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水面の部屋  作者: antild


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12/13

相馬の現在

 月曜の朝、恒一はいつも通りの時間に起きた。ここ数日、頭の中で考えることが増えているせいか、目覚めはあまりすっきりしない。それでも体は動く。生活のリズムは崩れていなかった。


 顔を洗い、朝食を済ませ、スーツに着替える。特に変わったことはない。だが、出かける前に一度だけ引き出しに目が向いた。


 開けるかどうか迷い、結局そのままにした。


 毎日確認するものではない。そう自分に言い聞かせるような感覚があった。


 外に出ると、空は晴れていた。風も弱く、ようやく季節が少し前に進んだように感じる。


 会社に着き、席に座る。メールを確認し、今日の予定を整理する。いつもと同じ流れだ。


 だが、完全に仕事に集中しているわけではなかった。頭の奥で別の線が動いている。


 相馬の現在。


 それがまったく見えていない。


 工場のことはわかった。過去の一部も、少しずつ形になってきている。だが、今どこにいて、何をしているのかは何もわからない。


 写真館に現れたことだけが、唯一の手がかりだった。


 朝礼が終わり、恒一は外回りに出た。午前中の予定は三件。どれも定期的な取引先で、特別な問題はなかった。


 だが、二件目の訪問を終えたあと、車に戻ったとき、恒一は少し考えた。


 時間が少し空いている。


 会社に戻るには早い。別の用事を入れるほどでもない。


 そのままエンジンをかけずに、ハンドルに手を置いたまま、しばらく止まっていた。


 写真館に行ってみるか。


 そう思ったのは、衝動に近かった。


 理由ははっきりしている。相馬が現れた場所だからだ。


 何か新しい情報があるとは限らない。だが、行かない理由もなかった。


 恒一はエンジンをかけ、車を走らせた。


 小宮の写真館は、いつも通り静かだった。


 引き戸を開けると、店内は少し暗い。昼間でも照明が弱く、外の光とは別の時間が流れているように感じる。


「こんにちは」


 声をかけると、小宮が奥から出てきた。


「おや、篠崎くん」


「少し時間があったので」


「珍しいね」


 小宮は笑いながら、いつものように座るよう促した。


 恒一は椅子に腰を下ろし、少し間を置いてから切り出した。


「この前の件なんですけど」


「ああ」


 小宮はすぐに理解した様子だった。


「相馬さんのことかい」


「はい」


「何かわかった?」


「少しだけ」


 恒一は言葉を選びながら続けた。


「昔、あの場所に工場があったみたいですね」


「そうらしいね」


 小宮は頷いた。


「名前も確認できました」


「へえ」


「相馬製作所って」


 その名前を出すと、小宮は少しだけ表情を変えた。


「やっぱり、そうか」


「知ってたんですか」


「いや、確信があったわけじゃない。ただ、名字と場所で、もしかしてとは思ってた」


 小宮はゆっくりと腰を下ろした。


「昔、この辺は工場が多かったからね。名前を覚えてる人もいる」


「相馬さんは、何か話してましたか」


 恒一が聞くと、小宮は少し考えた。


「詳しくは話さなかったよ。ただ……」


「ただ?」


「一度、ここで写真を見てた」


「写真?」


「昔のアルバムみたいなやつ。店に置いてあるだろ、サンプルとか古い写真とか」


 恒一は周囲を見た。確かに、棚には古い写真やアルバムが並んでいる。


「それを、しばらく見てた」


「何か言ってました?」


「いや。ほとんど何も」


 小宮は続けた。


「ただ、帰るときにね」


 そこで少し言葉を区切る。


「“もう一度見ておきたかっただけです”って言ってた」


 恒一はその言葉をそのまま受け取った。


 もう一度見ておきたかった。


 それは、場所なのか、写真なのか、それとも別の何かなのか。


「それだけですか」


「それだけだよ」


 小宮は肩をすくめた。


「わざわざ人に説明するような人じゃなさそうだったしね」


 それは、恒一の記憶と一致していた。


 相馬は、必要以上に話さない。


 聞かれれば答えるが、自分から多くを語ることはない。


「最近、また来たりは」


「来てないね」


「そうですか」


 それ以上の情報はなさそうだった。


 だが、小宮はふと思い出したように言った。


「そういえば」


「はい」


「連絡先、聞いてなかったけど」


「ええ」


「紙に何か書いてたかもしれないな」


 恒一は少し身を乗り出した。


「本当ですか」


「いや、確かじゃない。置いていったとき、何か別の紙もあった気がするんだよ」


「残ってますか」


「ちょっと待ってな」


 小宮は奥の引き出しを開け、いくつかの紙を探し始めた。


 しばらくして、一枚のメモを取り出した。


「これかな」


 恒一に渡された紙には、短い数字が書かれていた。


 電話番号だった。


 名前は書いていない。


 だが、タイミングから考えて、相馬のものである可能性が高い。


 恒一はその紙を見たまま、少し動けなかった。


 ここまで来て、初めて「現在」に触れる手がかりが出てきた。


「これ、使っていいんですか」


「もともと渡すつもりだったのかもしれないしね」


 小宮はあっさりと言った。


「どうするかは、篠崎くん次第だ」


 恒一は頷いた。


 紙を折りたたみ、ポケットに入れる。


 その動作が、少しだけ重く感じられた。


 連絡を取ることはできる。


 だが、それをするかどうかは別の問題だった。


「ありがとうございます」


「いいってことよ」


 小宮は軽く手を振った。


 店を出て車に戻る。


 ポケットの中の紙の感触が、はっきりと意識される。


 電話番号。


 それは、これまでとは違う種類の情報だった。


 場所でも、記憶でもない。

 直接つながる手段。


 恒一は車に乗り込み、しばらくエンジンをかけなかった。


 今、電話をかけることもできる。


 だが、そうすると、この数日かけて積み上げてきたものが、一気に別の形になる気がした。


 準備ができているのかどうか、自分でもわからない。


 ハンドルに手を置いたまま、じっと考える。


 相馬は、何を考えているのか。

 自分は、何を聞きたいのか。


 それがはっきりしないまま、電話をかけるのは違う気がした。


 やがて、恒一はゆっくりとエンジンをかけた。


 今はまだ、かけない。


 そう決めた。


 だが、選択肢が目の前にあることは、これまでとは決定的に違っていた。


 会社に戻ると、いつもの仕事が待っていた。


 電話が鳴り、メールが来て、作業が進む。


 日常は何も変わらない。


 だが、恒一の中では、はっきりと一段階進んでいた。


 相馬は過去の人物ではない。


 今、この時間にもどこかにいる。


 その現実が、ようやく形になった。

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