もう一度、あの場所へ
土曜の朝、恒一は目覚ましをかけずに起きた。時計を見ると八時半を少し過ぎている。平日より遅いが、寝過ぎというほどでもない。布団の中でしばらく考え事をしてから、体を起こした。
昨日は父のことを思い出していたせいか、眠りは浅かった気がする。だが、気分はそれほど悪くなかった。むしろ、頭の中が少し整理されている感じがあった。
顔を洗い、簡単に朝食を済ませる。トーストとコーヒー。休日はこれで十分だった。
テーブルに座ったまま、引き出しから地図と紙を取り出す。
ここ数日、同じ動作を繰り返している。それでも、見るたびに少しずつ感じ方が変わる。
——来たなら、これで十分だと思う。無理に探さなくていい。
最初は意味がわからなかった。
次は、場所の確認だと思った。
今は、もう少し別の意味がある気がしている。
相馬は、あの場所を見せたかったのだろうか。
それとも、そこに来た「事実」だけが必要だったのか。
恒一はしばらく考えたあと、立ち上がった。
もう一度、あの場所に行ってみようと思った。
理由ははっきりしない。何か新しいものが見つかるとも思えない。それでも、前回とは違う見え方をするかもしれない、という感覚があった。
身支度を整え、外に出る。空はよく晴れていた。風も弱く、ここ数日の中ではいちばん穏やかな天気だった。
車を走らせ、旧新川橋の近くへ向かう。道はすでに覚えていた。迷うこともなく、同じ場所にたどり着く。
車を停めて外に出ると、空気が少し柔らかく感じられた。川の水面も、前に来たときより穏やかに見える。
橋を渡り、神社の前を通る。境内には誰もいない。前回と同じ光景だが、違和感はなかった。
裏手の道に入り、空き地のほうへ進む。
フェンスの前で立ち止まり、中を見た。
やはり、何もない。
雑草と、コンクリートの残骸だけ。
だが、今回はすぐに視線を外さなかった。
しばらくそのまま見ていると、いくつかの細かいことに気づく。地面の一部が不自然に平らになっている場所、コンクリートの形、残っている基礎の配置。
完全に消えたわけではなく、痕跡が残っている。
ここに工場があった。
それは間違いない。
恒一はフェンスに手をかけた。中に入ることはできないが、近づくことで見えるものもある。
しばらく見ていると、遠くから声が聞こえた。
「何か用ですか」
振り向くと、年配の男が立っていた。作業着姿で、手には草刈り用の道具を持っている。
「いえ、ちょっと見てただけです」
「この土地、関係者ですか」
「違います」
男は少しだけ警戒した様子だったが、すぐに表情を緩めた。
「ここ、昔工場だったんですよね」
恒一がそう言うと、男は頷いた。
「ああ、あったな。もうだいぶ前だけど」
「相馬製作所って」
「そうそう、それ」
あっさりと肯定された。
「知り合い?」
「いや、名前を聞いただけで」
「もう何も残ってないけどな」
男はそう言って、フェンスの中を見た。
「壊してから、しばらくそのまま。買い手もつかなくてね」
「いつ頃まであったんですか」
「二十年くらい前かな。社長が亡くなって、そのまま閉めたって話だった」
古本屋で聞いた話と一致する。
「家族の人は」
「さあな。息子がいたって聞いたことあるけど、どうなったかは知らない」
恒一は少しだけ間を置いた。
「その人、ここに戻ってきたりしてますか」
「さあ……見たことはないな」
男はそれ以上は知らない様子だった。
「危ないから、中には入らないでくださいね」
「はい」
軽く会釈をして、男は別の場所へ移動していった。どうやらこの土地の管理に関わっているらしい。
恒一はもう一度だけ空き地を見た。
新しい情報はほとんどなかった。
だが、直接話を聞いたことで、現実感は増した。
ここは確かに相馬の家だった場所だ。
恒一はその場を離れ、神社の前まで戻った。境内の石段に腰を下ろし、少しだけ休む。
周囲は静かだった。遠くで車の音がする程度で、人の気配はほとんどない。
ポケットから紙を取り出し、もう一度読む。
——来たなら、これで十分だと思う。無理に探さなくていい。
探さなくていい、という言葉が引っかかる。
探せば、何か見つかる可能性もある。
だが、相馬はそれを望んでいない。
あるいは、これ以上探しても意味がないということなのか。
恒一は紙を折りたたみ、しばらく黙っていた。
来たことで、何かが終わったのか。
それとも、ここから始まるのか。
はっきりしないまま、時間だけが過ぎていく。
やがて立ち上がり、車へ戻った。
帰り道、特に寄り道はしなかった。まっすぐアパートへ戻る。
部屋に入ると、昼の光が差し込んでいた。カーテンを開けたまま出ていたらしい。
靴を脱ぎ、テーブルの前に座る。
何かを得たわけではない。
だが、何も変わらなかったとも言い切れない。
少なくとも、あの場所が「過去の一部」であることは確かになった。
恒一は紙を引き出しに戻した。
これ以上はどうするべきか。
すぐに動く必要はない気もするし、このままにしておくのも違う気もする。
考えても結論は出なかった。
ただ、ひとつだけはっきりしていることがあった。
相馬は、何かを残した。
それをどう受け取るかは、自分次第だ。
恒一は椅子にもたれ、天井を見た。
休日の午後は、時間の流れがゆっくりだ。
その中で、少しずつ考えるしかない。
急ぐ話ではない。
だが、無視できる話でもなかった。




