古本屋の奥
日曜の午後、恒一は特に予定もないまま時間を持て余していた。
午前中に洗濯を済ませ、簡単に掃除もした。やるべきことは一通り終わっている。昼食もすでに済ませた。テレビをつけても内容は頭に入らず、かといって何もせずに過ごすには時間が長い。
こういうとき、以前なら何も考えずにそのまま時間を流していた。だが、ここ数日は少し違う。頭のどこかで、何かを途中のままにしている感覚がある。
テーブルの上に置いたままの引き出しに、手を伸ばしかけてやめる。
見ればまた考えてしまう。
考えても、すぐに答えが出るわけではない。
恒一は立ち上がった。
外に出ようと思った。
理由ははっきりしない。ただ、このまま部屋にいても同じことを繰り返すだけだとわかっていた。
上着を羽織り、鍵を持って外に出る。空は曇りがちで、昨日ほどの明るさはない。風も少し冷たい。春が近づいているはずなのに、まだ冬が残っているような空気だった。
車に乗り込み、しばらくエンジンをかけたまま考える。行き先を決めていなかった。
スーパーでもいいし、書店でもいい。特に目的がなくても時間は潰せる。
だが、最終的にハンドルを切ったのは、あの古本屋の方向だった。
理由は単純だった。あの店で見た写真が、頭から離れなかったからだ。
商店街に車を停め、歩いて店の前まで来る。昨日と同じように、入口は少し暗く見えた。
恒一は一度だけ立ち止まった。
ここに来ても、特別なことがあるとは限らない。ただの古本屋だ。情報があるとも限らない。
それでも、引き返す理由もなかった。
引き戸を開ける。
中に入ると、前と同じ匂いがした。紙と、少し湿った空気。外の明るさと切り離されたような空間だった。
店主は前回と同じ場所に座っていた。新聞ではなく、今度は古い雑誌をめくっている。こちらを見ても、特に反応はない。
恒一は奥に入らず、まずは前回と同じ棚へ向かった。
地元の資料のコーナー。
あの写真集がまだあることを確認して、少しだけ安心する。手に取り、ページを開く。
同じ場所。
同じ写真。
相馬製作所の看板。
前回見たときと、変わらないはずなのに、受け取り方が違う。もう「偶然かもしれない」とは思えなかった。
恒一はゆっくりとページをめくった。
工場の外観、作業風景、町並み。説明文は簡単なものしかないが、当時の空気は伝わってくる。
人が働いている場所だった。
生活があった場所だった。
今は何も残っていないが、それは「何もなかった」こととは違う。
恒一は本を閉じ、しばらくそのまま立っていた。
ふと、別の棚に目が向く。
その奥に、もう一列棚があるのに気づいた。前回は気にしていなかったが、少し奥まった位置にある。
通路を進むと、そこはさらに古い本が並ぶ場所だった。背表紙が色あせ、タイトルも読みにくいものが多い。
地方史、企業史、記念誌。
一般の読者向けというより、関係者がまとめた資料のような本が多い。
恒一はその中の一冊に手を伸ばした。
表紙に、簡単な文字で「○○町工業史」と書かれている。発行年はかなり古い。ページを開くと、印刷も簡素で、写真も少ない。
だが、内容は具体的だった。
町の中小工場の一覧、設立年、業種、経営者の名前。
目を通していくうちに、あるページで手が止まった。
——相馬製作所
はっきりと記載されている。
業種は金属加工。設立年は昭和四十年代。代表者の名前も載っている。
恒一はその名前を見て、少しだけ息を止めた。
「相馬 健一」
読みはおそらく「けんいち」か「けんいちろう」。はっきりはわからない。
だが、少なくとも相馬亮介とは別の人物だ。
父親だろうか。
そう考えるのが自然だった。
恒一はそのページを何度か見直した。
記載されている情報は多くない。それでも、ただの断片ではなく、現実の一部としてそこに存在している。
相馬は、この工場の息子だった。
その事実が、はっきりした形で目の前にある。
恒一は本を閉じ、しばらく動かなかった。
これで何かが解決したわけではない。だが、想像ではなく、事実として確認できたことの重さはあった。
ゆっくりと店主のほうへ歩く。
「すみません」
声をかけると、店主が顔を上げた。
「この本、どこで手に入れたんですか」
「それか」
店主は一度本を見てから言った。
「まとめて入った中の一つだな。古い会社の整理品だったと思う」
「会社の?」
「工場とか、事務所とか、そういうとこ。閉めるときに本が出てくるだろ」
恒一は頷いた。
「この中に載ってる会社、まだ残ってるところありますか」
「ほとんどないな」
店主はあっさりと言った。
「時代が違う。あの頃の町工場は、今みたいな形じゃ続かない」
その言い方には、特別な感情は乗っていなかった。ただの事実として言っている。
「相馬製作所って、知ってますか」
恒一が聞くと、店主は少し考えた。
「名前くらいは聞いたことあるな」
「どんな会社だったかは」
「詳しくは知らん。ただ、評判が悪かったって話は聞かない」
それは、良くも悪くもない評価だった。
「閉めた理由は」
「それは知らん。だが、あの規模だと、どこも似たようなもんだ」
店主はそれ以上話さなかった。
恒一は礼を言って、本を棚に戻した。
店を出ると、外の光が少し強く感じられた。曇ってはいるが、店内との対比で明るく見える。
商店街を歩きながら、恒一は考えていた。
相馬の父。
工場。
閉鎖。
これで、過去の輪郭が少しはっきりした。
だが、それでもまだ足りない。
相馬自身がどう考えていたのか。
何を選んだのか。
そこは、まだ見えていない。
車に戻り、エンジンをかける。
どこかへ向かう気にはならなかった。そのまま帰ることにする。
部屋に戻ると、少しだけ疲れを感じた。何かをしたわけではないが、考えることが多かったせいかもしれない。
椅子に座り、しばらく動かない。
ここまで来て、ようやく思う。
これは単なる偶然ではない。
相馬は、自分にこの場所を見せた。
そして、その先にあるものに気づかせた。
それが意図的かどうかはわからない。
だが、少なくとも無関係ではない。
恒一は目を閉じた。
過去は動かない。
だが、見え方は変わる。
その変化が、今始まっている。




