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水面の部屋  作者: antild


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3/13

母の昼食

 日曜の朝、恒一は目覚ましより先に起きた。昨夜は遅くまで起きていたわけでもないのに、眠りが浅かった。理由ははっきりしている。相馬のことを考えないようにしても、完全には頭から離れなかったからだ。


 ただ、朝になるとその引っかかりも少し鈍くなる。顔を洗い、台所で湯を沸かしながら、今日は母と昼を食べる約束だったことを思い出す。土曜のうちに時間は決まっていて、十一時半に駅前の和食店で会うことになっていた。月に一度か二度、こうして食事をする。恒一から誘うこともあれば、母から連絡が来ることもある。親子仲が特別良いわけではないが、悪いまま放っておくほど距離も取れない。その程度の関係だった。


 簡単に朝食を済ませ、洗濯物を干してから家を出た。空は高く晴れていたが、風はまだ冷たい。春というより、冬の名残がだいぶしぶとく居座っている感じだった。


 店は駅前の古い商業ビルの一階に入っている。値段は手頃で、年配の客が多い。母はこういう店をよく知っている。派手ではなく、静かで、長居しすぎても目立たない場所を選ぶのがうまい。


 恒一が着いたとき、母はすでに入口近くの席に座っていた。篠崎 芳子、五十九歳。背は高くないが、昔から姿勢がいい。今日は濃い紺色のカーディガンに、灰色のパンツを合わせていた。髪は短く整えてあり、顔立ちには年相応の疲れが見えるが、年齢より老けては見えない。手入れを怠らない人なのだと恒一は思う。


「ごめん、待った?」


「今来たところ」


 母は昔からそう言う。実際には少し待っていたとしても、まずそれを口に出さない。そういう気の回し方をする人だと、恒一は子どものころから知っていた。


 席につくと、店員が温かいお茶を運んできた。二人とも日替わり定食を頼む。注文を終えると、少し間があいた。こういうとき、母は天気か近所の話から入ることが多い。


「昨日は出かけてたの?」


「少しだけ」


「買い物?」


「そんなところ」


 恒一は曖昧に答えた。嘘ではないが、正確でもない。母はその程度のぼかしにはいちいち踏み込まない。ただ、少しだけこちらの顔を見る。その視線に、何となく見透かされているような気分になることがある。


「仕事は忙しい?」


「年度替わりだから、多少は」


「体調は大丈夫なの」


「大丈夫」


 ここまではいつものやり取りだった。心配しているのか、会話の糸口を探しているのか、母のほうも半分ずつなのだろう。


 料理が来るまでのあいだ、恒一は店内を見回した。奥の席では年配の夫婦が煮魚を食べている。カウンターには一人客が二人。日曜の昼前らしい、静かな混み方だった。


 母は湯のみを持ち上げながら言った。


「この前、スーパーで木村さんに会ったのよ」


「木村さん?」


「前にうちの近くに住んでたでしょう。あんたが小さいころ、よくみかんもらってた人」


「ああ」


「息子さん、東京から戻ってきたんだって。会社辞めて」


「そうなんだ」


「今は転職活動してるらしいけど、なかなか大変みたい」


 母はそう言ってから、こちらの反応を少し待った。恒一はその間に意味がある気がした。直接言うほどではないが、間接的に何かを確かめようとしている時の間だ。


「今はどこも簡単じゃないでしょ」


 そう返すと、母は「まあね」と言って話を切った。あからさまに比べるようなことはしないが、同年代の子どもの話を出すのは珍しくない。結婚した、戻ってきた、家を買った、親の面倒を見ている。そういう断片が食卓に出てくるたび、恒一は自分が何かの一覧表の中で見られているような気持ちになる。


 定食が運ばれてきた。焼き魚、小鉢、味噌汁、漬物。特別うまいわけではないが、安心して食べられる味だった。二人とも最初は黙って箸を動かした。話しながら食べる家庭ではなかったので、この沈黙に気まずさはない。


 半分ほど食べたところで、母が言った。


「来月、法事あるからね」


「伯父さんの?」


「そう。三回忌。案内もう来てるはずだけど」


「まだ見てないかも」


「あんた、郵便物ちゃんと見なさいよ」


「見てるよ」


「見てないから言ってるの」


 母の口調はきつくないが、こういう言い方は昔から変わらない。気を抜くと注意に変わる。恒一は少し笑ってごまかした。


「日程わかったら教えて」


「四月の二十日。土曜」


「仕事かもしれないな」


「休めるなら休みなさい」


「できれば行くよ」


 母はそこで一度箸を置いた。


「“できれば”じゃなくて、行く方向で考えなさい。あっちだって親戚少ないんだから」


「わかった」


 こういうやり取りも慣れている。母は基本的に、自分の考えを意見としてではなく、常識に近いものとして言う。そのため反論すると話が長くなる。恒一は若いころ、それで何度もぶつかった。今は必要以上に逆らわない。面倒だからというだけでなく、年齢とともに、母なりの理屈も理解できるようになったからだ。ただ、理解できることと、気楽に受け入れられることは別だった。


 食事を終えてお茶を飲んでいるとき、母がふと別の話をした。


「そういえば、この前押し入れ片づけてたら、あんたの高校のアルバム出てきたのよ」


「へえ」


「持って帰る?」


「別にいいよ」


「要らないの」


「見ないし」


「そういうものでもないでしょう」


 母は少し呆れたように言った。


「同級生とか、たまに懐かしくならないの」


 その言葉に、恒一は一瞬だけ手を止めた。母は気づいていないようだったが、こちらとしてはちょうどそこを突かれた気分だった。


「まあ、たまには」


「誰か会ったの?」


「いや」


 反射的にそう言ってから、少し遅れて考えた。別に隠す必要もないのではないか。だが、説明すると長くなりそうだった。写真館で地図を渡され、古い工場跡へ行って、紙を見つけた。口に出すと、我ながら要領を得ない。


 母は恒一の顔を見て、何かを読んだようだった。


「何、ほんとに誰かと会ったんじゃないの」


「会ってはない」


「じゃあ?」


 恒一は湯のみを置いた。


「高校の同級生の名前を、ちょっと聞いた」


「誰の」


「相馬」


 母の表情がわずかに止まった。ほんの一瞬だが、恒一は見逃さなかった。


「相馬くん?」


「知ってるの」


「知ってるってほどじゃないけど。家に来たことあったでしょう、何回か」


「ああ」


 母は昔のことを話すとき、あまり感情を乗せない。事実だけを置くような言い方をする。


「急にどうしたの」


「この前、得意先で名前を聞いて」


「連絡あったの?」


「いや、直接じゃない」


「ふうん」


 それ以上、母は深く聞かなかった。ただ、「久しぶりだね」とも言わず、「元気にしてるのかね」とも言わない。その反応が、少しだけ気になった。


 会計を済ませて店を出ると、駅前には買い物客が増えていた。母はそのまま食品売り場へ寄ると言い、恒一も付き合うことにした。日曜の昼間のスーパーは、人の流れが一定で、見ているだけで疲れる。母は慣れた足取りで売り場を回り、特売の野菜をかごに入れていく。


「これ持って」


 そう言って長ねぎを渡される。恒一はかごを持つ役になった。小さいころ、こうして買い物についてきた記憶が少しだけよみがえる。あのころは母がずっと大きく見えた。


「ちゃんと野菜食べてる?」


「食べてるよ」


「どうせ適当でしょう」


「そんなことないって」


「顔見ればわかるのよ」


「何が」


「野菜足りてない顔」


 恒一は思わず笑った。根拠があるのかないのかわからない言い方だったが、母なりに心配しているのは伝わる。


 レジを終えたあと、母は小さな袋をひとつ差し出した。中には煮物と、下ごしらえ済みのほうれん草が入っている。


「持って帰りなさい」


「いいよ、悪いし」


「どうせ自分じゃ作らないでしょう」


「作るときもある」


「“ときもある”じゃなくて、ちゃんと食べるの」


 断っても引かないとわかっていたので、恒一は礼を言って受け取った。


 スーパーの出口で別れる前、母が言った。


「今度、時間あるときでいいから、一回来なさい」


「家に?」


「そう。押し入れの整理、少し手伝ってほしいのよ」


「重いものでもあるの」


「それもあるし、あんたの物もあるし」


「また今度でいい?」


「また今度じゃいつまでも来ないじゃない」


 図星だった。恒一が実家へ行くのは盆か正月、あとは何か必要があるときくらいだ。


「来月あたり、考えるよ」


「考えるじゃなくて」


 母はそこまで言って、諦めたように息をついた。


「まあ、いい。決まったら連絡して」


「うん」


 駅前で別れ、恒一は一人で駐車場へ向かった。煮物の入った袋が思ったより温かかった。


 車に乗り込んでから、さっきの母の反応を思い返す。相馬の名前を出したとき、ほんの少しだけ間があった。偶然かもしれない。しかし、気にしすぎとも言い切れない。母は相馬のことを覚えていた。家に来たことがある程度の同級生なら、普通はそこまではっきり記憶に残らないのではないか。もっとも、母は意外と人を覚えているところがある。断定はできなかった。


 アパートに戻ると、部屋は昼の光で少し明るく見えた。母からもらった惣菜を冷蔵庫に入れ、上着を脱いで一息つく。日曜の午後は時間が間延びする。何かするには遅く、何もしないには長い。


 恒一は何となく本棚の上を見た。高校の卒業アルバムは持っていないはずだったが、卒業文集だけはどこかに残っていた気がする。押し入れの奥の段ボールを探すと、古い書類や使わなくなった家電の説明書に混じって、薄い冊子が出てきた。表紙に学校名が印刷されている。懐かしいというより、こんなものがまだ残っていたのかという感じだった。


 ページをめくると、クラスごとの寄せ書きや文集が載っている。自分の文章を読む気にはならない。代わりに、相馬の名前を探した。見つけるのに時間はかからなかった。


 相馬の文章は短かった。将来のことを大げさに語るでもなく、受験への決意を書くでもない。三年間同じ町で暮らし、同じ学校へ通っても、それぞれ見ている景色は違う、というようなことが、淡々と書かれていた。背伸びした言い回しは少なく、妙に印象だけが残る文章だった。


 恒一はそこで手を止めた。最後の一文に見覚えがあった。


 近すぎるものほど、いつか振り返らないと見えない。


 少し気取った書き方ではあるが、相馬なら言いそうでもある。そして恒一には、その一文を教室で相馬本人が口にした記憶があった。誰かに何かを説明するというより、独り言のように言っていた気がする。


 冊子を閉じ、テーブルに置く。昨日見つけた紙の文面とは違うが、どこか通じるものがあるようにも思えた。わざとわかりにくくしているわけではないが、正面から説明もしない。相馬には昔からそういうところがあった。


 夕方、洗濯物を取り込み、母にもらった煮物を温めて食べた。味は少し濃かったが、きちんとした食事をした気分になった。食べながら、実家の台所を思い出す。母は手際がいいが、料理を楽しんでいるようには見えない人だった。必要だからやる、という感じで、毎日淡々と作る。父がいたころも、その印象は変わらなかった。


 父のことを思い出す回数は、年々減っている。亡くなってから八年になる。悲しみが薄れたというより、生活の中で使う場面が減ったのだと思う。だが、実家や母の話題になると、不意にそこにいた人として浮かび上がってくる。


 夜になってから、恒一はスマートフォンで母に短いメッセージを送った。

「煮物ありがとう」

少しして、

「食べるならまた作る」

と返ってきた。そっけないが、それで十分だった。


 寝る前、引き出しから地図と紙をまた出した。日曜が終わるこの時間になると、明日からまた仕事だという感覚が戻ってくる。頭の片隅に追いやっていたことが、そこでまた前に出てきた。


 母は相馬の名前を覚えていた。

 それ自体は不自然ではない。

 ただ、あの一瞬の間だけが気になる。


 考えても答えは出ない。そう思いながらも、恒一は高校時代のことを少しずつ思い返していた。相馬が家に来たのは一度や二度ではなかった気がする。部活帰りではなく、試験前でもなく、もっと普通の日に立ち寄っていた。自分の部屋で話したこともあるはずだ。何を話したのかまでは思い出せない。


 人は覚えているつもりで、ずいぶん抜け落ちている。しかも、抜けていること自体に長いあいだ気づかない。


 布団に入り、部屋の電気を消す。静かになると、冷蔵庫の音がやけに大きく聞こえた。


 相馬の件は、まだ何も進んでいない。

 それでも、昨日よりは少しだけ輪郭が出てきた気がした。


 ただの同級生で終わらない何かがあったのかもしれない。少なくとも、自分にとってはそうだったのではないか。そう考えかけて、恒一はそこで思考を止めた。まだそこまで意味づけるのは早い気がした。


 明日になれば仕事が始まり、また客先を回る。見積もりを出し、納期を確認し、社内でやり取りをする。普段の生活は続く。その流れの中で、このことがどう残っていくのか。今はまだわからない。


 眠りに落ちる前、恒一は来月あたり実家へ行くかもしれないと思った。押し入れの整理という名目でもいい。何かを探すつもりがあるわけではないが、母の家には、自分が忘れているものがまだ残っている気がした。

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