地図の場所
土曜の朝、恒一は普段より少し遅く起きた。平日と同じ時間に目は覚めたが、すぐに布団から出る気にはならなかった。天井を見ながら、今日は何をする日だったかをゆっくり思い出す。仕事は休みで、急ぎの用事もない。ただ、昨日受け取った地図のことだけが頭に残っていた。
結局、起き上がったのは九時を回ってからだった。簡単に顔を洗い、トーストとインスタントコーヒーで朝食を済ませる。テレビはつけなかった。つければ時間が流れていくが、今日はそれをあまりしたくなかった。
テーブルの上に財布を置き、その中から地図を取り出す。折り目を開くと、昨日と同じ線が現れた。当たり前のことだが、どこか現実味が増しているようにも見える。
恒一はスマートフォンで再度地図を確認し、候補に挙げた場所のひとつに目星をつけた。旧新川橋の近くにある小さな神社の裏手。そのあたりには、昔工場があって、今は更地になっているはずだ。確信はなかったが、まずはそこから見てみることにした。
身支度を整え、軽く上着を羽織って外に出る。空は晴れていたが、風はまだ冷たい。春先特有の、暖かくなりきらない空気だった。
徒歩で行けない距離ではなかったが、途中の道がわかりにくいので車を使うことにした。休日の道路は平日より静かで、信号待ちの車列も短い。特に急ぐ理由もないため、恒一はゆっくりと車を走らせた。
旧新川橋は、今使われている新しい橋の少し上流にある。車は通れず、歩行者用として細々と残されている橋だ。欄干は古く、ところどころ塗装が剥げている。地元の人でも、わざわざ渡る人はあまりいない。
近くの空きスペースに車を停め、恒一は歩いて橋のほうへ向かった。川の流れは穏やかで、昨日と同じように白っぽく光っている。風が吹くと水面が細かく揺れた。
橋を渡りきると、小さな神社があった。鳥居は赤いが色が褪せていて、柱の下のほうは黒ずんでいる。境内は広くなく、手入れも行き届いているとは言いがたい。近所の人がたまに掃除している程度だろう。
地図を広げ、周囲を見渡す。神社の裏手に回ると、細い道が一本続いていた。その先に、フェンスで囲まれた空き地が見える。雑草が伸び、ところどころにコンクリートの基礎のようなものが残っていた。ここが元の工場跡であることは間違いなさそうだった。
恒一はゆっくりとその道を進んだ。足元には砕けた砂利が敷かれていて、歩くたびに軽い音がする。休日の昼前で、人の気配はほとんどない。遠くで犬の鳴き声が聞こえる程度だった。
フェンスの前で立ち止まり、中をのぞく。特に変わったものは見当たらない。地図の記号にあたるような目印もない。ただの空き地だ。しばらくそのまま見ていたが、何かが起こる気配もない。
やはり違うのか。
そう思いかけたとき、視界の端に小さな看板が入った。
フェンスの脇に、手書きの案内板が立てかけてある。近づいてみると、「立入禁止」の文字の下に、管理会社の名前と連絡先が書かれていた。特に珍しいものではない。ただ、その板の裏側に、何か紙が挟まっているのが見えた。
恒一は少し迷ったが、フェンスの外側から手を伸ばし、その紙を引き抜いた。風で飛ばないように挟んであっただけで、鍵がかかっているわけではない。
取り出したのは、普通のコピー用紙だった。四つ折りにされている。開くと、中には短い文章が書かれていた。
——来たなら、これで十分だと思う。無理に探さなくていい。
それだけだった。日付も名前もない。字はボールペンで、整っている。間違いなく相馬の字だと、恒一は思った。
思った瞬間、自分でも驚いた。十年以上見ていないはずの字を、迷いなくそうだと感じている。人の記憶は案外いい加減だが、こういうところだけ妙に残る。
恒一は紙を持ったまま、しばらくその場に立っていた。
来たなら十分。
無理に探さなくていい。
意味ははっきりしているようで、はっきりしない。わざわざここまで来させておいて、探すなと言っている。では何のための地図なのか。
ただ、ひとつだけ確かなのは、相馬がここに来たということだった。この紙は新しい。少なくとも最近置かれたものだろう。誰かがいた場所に、自分も来た。その事実だけが現実として残る。
恒一は紙を折り、ポケットに入れた。もう一度フェンスの中を見たが、やはり何もない。風で揺れる草と、古いコンクリートの残骸だけだ。
来るだけでいい、ということなのかもしれない。
それ以上の意味を考える必要はないのかもしれない。
そう思う一方で、納得したわけでもなかった。わざわざこんな手間をかけて、ただ来させるだけというのも腑に落ちない。相馬がそんなことをする理由が思い当たらなかった。
恒一は神社の前まで戻り、鳥居のそばで一度立ち止まった。境内には誰もいない。賽銭箱の前で、何となく手を合わせる。特に願いごとがあるわけではないが、こういう場所では体が勝手にそう動く。
車に戻る途中、恒一はもう一度だけ地図を確認した。他の候補地も見て回るべきか考えたが、いったんはやめることにした。今見た場所が外れとは言い切れない。むしろ、ここで正解のような気もしていた。
車に乗り込み、エンジンをかける。時計は十一時半を少し過ぎていた。昼食にはまだ早いが、このまま帰るのも中途半端だった。
少し遠回りして帰ることにする。そう決めて、恒一は車を発進させた。
旧市街の細い道を抜けながら、昔このあたりを歩いた記憶を探る。はっきりした場面は思い出せないが、通ったことはあるはずだ。高校のころ、相馬と一緒にどこかへ行った帰りに、似たような道を歩いた気がする。
相馬はあの頃、将来のことをあまり話さなかった。周りが進路の話で騒いでいても、特に焦る様子もなく、自分のペースで考えているように見えた。結果的にいい大学に進んだと聞いたが、それも本人からではなく、人づてに知っただけだった。
卒業してから連絡を取らなかったのは、どちらのせいでもないと思っていた。必要がなかったと言えばそれまでだが、それだけではない気もする。何かをはっきりさせないまま距離ができた。その曖昧さが、今になって少し引っかかっている。
アパートに戻ったのは昼過ぎだった。部屋に入ると、外の空気より少し暖かい。上着を脱ぎ、テーブルに座る。ポケットから紙を取り出し、もう一度開いた。
——来たなら、これで十分だと思う。無理に探さなくていい。
改めて読むと、やはりそれ以上の意味は読み取れない。ただの確認だ。来たかどうか、それだけ。
恒一はその紙を、昨日の地図と一緒に引き出しにしまった。完全に片付けたわけではないが、いったん手放す形にしたかった。
昼食をどうするか考え、結局コンビニで買ってきた弁当を食べた。テレビをつけると、昼の情報番組が流れていた。特に興味はないが、音があると部屋が広く感じる。
午後は洗濯と掃除をした。やることをやっているあいだは、余計なことを考えなくて済む。洗濯機を回し、床に掃除機をかけ、溜まっていたゴミをまとめる。生活を維持するための作業は、単純だが確実に終わりがある。
夕方になって一息ついたとき、恒一はふと、これで終わりなのかと思った。相馬の件は、あの場所に行って、紙を見つけて、それで終わり。確かに一応の区切りはついた。しかし、それだけで納得したわけでもない。
ただ、次に何をすればいいのかもわからなかった。連絡先はない。もう一度あの場所に行っても、同じことの繰り返しになるだけだろう。
結局、恒一はそのまま何もせず夜を迎えた。
布団に入る前、もう一度だけ引き出しを開けた。地図と紙が重なっている。それを見て、軽くため息をつく。
中途半端だな、と思った。
始まったようで、何も始まっていない。
ただ、それでも昨日までとは少し違っていた。完全に関係の切れた過去だと思っていたものが、ほんの少しだけ現在に触れてきた。その感覚は、無視できるほど小さくはなかった。
電気を消し、布団に入る。
明日、母と会う予定がある。
仕事もまた始まる。
生活はいつも通り続いていく。その中で、この出来事がどれくらい残るのかは、まだわからなかった。




