相馬の現在
月曜の朝、恒一はいつも通りの時間に起きた。ここ数日、頭の中で考えることが増えているせいか、目覚めはあまりすっきりしない。それでも体は動く。生活のリズムは崩れていなかった。
顔を洗い、朝食を済ませ、スーツに着替える。特に変わったことはない。だが、出かける前に一度だけ引き出しに目が向いた。
開けるかどうか迷い、結局そのままにした。
毎日確認するものではない。そう自分に言い聞かせるような感覚があった。
外に出ると、空は晴れていた。風も弱く、ようやく季節が少し前に進んだように感じる。
会社に着き、席に座る。メールを確認し、今日の予定を整理する。いつもと同じ流れだ。
だが、完全に仕事に集中しているわけではなかった。頭の奥で別の線が動いている。
相馬の現在。
それがまったく見えていない。
工場のことはわかった。過去の一部も、少しずつ形になってきている。だが、今どこにいて、何をしているのかは何もわからない。
写真館に現れたことだけが、唯一の手がかりだった。
朝礼が終わり、恒一は外回りに出た。午前中の予定は三件。どれも定期的な取引先で、特別な問題はなかった。
だが、二件目の訪問を終えたあと、車に戻ったとき、恒一は少し考えた。
時間が少し空いている。
会社に戻るには早い。別の用事を入れるほどでもない。
そのままエンジンをかけずに、ハンドルに手を置いたまま、しばらく止まっていた。
写真館に行ってみるか。
そう思ったのは、衝動に近かった。
理由ははっきりしている。相馬が現れた場所だからだ。
何か新しい情報があるとは限らない。だが、行かない理由もなかった。
恒一はエンジンをかけ、車を走らせた。
小宮の写真館は、いつも通り静かだった。
引き戸を開けると、店内は少し暗い。昼間でも照明が弱く、外の光とは別の時間が流れているように感じる。
「こんにちは」
声をかけると、小宮が奥から出てきた。
「おや、篠崎くん」
「少し時間があったので」
「珍しいね」
小宮は笑いながら、いつものように座るよう促した。
恒一は椅子に腰を下ろし、少し間を置いてから切り出した。
「この前の件なんですけど」
「ああ」
小宮はすぐに理解した様子だった。
「相馬さんのことかい」
「はい」
「何かわかった?」
「少しだけ」
恒一は言葉を選びながら続けた。
「昔、あの場所に工場があったみたいですね」
「そうらしいね」
小宮は頷いた。
「名前も確認できました」
「へえ」
「相馬製作所って」
その名前を出すと、小宮は少しだけ表情を変えた。
「やっぱり、そうか」
「知ってたんですか」
「いや、確信があったわけじゃない。ただ、名字と場所で、もしかしてとは思ってた」
小宮はゆっくりと腰を下ろした。
「昔、この辺は工場が多かったからね。名前を覚えてる人もいる」
「相馬さんは、何か話してましたか」
恒一が聞くと、小宮は少し考えた。
「詳しくは話さなかったよ。ただ……」
「ただ?」
「一度、ここで写真を見てた」
「写真?」
「昔のアルバムみたいなやつ。店に置いてあるだろ、サンプルとか古い写真とか」
恒一は周囲を見た。確かに、棚には古い写真やアルバムが並んでいる。
「それを、しばらく見てた」
「何か言ってました?」
「いや。ほとんど何も」
小宮は続けた。
「ただ、帰るときにね」
そこで少し言葉を区切る。
「“もう一度見ておきたかっただけです”って言ってた」
恒一はその言葉をそのまま受け取った。
もう一度見ておきたかった。
それは、場所なのか、写真なのか、それとも別の何かなのか。
「それだけですか」
「それだけだよ」
小宮は肩をすくめた。
「わざわざ人に説明するような人じゃなさそうだったしね」
それは、恒一の記憶と一致していた。
相馬は、必要以上に話さない。
聞かれれば答えるが、自分から多くを語ることはない。
「最近、また来たりは」
「来てないね」
「そうですか」
それ以上の情報はなさそうだった。
だが、小宮はふと思い出したように言った。
「そういえば」
「はい」
「連絡先、聞いてなかったけど」
「ええ」
「紙に何か書いてたかもしれないな」
恒一は少し身を乗り出した。
「本当ですか」
「いや、確かじゃない。置いていったとき、何か別の紙もあった気がするんだよ」
「残ってますか」
「ちょっと待ってな」
小宮は奥の引き出しを開け、いくつかの紙を探し始めた。
しばらくして、一枚のメモを取り出した。
「これかな」
恒一に渡された紙には、短い数字が書かれていた。
電話番号だった。
名前は書いていない。
だが、タイミングから考えて、相馬のものである可能性が高い。
恒一はその紙を見たまま、少し動けなかった。
ここまで来て、初めて「現在」に触れる手がかりが出てきた。
「これ、使っていいんですか」
「もともと渡すつもりだったのかもしれないしね」
小宮はあっさりと言った。
「どうするかは、篠崎くん次第だ」
恒一は頷いた。
紙を折りたたみ、ポケットに入れる。
その動作が、少しだけ重く感じられた。
連絡を取ることはできる。
だが、それをするかどうかは別の問題だった。
「ありがとうございます」
「いいってことよ」
小宮は軽く手を振った。
店を出て車に戻る。
ポケットの中の紙の感触が、はっきりと意識される。
電話番号。
それは、これまでとは違う種類の情報だった。
場所でも、記憶でもない。
直接つながる手段。
恒一は車に乗り込み、しばらくエンジンをかけなかった。
今、電話をかけることもできる。
だが、そうすると、この数日かけて積み上げてきたものが、一気に別の形になる気がした。
準備ができているのかどうか、自分でもわからない。
ハンドルに手を置いたまま、じっと考える。
相馬は、何を考えているのか。
自分は、何を聞きたいのか。
それがはっきりしないまま、電話をかけるのは違う気がした。
やがて、恒一はゆっくりとエンジンをかけた。
今はまだ、かけない。
そう決めた。
だが、選択肢が目の前にあることは、これまでとは決定的に違っていた。
会社に戻ると、いつもの仕事が待っていた。
電話が鳴り、メールが来て、作業が進む。
日常は何も変わらない。
だが、恒一の中では、はっきりと一段階進んでいた。
相馬は過去の人物ではない。
今、この時間にもどこかにいる。
その現実が、ようやく形になった。




