表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水面の部屋  作者: antild


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/13

春先の得意先

 篠崎 恒一は三十二歳で、地方都市にある印刷会社の営業をしていた。勤めて九年目になる。仕事に大きな不満があるわけではないが、やりがいを胸を張って言えるほどでもなかった。毎日同じように会社へ行き、得意先を回り、見積書を出し、納期を確認し、社内と客先のあいだで話をつなぐ。向いているのかどうか、いまだによくわからないまま続いている。


 会社は市内の川沿いにあった。三和印刷という社名で、古くから学校案内や自治会の広報、地元企業のパンフレットなどを手がけている。建物は古く、工場の機械も新しいとは言えない。それでも、地元ではそれなりに名前が通っていた。


 恒一は朝八時半すぎに会社へ着いた。事務所には経理の松木が先に来ていて、机の上で伝票を並べていた。


「おはようございます」


「おはよう」


 松木は顔を上げて短く返した。五十代後半で、社内の事務を長く一人で回している。無駄なことはあまり言わないが、必要なことはきちんと言う人だった。恒一は自分の机に鞄を置き、パソコンを立ち上げた。メールを確認し、前日の営業日報を入力する。学校関係の印刷物は年度替わりで動きがあるが、民間の案件はここ数年ずっと厳しい。紙代が上がり、客先も経費に敏感になっている。必要なものだけを頼み、余分なものは作らない。それは当然のことだが、印刷会社にとってはその当然がじわじわ効いてくる。


 九時前になると他の社員も出社してきた。工場長の寺尾、制作の村瀬、制作補助の野本、専務の今西。社長は外回りが多く、この時間にはいないことも多い。


 短い朝礼のあと、恒一は営業車の鍵を取り、午前の外回りに出た。今日は市内を四件回る予定だった。文具店、学習塾、写真館、そして新しく話をもらっている不動産会社。どこも大口の案件ではないが、こういう小さな取引を切らさないことが営業の仕事だった。


 最初の文具店では、店主に新学期向けのチラシの話をしたが、反応はよくなかった。


「去年も作ったけど、あんまり動かなかったからね」


「そうですか。部数を少なめにして様子を見る形でも」


「うーん、今年はいったん見送りかな」


 店主は悪びれた様子もなく言った。長い付き合いのある取引先ほど、断るときにははっきりしている。恒一も無理には押さなかった。無理をして一度注文をもらっても、次につながらないことが多い。


「また必要な時に声をかけてください」


「そうするよ」


 店を出て車に戻ると、時計は十時を少し回っていた。車内で次の訪問先を確認しながら、恒一はため息をつくほどでもない息をひとつ吐いた。朝一番の商談が流れると、気持ちの置きどころが少し難しい。落ち込むほどではない。ただ、今日はこういう日かもしれないと思う。


 二件目の学習塾では、担当者が不在だった。三件目は昔から付き合いのある写真館だった。市街地から少し外れた住宅地の一角にある、小さな店である。建物は古く、表に飾られた家族写真もどこか昔のまま時間が止まっているように見える。


 恒一が中に入ると、店主の小宮が奥から出てきた。


「おう、篠崎くん」


「こんにちは。ご無沙汰してます」


「まあ座って」


 小宮は七十を過ぎているが、まだ店を続けていた。最近は写真の現像そのものより、証明写真や出張撮影、昔のアルバム整理の相談が増えているらしい。印刷会社との付き合いも、写真台紙や案内はがきの注文が中心だった。


 恒一は見本帳を出して、春の撮影会向けの案内はがきの話を切り出そうとしたが、小宮は先に別のことを言った。


「その前に、ちょっと聞きたいことがあるんだ」


「はい」


「篠崎って、ほかにこの町で親戚とかいるかい」


 恒一は少し考えてから首を振った。


「近くにはいません。母は市内に住んでますけど、親戚はほとんど県外です」


「そうか」


 小宮はカウンターの上に置いてあった紙を一枚取り、恒一の前に置いた。メモ用紙の裏に、簡単な地図が手書きで描かれていた。川、橋、神社、細い道。かなり大雑把だが、どこか実在の場所を示しているのはわかる。


「少し前にね、これを置いていった人がいるんだよ」


「これを?」


「そう。篠崎という人に渡してくれって」


 恒一は紙を見たまま聞き返した。


「私に、ですか」


「下の名前までは言わなかった。ただ、印刷会社に勤めてるはずだって」


 恒一は顔を上げた。


「誰ですか、その人」


「相馬って名乗ってたな」


 その名前を聞いて、恒一はすぐには反応できなかった。知らない名前ではない。むしろ、長く会っていないからこそ、急に現実感が薄くなる名前だった。


 相馬亮介。高校の同級生で、卒業後は一度も会っていない。連絡先もとっくに消えている。仲が悪くなったわけではなかったが、自然に切れた関係のひとつだった。


「同級生です」


「やっぱりそうか。見た感じ、そんな気はしたよ」


 小宮は紙コップでお茶を出しながら続けた。


「その人、先週ふらっと来てね。証明写真でも撮るのかと思ったら、この紙を預かってくれって言うんだ。うちは人づての頼まれごとを受ける店じゃないんだけど、まあ断るほどのことでもないし」


「何か言ってましたか」


「詳しくは。ただ、会えなかったら別にいい、みたいな話し方だったな。急いでるようにも見えたし、そうでもないようにも見えた」


 昔から写真館には、何となく人が話を置いていくところがある。写真そのものが記録と記憶に関わるせいかもしれない。小宮の店もそんな空気を持っていた。


 恒一は紙を手に取った。見覚えのある場所かどうか判断がつかない。古い橋と神社があるというだけなら、市内にはいくつも似た景色がある。


「この地図の場所に行けばわかる、って言ってましたか」


「そんな感じだったかな。あんまりはっきりは言わなかった」


「電話番号とかは」


「聞いてない」


 小宮は悪びれずに言った。恒一も責める気にはなれなかった。まさか自分に関係のある話だとは思わないだろう。


 そのあと、いちおう本来の仕事の話もした。写真台紙の見積もり、春の案内はがきの仕様、納期の確認。だが、恒一の気持ちは半分ほど別のところにあった。相馬がこの町に来たこと。しかも自分に何かを伝えようとして、はっきりとは伝えなかったこと。それが妙に引っかかった。


 店を出て車に戻ると、午前十一時半だった。運転席で紙をもう一度広げる。思い切りがいいわけではないが、几帳面に描かれている。相馬は昔から字が整っていた。ノートの字も読みやすかったし、板書を写すのも早かった。そんなことまで思い出した。


 高校時代の相馬は、目立つ生徒ではあったが、派手なタイプではなかった。運動部に入っていたわけでもなく、生徒会にいたわけでもない。それでも何となく人が集まる。話がうまいというより、落ち着いていて、相手に合わせすぎないところがあった。恒一はそういうところを少し羨ましく思っていた。


 自分は昔から、人に合わせるほうだった。空気が悪くならないようにする。無駄に反対しない。頼まれたら断らない。そのかわり、何を考えているのか自分でも曖昧になることが多い。学生のころはそれでもよかったが、社会人になると、主体性がないとか、決めきれないとか、別の言い方で返ってくる。


 車を走らせながら、恒一は昼食をどうするか考えた。午後も二件ある。どこかに入るほどではないので、コンビニで済ませることにした。おにぎりと味噌汁を買い、河川敷近くの駐車スペースで昼をとる。車の窓の外では、散歩中らしい高齢の夫婦がゆっくり歩いていた。


 食べ終えてからも、恒一はすぐには車を出さなかった。地図を見て、スマートフォンの地図アプリを開き、橋と神社の位置を照らし合わせる。候補は二つか三つありそうだった。川の形からすると、旧市街の北側かもしれない。あのあたりには使われなくなった工場跡地もあったはずだ。


 なぜ相馬がこんな回りくどいことをしたのか。単に連絡先がわからなかったのかもしれない。しかし、同級生をたどれば方法はいくらでもありそうだった。SNSでも探せる時代である。それなのに、写真館に紙を預けるというやり方が、いかにも中途半端だった。


 ただ、その中途半端さは少し相馬らしい気もした。昔から、必要以上に人に踏み込まないところがあった。親しい相手にも、言うべきことを全部言うわけではない。黙っていることが不親切だとまでは思っていないような、そういうところがあった。


 午後の不動産会社では、新規のチラシ案件について少し前向きな話ができた。部数は小さいが、今後の継続案件になるかもしれない。見積もりを早めに出してほしいと言われ、恒一は手帳にメモを取った。こういうときは気持ちが少し戻る。仕事は単純で、数字と段取りに落とし込める部分があるから救われる。


 会社に戻ったのは夕方五時半すぎだった。事務所では寺尾が工場から出てきて、学校案内の紙質変更について確認してきた。村瀬からはデータ修正の相談を受けた。野本は奥の机で黙って作業している。社内にいると、自分の時間というより会社の流れの中に体を置いている感じが強くなる。外回りより気が楽な部分もあるが、逆に切り替えができないこともある。


 見積もりの下書きを作り、メールを二本送り、日報を入力してから退社した。時刻は七時を回っていた。外はもう暗い。三月の終わりに近いとはいえ、夜の冷え込みはまだ冬の続きのようだった。


 恒一の住むアパートは駅からも会社からも少し離れた場所にある。一階の角部屋で、広くはないが、一人で暮らすには十分だった。帰宅してスーツを脱ぎ、台所で湯を沸かす。冷蔵庫にあった野菜と冷凍うどんで簡単に夕食を済ませた。


 食後、テーブルの上に昼の紙を広げる。部屋の明かりの下で見ると、ますますただの手書き地図に見えた。大げさな意味があるようにも思えないし、かといって無意味とも言い切れない。


 相馬とは卒業以来会っていない。大学も就職先も違ったし、共通の友人と連絡を取り合うこともなかった。昔の同級生との縁は、気づけば薄くなっている。結婚式でもない限り、わざわざ再会することも少ない。


 それでも、完全に過去の人かと言えばそうではない。名前を聞いてすぐに顔が浮かぶし、教室の空気まで思い出せる。人間関係には、切れたとは言い切れないまま残るものがある。


 恒一はスマートフォンを手に取り、相馬の名前を検索しようとしてやめた。できなくはないだろうが、そうしてしまうとこの紙を手渡された意味がなくなる気がした。意味というほどのものが本当にあるのかはわからない。それでも、せっかく渡されたのだから、一度は場所を見てみてもいいのではないかと思った。


 土曜は会社が休みだ。洗濯と買い物くらいしか予定はない。地図の候補地を回る時間はある。


 恒一はメモ帳に、思い当たる場所を三つ書いた。旧新川橋の近く、北町稲荷の裏手、元の鉄工所跡地。どれも旧市街のはずれにある場所だ。学生のころに通ったことがあるような、ないような場所ばかりだった。


 考えてみれば、自分から何かを確かめに行くこと自体が久しぶりだった。仕事では客先へ行くが、それは予定に沿って動いているだけで、自分の意思でどこかに向かっている感じとは少し違う。休みの日も、必要な買い物以外では遠くへ行かない。面倒というより、そうしなくても生活が回るからだった。


 だが、生活が回ることと、何も引っかからずに過ごせることは別だった。恒一はこの数年、自分の暮らしに大きな不満がない代わりに、はっきりした手応えも持てずにいた。会社では中堅と言われる年齢になったが、特別頼られている実感は薄い。結婚の予定もない。母とは月に一度会う程度で、親子仲が悪いわけでもないが近いとも言えない。何かが壊れているわけではないが、何かが進んでいる感じもあまりない。


 そういう時に、昔の知人の名前は思った以上に効く。昔の自分と今の自分が、思いがけず同じ場所に並ぶからだ。


 恒一は紙を折りたたみ、財布の中にしまった。なくさないようにというだけでなく、持ち歩くことを自分の中で決めたかった。


 寝る前に、母から来ていたメッセージに返信した。

「今度の日曜、昼でもどう?」

内容はそれだけだった。恒一は

「大丈夫。時間決まったら教えて」

と返した。やり取りは短い。母とはいつもこんな感じだった。


 布団に入っても、すぐには眠くならなかった。天井を見ながら、相馬のことを考える。高校のとき、どんな話をしていたか。最後にいつ会ったか。なぜ疎遠になったのか。決定的な出来事があったような気もするし、ただ自然に切れただけのような気もする。その曖昧さがいちばん気になった。


 人間関係は、終わる時より、終わったことに後から気づく時のほうが印象に残ることがある。いつから会わなくなったのか、どこで連絡をやめたのか、はっきりしないまま残る。


 明日、その場所に行ってみよう。

 恒一はそう決めて目を閉じた。


 たいしたことではない。ただ、地図を一枚もらって、気になったから見に行く。それだけのことだ。実際に行っても何もないかもしれないし、相馬本人にも会えないかもしれない。それでも、少なくとも今日一日ずっと頭に残っていたことには区切りがつく。


 眠りに入る前、恒一は自分が少しだけ落ち着いているのに気づいた。理由がわからないまま引っかかっているものより、確かめに行く予定のあるもののほうがまだ扱いやすい。そういうささやかな違いで、一日の終わり方は変わるのだと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ