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水面の部屋  作者: antild


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10/13

もう一度、あの場所へ

 土曜の朝、恒一は目覚ましをかけずに起きた。時計を見ると八時半を少し過ぎている。平日より遅いが、寝過ぎというほどでもない。布団の中でしばらく考え事をしてから、体を起こした。


 昨日は父のことを思い出していたせいか、眠りは浅かった気がする。だが、気分はそれほど悪くなかった。むしろ、頭の中が少し整理されている感じがあった。


 顔を洗い、簡単に朝食を済ませる。トーストとコーヒー。休日はこれで十分だった。


 テーブルに座ったまま、引き出しから地図と紙を取り出す。


 ここ数日、同じ動作を繰り返している。それでも、見るたびに少しずつ感じ方が変わる。


 ——来たなら、これで十分だと思う。無理に探さなくていい。


 最初は意味がわからなかった。

 次は、場所の確認だと思った。

 今は、もう少し別の意味がある気がしている。


 相馬は、あの場所を見せたかったのだろうか。

 それとも、そこに来た「事実」だけが必要だったのか。


 恒一はしばらく考えたあと、立ち上がった。


 もう一度、あの場所に行ってみようと思った。


 理由ははっきりしない。何か新しいものが見つかるとも思えない。それでも、前回とは違う見え方をするかもしれない、という感覚があった。


 身支度を整え、外に出る。空はよく晴れていた。風も弱く、ここ数日の中ではいちばん穏やかな天気だった。


 車を走らせ、旧新川橋の近くへ向かう。道はすでに覚えていた。迷うこともなく、同じ場所にたどり着く。


 車を停めて外に出ると、空気が少し柔らかく感じられた。川の水面も、前に来たときより穏やかに見える。


 橋を渡り、神社の前を通る。境内には誰もいない。前回と同じ光景だが、違和感はなかった。


 裏手の道に入り、空き地のほうへ進む。


 フェンスの前で立ち止まり、中を見た。


 やはり、何もない。

 雑草と、コンクリートの残骸だけ。


 だが、今回はすぐに視線を外さなかった。


 しばらくそのまま見ていると、いくつかの細かいことに気づく。地面の一部が不自然に平らになっている場所、コンクリートの形、残っている基礎の配置。


 完全に消えたわけではなく、痕跡が残っている。


 ここに工場があった。

 それは間違いない。


 恒一はフェンスに手をかけた。中に入ることはできないが、近づくことで見えるものもある。


 しばらく見ていると、遠くから声が聞こえた。


「何か用ですか」


 振り向くと、年配の男が立っていた。作業着姿で、手には草刈り用の道具を持っている。


「いえ、ちょっと見てただけです」


「この土地、関係者ですか」


「違います」


 男は少しだけ警戒した様子だったが、すぐに表情を緩めた。


「ここ、昔工場だったんですよね」


 恒一がそう言うと、男は頷いた。


「ああ、あったな。もうだいぶ前だけど」


「相馬製作所って」


「そうそう、それ」


 あっさりと肯定された。


「知り合い?」


「いや、名前を聞いただけで」


「もう何も残ってないけどな」


 男はそう言って、フェンスの中を見た。


「壊してから、しばらくそのまま。買い手もつかなくてね」


「いつ頃まであったんですか」


「二十年くらい前かな。社長が亡くなって、そのまま閉めたって話だった」


 古本屋で聞いた話と一致する。


「家族の人は」


「さあな。息子がいたって聞いたことあるけど、どうなったかは知らない」


 恒一は少しだけ間を置いた。


「その人、ここに戻ってきたりしてますか」


「さあ……見たことはないな」


 男はそれ以上は知らない様子だった。


「危ないから、中には入らないでくださいね」


「はい」


 軽く会釈をして、男は別の場所へ移動していった。どうやらこの土地の管理に関わっているらしい。


 恒一はもう一度だけ空き地を見た。


 新しい情報はほとんどなかった。

 だが、直接話を聞いたことで、現実感は増した。


 ここは確かに相馬の家だった場所だ。


 恒一はその場を離れ、神社の前まで戻った。境内の石段に腰を下ろし、少しだけ休む。


 周囲は静かだった。遠くで車の音がする程度で、人の気配はほとんどない。


 ポケットから紙を取り出し、もう一度読む。


 ——来たなら、これで十分だと思う。無理に探さなくていい。


 探さなくていい、という言葉が引っかかる。


 探せば、何か見つかる可能性もある。

 だが、相馬はそれを望んでいない。


 あるいは、これ以上探しても意味がないということなのか。


 恒一は紙を折りたたみ、しばらく黙っていた。


 来たことで、何かが終わったのか。

 それとも、ここから始まるのか。


 はっきりしないまま、時間だけが過ぎていく。


 やがて立ち上がり、車へ戻った。


 帰り道、特に寄り道はしなかった。まっすぐアパートへ戻る。


 部屋に入ると、昼の光が差し込んでいた。カーテンを開けたまま出ていたらしい。


 靴を脱ぎ、テーブルの前に座る。


 何かを得たわけではない。

 だが、何も変わらなかったとも言い切れない。


 少なくとも、あの場所が「過去の一部」であることは確かになった。


 恒一は紙を引き出しに戻した。


 これ以上はどうするべきか。


 すぐに動く必要はない気もするし、このままにしておくのも違う気もする。


 考えても結論は出なかった。


 ただ、ひとつだけはっきりしていることがあった。


 相馬は、何かを残した。

 それをどう受け取るかは、自分次第だ。


 恒一は椅子にもたれ、天井を見た。


 休日の午後は、時間の流れがゆっくりだ。

 その中で、少しずつ考えるしかない。


 急ぐ話ではない。

 だが、無視できる話でもなかった。

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