく、過去のことかもしれない。ここに来れば、それでわかるはずだと。
相馬は、自分の過去を見せたかったのか。
それとも、そこに何かを残しているのか。
はっきりした答えはない。ただ、昨日よりは確実に一歩進んでいる。
恒一は紙をしまい、しばらくその場に立っていた。夕方の風が少し強くなり、フェンスの隙間から草が揺れる音が聞こえる。
やがて、恒一は踵を返した。
すぐに答えを出す必要はない。
ただ、この場所に意味があることはわかった。
それだけでも、昨日とは違っていた。




