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水面の部屋  作者: antild


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4/13

社内の空気

 月曜の朝は、どうしても体が重くなる。休み明けだからという単純な理由もあるが、それ以上に、仕事の流れにもう一度体を合わせるまでに少し時間がかかるからだ。


 恒一はいつも通りの時間に起き、身支度を整えて家を出た。空は曇っていて、気温は昨日より下がっている。春に向かっているはずなのに、足踏みしているような天気だった。


 会社に着くと、すでに数人が来ていた。事務所の空気はまだ静かで、機械音も控えめだった。


「おはようございます」


「おはよう」


 松木が帳簿から目を上げて返す。いつもの光景だが、休み明けだと少し距離を感じる。自分だけが一度外に出て、また戻ってきたような感覚がある。


 席に着き、パソコンを立ち上げる。メールを確認すると、週末に一件問い合わせが入っていた。不動産会社からのもので、先日話したチラシの件だった。見積もりを早めにほしいという内容だ。内容をざっと確認し、今日中に出す段取りを頭の中で組み立てる。


 朝礼では、専務がいつも通り売上の話をした。


「三月は最後の追い込みだからね。学校関係は動いてるけど、民間はまだ弱い。ひとつひとつ丁寧にやっていこう」


 聞き慣れた言葉だったが、間違っているわけでもない。現場の人間にできることは限られているが、その範囲でやるしかない。


 朝礼が終わると、それぞれが仕事に戻った。恒一は見積もりの準備に取りかかる。紙の種類、部数、色数、納期。条件を整理し、制作に回すための情報をまとめる。こういう作業は嫌いではない。やるべきことがはっきりしているからだ。


 しばらくして、後ろから声がかかった。


「篠崎さん」


 振り向くと、野本が立っていた。相変わらず猫背で、目線は少し下を向いている。


「このデータ、どうしましょう」


 手にしているのは、学校案内の修正データだった。先週、客先から変更依頼が来ていたものだ。


「どの部分?」


「このページの写真、差し替えなんですけど、解像度がちょっと足りなくて」


 モニターをのぞくと、確かに画像が粗い。印刷に回すには厳しいレベルだった。


「元データはもらってないの?」


「これしか来てなくて」


「じゃあ、客先に確認するしかないな。差し替え用の高解像度データをもらうか、このままでいいか判断してもらうか」


「わかりました」


 野本はそう言って、すぐに戻ろうとした。


「ちょっと待って」


 恒一は声をかけた。


「メール送るなら、文章一回見せて。言い方間違えると面倒になるから」


「あ、はい」


 野本は軽く頭を下げて、自分の席に戻った。


 彼は仕事そのものは丁寧だが、客先とのやり取りはまだ慣れていない。言葉の選び方ひとつで印象が変わることを、経験として積み上げている途中なのだろう。


 恒一は自分の仕事に戻りながら、少し前のことを思い出した。入社したばかりのころ、自分も同じようなやり取りで何度か失敗した。言い方が足りなかったり、余計な一言を入れてしまったり。営業は商品だけでなく、言葉も扱う仕事だと、そのときに覚えた。


 昼前、不動産会社への見積もりを仕上げて送信した。少し早めに出せたので、印象は悪くないはずだ。こういう小さな積み重ねが次につながることもある。


 昼休みはいつも通り、近くのコンビニで弁当を買った。会社に戻って自分の席で食べる。外に食べに行くこともあるが、忙しい時期は時間を節約することが多い。


 食べ終わってからコーヒーを飲んでいると、寺尾が工場から顔を出した。


「篠崎、ちょっといいか」


「はい」


「この学校の件、紙変えるって話あったろ」


「はい」


「在庫、ぎりぎりなんだよな。追加で取るか、別の紙にするか、今日中に決めてくれ」


「わかりました。確認してみます」


 寺尾は頷いて戻っていった。現場の都合は待ってくれない。営業が判断を遅らせると、その分だけ製造が詰まる。こういうとき、どこまで客先に任せて、どこまで自分で決めるかが難しい。


 午後、恒一は電話で客先に確認を取った。担当者は少し迷ったが、最終的に別の紙で問題ないという結論になった。条件を整理し直し、制作と工場に共有する。段取りが一つ進むと、気持ちも少し軽くなる。


 夕方近く、野本が再びやってきた。


「さっきのメール、送りました」


「返事来た?」


「まだです」


「まあすぐには来ないか」


 恒一は頷いた。


「こういうの、最初にちゃんと説明しておけば、後で揉めにくいから」


「はい」


 野本は少し考えてから言った。


「篠崎さんって、最初からそういうのうまかったですか」


 不意の質問だった。


「いや、全然」


「そうなんですか」


「むしろ、余計なこと言って失敗するほうが多かった」


 恒一は苦笑した。


「慣れだよ。何回かやると、どこまで言えばいいかだいたいわかる」


「そういうもんですか」


「そういうもん」


 野本は小さく頷いたが、完全には納得していない顔だった。経験でしか身につかないことは、説明しても半分しか伝わらない。


 そのまま野本が戻ろうとしたとき、恒一はふと思って聞いた。


「休みの日って、何してるの」


 野本は少し驚いたように見えた。


「特に何も」


「出かけたりしないの」


「たまにしますけど」


「どこに」


「本屋とか」


「それは平日でも行けるだろ」


 そう言うと、野本は少しだけ笑った。初めて見る表情だった。


「まあ、そうですね」


 それ以上話は続かなかったが、空気は少し和らいだ気がした。


 仕事を終えて会社を出たのは七時前だった。外はすっかり暗くなっている。朝よりも風は弱くなっていたが、空気は冷えたままだった。


 帰り道、恒一は信号待ちでふと考えた。昨日のこと、母との会話、相馬の名前。すべてが別々の出来事のようでいて、どこかでつながっている気もする。


 ただ、そのつながりを急いで探す必要はないとも思った。仕事があり、日常がある中で、無理に意味を見つけようとすると、かえって見えなくなることもある。


 アパートに戻り、上着を脱いで台所に立つ。母からもらった煮物がまだ残っていたので、それを温める。味が少し染みて、昨日よりうまく感じた。


 食事を終え、テレビをつけたままぼんやりしていると、時間が過ぎていく。こういう過ごし方は楽だが、何も残らない感じもある。


 ふと、引き出しの中の紙のことを思い出した。出すかどうか迷ったが、そのままにした。毎日確認するものでもない気がした。


 代わりに、机の上に置いたままの卒業文集に目がいった。開く気にはならなかったが、そこにあるだけで何かが動いているような気がする。


 恒一はそのまま電気を消し、布団に入った。


 仕事はいつも通り進んでいる。特別いいことも悪いこともない。社内の空気も、変わらないままだ。


 ただ、自分の中だけが少しずつ動いているような感覚があった。はっきりした変化ではない。言葉にしにくい程度の違いだ。


 それが続くのか、元に戻るのかはまだわからない。

 だが少なくとも、何も考えずに過ごしていた先週までとは、同じではなかった。

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